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アサイゲルマニウムとは何なのか 第四章(長編連載~)2023年8月4日第7,8&9話掲載(第四章完結)


第四章 アサイゲルマニウムの研究 其の二:赤血球代謝促進

1.研究とは・・・なんだ

既に第一章で赤血球代謝促進仮説と入口となった研究の概略は記した。しかし、第二章に記述した通り、函館への移動と、薬事法違反告発、そして新研究所には動物研究の施設がなかったことで研究は完全に止まってしまった。
ぼくはその後、前章に記した通り動物飼育施設がなかったためにニッテンで行ってきた研究とは全く別の道を歩かなくてはならなくなった。しかし、今に至るまで何もしなかったわけでもなく、前章(第三章)の4項で記した北大獣医学部の岩永先生のご協力で得た胆汁分泌の結果を受けて、胆汁の成分分析を行いたいと強く感じ、これを何とかすることを目指すようになった。
ぼくは函館研究所で唯一人の生物系研究のメンバーだった。函館研究所の北面半分はアサイゲルマニウムの製造プラントだ。南面は五分の1が品質管理の実験室、そして五分の2が化学系実験室、残りの五分の1が生物系の実験室というくらいの床面積配分だ。五分の1といってもかなり広い。その広いエリアが2つの部屋に分かれている。この二部屋を自由に使って研究して良いという状況だった。大学ならば一部屋あたりに4,5人が実験していてもおかしくない広さで、しかも実験台以外のスペースが無駄に広い(笑)そこに狛江研究所から運んできた古い分析機器が周囲の実験台に並んでいる。

生物実験室1(実験中の研究員がいない隙に撮影)
生物実験室2(ぼく1人の時より物がかなり増えました)


狛江研究所には生物室に動物実験施設が含まれていた。しかし、函館の研究所を設計したときに、非常に大掛かりな設備を入れ込んだため、建築費がかなり嵩んでしまい削られたのだという・・・。函館研究所には屋外に大きな倉庫があり、狛江の研究所を取り壊すときに多くの器具を運んできて、倉庫に置かれていた。ぼくはその中に動物飼育ラックがあることを見つけた。そこでこっそりこれを移動して、倉庫の中でラットを飼育できるようにした。
そして、ウイスターラットという白ネズミを二匹購入し、まずはアサイゲルマニウムの便の色変化に対する作用の再確認をおこなった。そして、やはりアサイゲルマニウムを食べさせるとウンチの色が黄色くなると確認できた。この時、ラットたちには名前をつけた・・・バイオ君と、ケミ君。正式名称はバイオロジーとケミストリーだ。ださすぎる。でもこの二匹がきっかけで生物学的な研究は再開された。
さてそんな頃、会社は薬事法のことで役員交代があった。まず代表取締役の変更があり、柿本紀博社長が(薬事法の事件の責任を取る形で)退任して相談役となり、当時の事件に関する様々な処理を請け負ってくださった志柿松作新社長が代表に就任した。また、佐々木義憲専務取締役が退任して学術部長であった大西さんが常務取締役に就任した。佐々木さんはこの頃から函館に月一で来るようになり、研究部の面倒も見るようになった。果たしてあの時の立場はなんだったのだろうか・・・。聞いたような気もするが、忘れてしまった。元々は若い頃には機器分析を手掛け、役員就任前には研究部長だった方だ。毎月の来訪では研究部会があり、研究の方向性などが話し合われた。また、夜には希望者で街に出かけ、ナイトミーティングと称してほろ酔いで様々なことを楽しく語った。その中で、非常に印象に残ったことがある。前章の化学的な相互作用の研究のことは良いとして、アサイゲルマニウムの機能を考える上では生き物を使わない研究では最終的な飲用での効果というところでは本当に作用するのか分からない。動物実験の設備のない中では仮説の内容があっているのかを確かめようがない。ぼくはアサイゲルマニウムによる赤血球代謝促進仮説が正しいのかを知りたいと思いつつ、確認できないことに苛立っていた。そして、その当時よく通っていた『太つ腹』という店の小上がりで、佐々木さんに思い切って質問した。一つは行き詰まっている原因である動物飼育施設に関することで、最初の設計段階では予定があったのに、どうして最終的な建屋には組み込まれなかったのか。という点だった。ぼくの直接の上司は研究部生物室の小林弘行さんだった。直接一緒に働いたことはなかったが、ニッテンでの研究では毎月の研究レポートを提出し、それを読んだ小林さんから電話がかかってきて不明点を電話で質問されて答えることを約一年半繰り返していた。時々東京で会う時には飲みながら楽しく話させてもらった。小林さんは最終的に函館移転のときに「動物棟を作らないなら自分の居場所はない」「必要ないということだと思う」と言って、「今後は中村くんが室長だから、頑張ってね」との言葉とともに退職された。ぼくも、工場立ち上げのバリデーションが終了し、薬事法の告発でPCなどを持っていかれてしまったときに、動物実験さえできれば・・・と感じたものだった。その思いがあったので改めて「何故函館には動物実験施設を作らなかったのですか」と思い切って佐々木さんに問いかけたのだ。
そこには意外な答えが返ってきた。それは「作っても良かったけれど、あまりにも過剰な施設を要望されたのでカットしたんだよ」というものだった。じゃあ、過剰な施設でなければあっても良かったのか。という感想をもった。
もう一つ聞いたことは「研究ってなんですか?」という単刀直入な問いだった。
これに対し、佐々木さんは「研究とは、追究を研ぎ澄ますことなり!!」と明快な口調で瞬時に回答したのだ。
ぼくは「は、はぁ。なるほど」としか答えようがなかった。読んで字の如し。

2.勉強嫌いなぼくと研究(小学生から大学入学まで)

ここでしばらく脱線することにする。研究とぼくの関係を書く上ではどこかに必要なことなので、ちょっと付き合っていただきたい。実は、ぼくの父親は研究者だった。宇宙開発の分野でイオンエンジンという宇宙空間を移動する推進力の研究を行っており、今日では「はやぶさ」で有名になっているが、ぼくが小学生の頃(1970年代後半)はあまり知られておらず、特にその時代はロケットの打ち上げに結構な確率で失敗していたことを記憶している。種子島での打ち上げセンターでの打ち上げに、当時は父が一喜一憂していたように薄っすらと覚えている。父はぼくが夜中におしっこに目覚めてトイレに行くとき、真っ暗な部屋にスタンドライトの明かりだけで膨大なデータのシートや図面を眺めたり、レポート用紙のようなものに何か計算をしたり書き込んだりしていた。
寝ずに仕事をしている様子を見て、大変だと感じていた。そんな父の姿を見て、ぼくは研究者だけはなりたくない(なれない)。好きな楽しいことをして生きていきたい。そんなことを感じていた。
仕事場が三鷹の航空宇宙技術研究所(こうぎけん)というところで、よくぼくたち兄弟を休みの日に”こうぎけん”に連れて行ってくれた。それは広い国の研究所(科学技術庁)の敷地だったので、誰も居ないところで遊ぶことができ、環境も良かったからだ。ただ、トイレに行きたくなると建物の中の研究室に入ることになる。休みの日の研究室の廊下は暗く、無機質で音もなく、時々機械のコンプレッサー音などがするのに驚き、恐れおののいた。また、研究室の広い実験場はイオンエンジンを設置した真空タンクがあり、階段で架台に登ると覗き窓がついており、中を見ることができた。(参考:東京工芸大学宇宙工学研究室上野研究室ページ.ぼくの幼少期の記憶では以下の写真のようなタンクの中に鎮座していました)
https://www.ueno-lab.jp/2020/03/23/jaxa%e5%ae%87%e5%ae%99%e7%a7%91%e5%ad%a6%e7%a0%94%e7%a9%b6%e6%89%80-2020%e5%b9%b4%e5%ba%a6%e5%85%b1%e5%90%8c%e5%88%a9%e7%94%a8%e3%81%ab%e5%85%b1%e5%90%8c%e7%a0%94%e7%a9%b62%e4%bb%b6%e3%81%8c%e6%8e%a1/

真っ暗なタンク内にキセノンビーム?が蜂の巣状にぼぉーつと光っているのが観えて、非常に美しかったけれど、この世のものではないような怖さを感じた。
(参考:以下のJAXA宇宙科学研究所のページの画像を見てもらえば、だいたい同じ感じだったと思います。ぼくの40年以上前の少年期の記憶なので完全ではないですがあしからず)
https://www.isas.jaxa.jp/feature/forefront/161130.html
そんな経験をしていて、研究というのは難しく、大変で、なんだか不気味で、おっかない・・・そんなイメージが付いていた。そして、先述したように仕事を真夜中まで寝ずにしなければならない。勉強が苦手だったぼくは、なおさら研究とは縁遠かった。
すこぶる勉強のできた頭の良い兄は、大学は東大文系で研究とは無関係な職場に・・・、何故か勉強嫌いで“一生懸命になにかに取り組むということ”が得意ではない(嫌いといったほうが正しい)ぼくが、浅井ゲルマニウム研究所という“社名に研究を冠した会社”の、しかも研究部門に就職した。そして、なんの因果か浅井先生の本に感激し、また師匠のニッテンの研究者の皆さんの姿勢に感銘を受け、気づけば研究者っぽく調べ物をしていろいろな仮説を立て、実験で明らかにするということを行うようになっていたのだ。


さて、ぼくは小学校の頃から勉強は好きではなかった。両親とも有名国立大学の理系学科を出ており、兄に対しては教育熱心。ある意味では頭の良い兄のお陰で注目されずに済んだ。学校ではだいたい二年上の優秀な兄と比較され続けたが、そんなことは何となく嫌なことではあるがお構いなしだ。アレルギーのアトピー(性皮膚炎)持ちのぼくは、物心ついた時から皮膚が弱く、腰から膝裏下にかけて臀部から大腿部に酷い湿疹があった。常に赤くブツブツがあり、痒みのない状況がなかった。学校で授業中に続けて座っているとお尻のジュクジュクした痒みが酷くなり、じっとして座っていることができなかった。勉強などに集中することはとてもできず、先生の言っていることを続けて理解する事ができるような集中力はつかなかった。しかし、遊ぶことには痒みも忘れ、走り回り、放課後の時間だけは楽しかったのを記憶している。特に自転車で走り回ることが好きで、サドルに痒いお尻を擦りつけながら漕ぎ続ければ、自然豊かな場所に行きつける。自然が好きで、アウトドア好きになっていったのは当然の成り行きだった。
ぼくは東京が嫌いで、特に親に怒られると無性にアトピーが痒くなる(アトピー持ちの子をお持ちの親御さんへ・・・ここ大事です(笑)ストレスは厳禁)。旅に出ていると痒みも弱まり、東京がいけないのか、実家がいけないのか、とにかく大学では地方に行き家を出たいとの思いが強かった。中学・高校時代は自転車旅行に明け暮れ、北海道自転車旅行をしたいと思ったのを親に止められたので、北海道へのあこがれが強くなった。幸い、当時は北海道大学以外の道内国立大学はいわゆる偏差値が比較的高くない(世間一般には低いと言う)ので、受験のターゲットになった。それでも最初の受験ではギリギリ親元を離れられそうな距離感にある山梨大学を受験し、試験に落ちた。この時には物理系が好きだったので、電気・電子系の工学部を目指していたが、工学部出の父がぼそりと「これからは農学がいいんじゃないか・・・」と言ったのだ。曰く、「人は機械がなくても生きられるが、食がなければ生きられない」というのだ。第二次大戦の時に幼少期を過ごして食べることに苦労した父は、あまり食には興味がなく、おいしい食べ物を前にして「生きるために食べるんだ」ということをよく口にした。物理研究者の父が、家電やコンピュータなどの発展に伴って全盛だった電気・電子分野よりも農水系を勧めたのは意外だったが、北海道をあこがれの地に感じていたぼくがこれを受け入れるのは造作もない事だった。
もう一つ、ぼくの尊敬する塩沢忠さんのことも記しておきたい。塩沢先生は教会学校の野球チームである朝顔ファイターズの監督をしていた方で、野球に全く興味のなかったぼくが何故か所属したことで知り合った恩師だ。当時、東大の学生(確か法学部)だった塩沢先生は毎週ナケナシの金でぼくら小学生のガキども十数人に練習後のかけそば・かけうどんを奢ってくれた。みんなで食べるそばは最高のごちそうだった。未だにぼくが蕎麦好きなのは塩沢先生のせいだろう(笑)小学生の少年野球チームだったが、”教会学校に行くなら・・・”という不思議な条件で所属できるというチームで、ぼくはその決まりがあったから実家の隣のキリスト教朝顔教会に通うようになった。教会の日曜学校が終わったあと、午後は国立市にあるグラウンド(東京基督教大学のグラウンド)を借りて練習するために電車でみんなで出かけた。当時、メンバーは前述したように十数人だっただろうか。毎週土曜日の午後、監督は一軒一軒訪ねて周り、みんなの様子を聞き、明日来いよ!と声掛けしていたのだ。
ぼくは既に大学受験の頃はOBであったが、弟が監督に懐いており、時折我が家にも寄ってくれていた。ぼくの受験のことを心配し、一緒に考えてくれて「宜司は生き物好きだから、北海道大学の水産か帯広(畜産)もいいんじゃないか?」とアドバイスしてくれた。
それで、一気に北海道の大学を目指すようになった。生物学など学んだことがないぼくが、何故か農水系の学部を目指すという珍事になっていったのには、こんな理由があった。

2023年7月5日更新
つづく

3.勉強嫌いなぼくと研究(大学入学から大学院修了まで)

紆余曲折があり、浪人一年目に帯広畜産大を受験、あえなく落ちた。浪人二年目の挑戦はよせばいいのに北海道大学の水産学部と帯広畜産大学の農産化学科を受験した。帯広にはもう少し余裕を持って入れそうな学科があったのに、見栄を張って獣医の次に偏差値の高い学科にしてしまった。この結果、両方の大学から不合格通知が届いた。とうとう、親が怒り「自転車屋になれ」と言われ、ぼくもその気になっていた。サイクルショップ店員も楽しそうだ!いろんな自転車を作ろう・・・。

ところが、運命は不思議なもので、無理だろうと思いながら自宅で待っていた追加合格の確定の日に北大水産学部の追加合格の電話があった。これでサイクルショップ店員の道はなくなった。そして大学職員の方から「どうされますか?」と質問されたので、普通なら喜んで手続きをするのだろうが、ぼくは「あのぉ。帯広畜産大学の追加合格の発表は今日が期限なので、もう少し待ちたいのですが、だめですか?」と聞いた。電話から「えっ???」と声が聞こえてから、少しして「あまり待てませんが、分かりました、連絡ください」と言っていただいた。ネームバリューからもランクからも、普通なら北大水産を選ぶのだろう。

ぼくは、前年に帯広畜産大学を受験し、その広大な自然に満ちたキャンパスと環境にすっかり惚れ込んでいたのだ。それなら、もっと勉強すればよかったのだ。そして、十分入れそうな学科を受験すればよかったのだ。しかし、”天の配慮”か、程なくしてもう一度電話が鳴った。来たっ!


ぼくは帯広からの電話と直感した。そして実際にその電話は追加合格の知らせで、ぼくは帯広行の夢の切符を手に入れた!


冬の帯広畜産大学内で…

それでも、大学に入ってから勉強はほとんど手につかず、部活(弓道部)と遊びに明け暮れた。夜にはバイトと酒。日中は講義に出ても気づけば目が閉じ、なんとか出席だけはしているという状況。大学二年目からは親友二人とともに、三人で一軒家をシェアハウスした。それでも家賃が月45,000円で、広い庭と三台の車を止める駐車場がある家だったので、その前に住んでいた6畳一間、風呂・トイレ・台所共用の間借りアパートの家賃17,000円よりも安上がりだった。この親友の一人が大学の同期で首席入学だった得字圭彦くんだ。もう一人は白川洋孝くん。彼らは勉強嫌いなぼくを助けてくれ、留年しないように導いてくれた。そして、「中村の成績は無駄がないなぁ。落ちそうで墜落しない飛行機のようだ。超低空飛行(爆笑)」と言われていた。つまり取得単位はすべて『可』で、しかも60点以上が可なのだが殆どは60点でギリギリ通過していた。3年から4年目になる時には、中村さえ留年しなければ全員留年なしと言われていたが、彼らの手助けにより奇跡的に留年しなかった。さらに、奇跡だったのは、英語の内の一コマが出席簿の一人前の中澤くんを追試にしてしまい、彼が代わって追試を受け、その挙げ句に教授がその事に気づいたが、既にタイムリミットだったので追試無しで合格にしてくれた・・・という中澤くん身代わり事件があったことだ。彼の身代わりがなければ、ぼくは留年して、今のぼくは無かっただろう。彼の苦しみが、ぼくの救いに繋がったのだ!その時に中澤くんが言っていた「もぉー、参ったよぉ、勘弁してくれよぉ(泣)助かったぁ・・・」と、本当に助かったのはぼくだ(笑)そして、ぼくが所属した帯広畜産大学の農産化学科というのはこの学年で(学科再編のため)なくなったのだが、最後の農産化学科入学者は留年者が一人も出ずに卒業した珍しい年となった。全く自慢にもならない、恥ずかしい話であるが、ぼくが如何に勉強をしない人間であったかを理解してもらうためには記述しておかないわけにいかない。


結局のところ、大学卒業時に就職活動をしたものの合格する企業がなく、何故かぼくのことを気に入ってくれた研究室の大西助教授に大学院進学を勧められた。大西先生のエピソードとして一つ記しておこう。ぼくは大西先生の食品化学研究室に入ったが、当時先生はアメリカ留学中だった。帯畜大は3年目から研究室に所属する。ぼくは教授の伊藤精亮先生や助手の小嶋道之先生にゼミの手ほどきを受けた。実際のゼミ資料作りや準備のやり方は、みんな同じ研究室の先輩たち(4年生や院生)に教えてもらうのが普通だ。しかし、他の同期の学生と違い勉強をしない不真面目な学生だったので、先輩たちに教えてもらうことを好まず、英語の文献を辞書を見ながら適当に翻訳し、発表していた。半年くらいした時に大西先生がアメリカから戻ってきて、ぼくのゼミの順番だった時、前半半分ほどまで(要するに四分の一ほど)進めた時に、それまで苦虫を潰したような表情で聞いていた大西先生が「もう止めよっ!こんなの意味ないよ!今のエチル酢酸塩っていうのは酢酸エチルのことやろ!そんなのも調べてないんじゃ、これ以上聞いても時間の無駄やろ!」と怒鳴ったのだ。

ゼミの途中終了など前代未聞で、さすがのぼくもショックだった。じぶんなりに一生懸命訳して準備したつもりだったので、悔しくて強烈に落ち込んだ。そのあと、しばらくしてトイレに行くと、大西先生があとから来て、並んで用を足した。用を足しながら、「中村くんごめん、さっきは言いすぎた…。気にせんといて」と言って出ていった。

そんな、最悪の出会いだったが、4年生になった時に大西先生の下で研究することが決まった。与えてもらったテーマはコメの耐冷性と脂質不飽和度の関連性についての研究だった。できの悪いぼくを、見張るように?先生は毎日ぼくの席にやってくるようになった。「なぁーかむらくんよぉ。ちゃぁんとやってるぅ?まぁたマンガ読んどったんやろぉ」「いやいや、この通りデータまとめてますよ。マンガないじゃないですか」「いやぁ、またエッチなマンガ見てるんやないかと思って。フフフ。中村くん見てると、うちの息子見てるみたいでほっとけないんだよなぁ」というようなやり取りが出来るようになるまで関係は改善された。しかしぼくが勉強嫌いなのは、前述した成績の話の通りである。

ある時、先生から呼び出された「ちょっと座って・・・。中村くんよぉ。さすがに所属研究室の単位を可でとおるのはまずいぞぉ」「・・・だって、追試を受けることが望ましいものっていう張り紙だったじゃないですか。同じ時間に英語の単位の試験があったから、これ落とすと留年しちゃうんですよ」とぼくは口答えをした。・・・今思えば、何という言い草だろう。普通の学生なら英語の単位の試験のことを事前に相談に行って、折り合いをつけてレポートにしてもらうか、時間をずらしてもらうように交渉するのだろう。ぼくには可でもなんでも、通れば良い、単位さえ取れれば成績など関係ないという考えがあったのだ。

「就職試験の時に、ゼミの科目を可で通ったような学生は企業が採らないぞ・・・」と呆れながら悲しい目で見られたのを覚えている(笑)ある意味、予言通りになったのだが、そこ以上に成績全体を見てぼくを採用担当の方が採用しようとは思わないであろう。

ぼくほどの馬鹿者が大学院に進学・・・悪い冗談だ。しかし他の選択肢はなく、追加で2年間大学に残って研究する修士課程を受験して帯広畜産大学大学院畜産研究科生物資源科学専攻に進学することになった。


4.はじめての論文(大学院修士課程研究)

なにやらはじめてのお使いのパクリのようなタイトルだが、ぼくは概ね運だけは良い。結局、それも含めて”天の配慮”で生かされてきたのだろう。ぼくほど実験をしない大学院生はいなかっただろう。不思議と大学院進学が多かった同研究室の同期の仲間達、ぼくを含めて9人中5名が進学していた。みんな頑張って日夜研究し、努力していた。一方ぼくは適当に手を抜きながら実験していたが、それでも結果は出て同期生9名のうち在学中に研究論文を投稿した僅かなメンバーだった(たしか二人だけだったように記憶している)。ぼくの実験は北海道米のコメの油についての研究であり、寒冷地である北海道の米にとって重要な耐冷性と米油の脂質不飽和度に関する研究だった。一般に油というのは粘性があり、常温において固体のものと、低温において固体になるもの、低温になっても流動性をもつものが存在する。植物油の場合、構成成分である脂肪酸の構造が重要で、ざっくり言えば脂肪酸の中の不飽和結合が多いほど流動性が高い(やわらかい)。そのため、寒冷地の植物は寒さに直面したときに不飽和脂肪酸を多く持っていると寒冷ストレスに強く、低温障害が出ずに(枯れないで)生育できることが知られていた。

耐冷性の強い、冷害に遭いにくい米品種は不飽和脂肪酸を多く含むはずである。というのが仮説として成り立つ。もしも米の抽出油を分析して不飽和脂肪酸が多ければ=耐冷性が高いのなら、寒さに強い品種の育成で脂肪酸分析を行うことにより、高耐冷性品種のスクリーニングが容易にできるようになるかもしれない・・・というわけだ。そこで耐冷性の異なる3品種、すなわち強耐冷性の道北50号、やや耐冷性のゆきひかり、そして道産米としてはやや感受性のきらら397の米から油を抽出し、その成分を分析した。他にも農林20号やインド米などとの比較も行った。ゆきひかりは、今でこそアトピー改善に効果のある米として知られるが、炊いてすぐならOKだけれど、翌日にはパッサパサで美味しくない米だった。ちょうど北海道米としてはつややかで美味しいきらら397が出てきて、ここから北海道米の躍進がはじまった。まさか、ほしのゆめ、ゆめぴりかと美味しくなり続けて全国一にまでなるとは・・・当時想像もしなかった。これには育種による品種改良に努められた試験場の方々の努力が大きかっただろうと想像する。

さて、研究は思っていたのと逆の結果(゜o゜;) で、耐冷性の強いほど脂肪酸不飽和度が低いというデータで、考えていたのとは逆の相関がでた。これがバラバラなら論文にはならなかったが、きれいに逆相関したのだ。さらに、ぼくにとって幸運だったのは修士論文をまとめていた時期に歴史的冷夏がやってきたことだ。2022年の時点で45歳以上の方だと覚えている方も多いかもしれない。記録的な低温の夏で、米が不作となり国内の備蓄米である古米も尽き、海外のインディカ米などを緊急輸入して市場に出回り、国民が日本のコメの美味しさを実感したという1993年の米が手に入ったことである。この寒い夏の米は同じ品種でも脂肪酸の不飽和度が高い事が判明した。さらに温度を変えて室内栽培した稲(種子としての米ではなく)の葉には低温では不飽和脂肪酸が増えることも明らかになった。

要するに、コメの油は種子としての米が登熟(種子が大きくなる)する時期の外気温に影響されて貯蔵されるのであり、耐冷性と直接関係はないということである。耐冷性の高い品種は登熟時期の気温が高かったために不飽和脂肪酸が少なかったのだろう、ということになった。

大した実験は行わなかったが、理論として筋道がある結果としてまとまったので学会で発表し、さらには論文にすることができた。ただし、投稿論文は大西先生に英語で書くよう指示を受けて書いてみたが、英語のできないぼくには無理な注文で、ほとんど全面的に大西先生が修正してくださって投稿された(笑)これがぼくの始めての論文となっている(B.B.B. Nakamura et al., 1995)。


と、こんなわけで、ぼくの勉強嫌いはざっとご理解いただけたでしょう。自慢することでもなく、恥を晒すのみですが、大学時代までのぼくを知る友人・知人たちは間違いなく研究とは縁のない人間であったことを証明してくれると思います・・・(汗)


ぼくは、アサイゲルマニウムと出会い、普通ではない就職の仕方で数年を過ごし、普通ではない自社の研究所建設に関わり、普通ではない形で工場立ち上げに関わって、その末に普通ではありえない・・・経験できない、薬事法違反にて所属会社が告発されるという、ひたすら異常な経験を通して創り変えられたと認識している。そして研究を面白いことであると認識を改めて、その結果として、アサイゲルマニウムで社会貢献したいという想いが与えられたのだと感じている。

これこそは、冒頭のはしがきに記したように「霧の中を見えざる手によって牽かれレールを疾走した」という感想なのだ。ぼくの求め描いたものではなく、ただ”天の配慮”によって今の場所に立っているのだと強く感じている。


不真面目に、そして仕方なしに行っていた大学の研究室での米の脂質研究であるが、そこで使った研究手法こそが就職後の赤血球代謝に関する研究のブレイクスルーをもたらすことになったのは、前述したとおりである。ぼくが帯広畜産大学在学中での研究論文で用いた実験手法は、抽出とクロマトグラフィーのみ、クロマトグラフィーは正確にはケイ酸カラムクロマトグラフィー、ケイ酸薄層クロマトグラフィー、ガスクロマトグラフィー、(高速)液体クロマトグラフィーである。たったそれだけ。

2023年7月7日更新 第3話&第4話追加
つづく


5.糞便色素

色々と脱線してアサイゲルマニウム前に話が飛んだが、要するに不思議な導きの中でぼくはアサイゲルマニウムと糞便というテーマを研究することになった。手段としてあるのはニッテンで習った腸内細菌研究の他は、大学時代にやる気のない学生として植物脂質の研究に用いた抽出とクロマトグラフィーによる分離だけである。幸いにも変化のターゲットは目に見える色である。これも後々になって分かることであるが、米の油に入っている緑色の色素はクロロフィル由来、糞便のオレンジ色の色素はヘム由来。どちらも同じポルフィリンという環状色素化合物と関わりがある。前者はポルフィリン環の中心にマグネシウムMgが入り、後者はポルフィリン環の中心に鉄Feが入るという類似分子で、分離する手法が近いのは当然だったのだ。これもまた、ぼくの運だけは良いという部分に当たるものだと思う。幸運は”天の配慮”である。あとは第一章の5~6項目に記したとおりだ(途中から読まれた方はそちらをご覧ください)。
ぼくはこのようにして奇跡的な巡り合わせにより赤血球代謝促進という仮説を作り上げるに至った。この仮説を証明するには何をすれば良いか。そして、どうしていくのが社会的にアサイゲルマニウムはインチキではなく、実際に生体に作用する物質であるのかを明らかにできるのか・・・?
前者は仮説に従って一つ一つチェックし、証明していくデータを得ること、そして後者は成果を学会発表し、論文にして投稿し、エビデンスとして認められる学術的な意味を提出することである。

まずすべきことは、色素関係の代謝研究である。アサイゲルマニウム摂取で糞便の色合いが変化するが、ステルコビリン以外にも増えていると見える色素がある。仮説に記したヘモグロビン由来のヘムからステルコビリンに至る色素代謝は、ヘム⇒ビリベルジン⇒ビリルビン⇒メソビリルビン⇒ウロビリノーゲン⇒ステルコビリン(ウロビリン)である。おそらく、この中の色素が増えているに違いないと考えた。そんな中で、この代謝を調べていくと不思議なことに思い至った。大学時代の生理学の教科書である『生理学展望』という書籍によると、この代謝の説明でウロビリノーゲンは“空気酸化を受けて橙色のステルコビリンになる。”と書いてあるのだ。これにぼくは如何ともし難い違和感を持った。きっと、他の研究者だったらすっと読み飛ばしたに違いない。しかしぼくは直前まで腸内細菌学を研究していたのだ。腸内細菌の研究では何が大変かというと、実は臭いとか汚いということではない。大腸の雰囲気をバーチャルで再現するのが極めて困難なのだ。腸内細菌というのは大半が嫌気性菌といって、つまりは(空)気を嫌う細菌たちで構成されるのだ。特に消化管下部である大腸・直腸では宇宙並みに酸素がないと言われており、酸素を除去して培養するのに注意に注意を重ね、工夫に工夫を重ねて無酸素での培養を実現する。ニッテン総合研究所の所長だった佐山さんの講演用スライドの作成を手伝ったことがあったが、その中でも酸素濃度を説明するスライドがあり、頭にしっかり刻み込まれていた。
ぼくの違和感は、そんな空気のない大腸でウロビリノーゲンが空気酸化されてステルコビリンになるなんてチャンチャラおかしい理論破綻だ!というものだ。しかし構造上から明らかなのは確実に酸化されている構造変化であり、空気以外の何物かがそれを酸化しているということだ。

6.糞便抗酸化色素ウロビリノーゲン

ウロビリノーゲンは何物かにより酸化を受けステルコビリンになる。この考えを助けるものは容易に見つかった。ぼくは先に記した通り、半ば仕事を失っていた。ぼくらは職を失いかけており、ある意味では無限に時間があるに近い状態で野に放たれていた。そして、勤務先は腐っても研究所である。研究所には(おそらく当然ながら)本が山ほどある。研究に関する雑誌・成書が書架に収まりきらないほど(いや浅井研の函館研究所図書室は今でも余裕が有るほどの書架がある)あるので、読みたい放題である。
ぼくは実験医学という雑誌や蛋白質・核酸・酵素という雑誌をバックナンバーの背表紙を見ながら読み漁っていた。ぼくの学生時代の研究は脂質がターゲットであることを述べたが、脂質は酸化されやすいので、脂質と抗酸化物質はセットで研究されることが多い。また、Ge-132の過去臨床研究では抗酸化性を発揮していると考えられる事が起きていて、また名古屋大学農学部の大沢俊彦教授とは有機ゲルマニウム化合物の抗酸化作用に関する研究も共同研究されていた。そこで、ぼくの興味も抗酸化物質はターゲットだった。ぼくの見つけた特集号雑誌に『生体内低分子抗酸化物質』というのがあったので、当然のようにそれを手に取った。
その中に見つけたのが東大の山本順寛先生が著したビリルビンの抗酸化性についての項目だ。
この総説はとても印象的であり、ビリルビンはヘムの代謝においてヘムオキシゲナーゼで酸化されたビリベルジンが、わざわざビリベルジンリダクターゼによってエネルギーを使って還元されていることに言及していたことが心に残った。鳥類まで(魚類も含め)はビリベルジンまでで排出され、緑色の便なのに、哺乳類ではわざわざ(苦労して)ビリルビンへと還元しているというわけだ。このように、自然の流れに逆らうのは意味を持っているのだ。
哺乳類は酸化的リン酸化を最も利用し、酸素暴露が多い酸化ストレスを最も受ける生き物だ。そして、ビリルビンは抗酸化性を持ち、特に生体内のような低酸素の細胞などの条件下では抗酸化性が一気に高まる物質であることが解説されていた。これを読んだときになるほどと思った。ビリルビンはビリベルジンから還元して作られている。そのビリルビンが腸内細菌の作る酵素の作用でさらに強く還元されたのがウロビリノーゲンなのだ。強い抗酸化性を持つビリルビンから還元度が更に高まった分子なら当然抗酸化性を持つのではないか・・・。その分子が何物か(過酸化物質)によって周りを酸化するのを抗酸化した結果、空気酸化ではなくステルコビリンへと酸化されるのではないかと推測した。
ぼくの研究ターゲットはステルコビリンの一段上流であるウロビリノーゲンへと進んだ。

まずはウロビリノーゲンの抗酸化性を確かめたい。ウロビリノーゲンの性質を辞典で調べると、エールリッヒ試薬により検出可能で無色透明だったウロビリノーゲンが赤色に呈色するという。早速エールリッヒ試薬を試薬室の薬品棚にある必要試薬を引っ張り出して調合し、自分の尿を採取したものに滴下してみた。尿にはウロビリノーゲンの一つの形体が含まれており、健康診断の臨床検査項目にも入っている。試薬を入れると赤く色変化を起こすことを確認した。
次に、抽出したラットの糞便色素液をケイ酸薄層クロマトグラフィー(TLC)で色素分離した。目で見える色素としては、前述の橙色の糞便色素ステルコビリン、元の代謝前の色素であるビリルビンがわずかに、そして未同定の赤色色素が見られる(この色素は溶媒が蒸発すると茶色になる)。ウロビリノーゲンは無色なので可視化するためにはエールリッヒ試薬を噴霧すれば良いはずと考え、TLCに向けて試薬をスプレーしてみた。すると、なにも発色のなかった場所に赤いスポットが出現した!これが糞便のウロビリノーゲンであるステルコビリノーゲンだ!
TLCで分離した時のステルコビリノーゲンの位置は確認できた。次に必要なのは抗酸化性の確認だ。簡易な抗酸化性の確認方法としてラジカル補足能力を評価する安定ラジカル試薬のDPPHというものを使用する方法がある。この試薬は普段濃い紫色をしている。しかし構造の中に安定化されているラジカル電子がラジカル補足能力のある抗酸化物質と反応すると、吸収波長に変化が起きて紫色が消失する。この性質から、DPPHのエタノール溶液を作り、先と同じ分離を行ったTLCにスプレーで吹きかけ、紫色が消失する場所にはラジカルを補足する抗酸化物質の存在が示唆されるわけだ。
ぼくはドキドキしながら噴霧した。反応は一瞬だった。エールリッヒ試薬では赤くなった同じ場所が見事に色を失い白くなった。このことは、ウロビリノーゲンが抗酸化物質であることを強く示唆するもので、世界で初めてウロビリノーゲンという物質が生体内抗酸化物質である可能性を示した瞬間だった。
その後、ウロビリノーゲンの性質をより詳しく調べるためにウロビリノーゲンを購入できないかと調べたが、結局は不安定な物質だからか市販されていなかった。そこで、文献を調べてビリルビンから還元反応でウロビリノーゲンを合成する論文を見つけ出し、ビリルビンからウロビリノーゲンを調製した。そして、調製したウロビリノーゲンを用いて構造解析をNMR解析装置とマススペクトル解析により行った。ちなみにNMRは自社で分析し、マススペクトル解析は東京薬科大学の志田先生にお願いした。志田先生にはこれ以降も様々な研究の分析に協力していただいた。秋葉部長と親しくされていたので、若造のぼくの研究にも快く応じてくださった。本当に感謝しています。
そうして、この合成したものが間違いなくウロビリノーゲンであることを確認できた。その上で、抗酸化作用を調べるため、先に説明したDPPH試薬を用いた退色を見る試験を行い、既知の抗酸化物質であるトコフェロールやビリルビン、βカロチンなどと比較した。この結果、ウロビリノーゲンはラジカル消去能力が優れていることが見出された。実際に脂質の過酸化反応に抑制効果が出るか否かも実験し、ウロビリノーゲンが存在すると脂肪酸の過酸化反応が抑制されることが確かめられた。更には、NMR解析をしていたところ興味深いことを発見した。それは、不活性ガスであるアルゴンを反応液の入った試験管に封入し、酸素との反応が進まないよう(空気酸化されないよう)処理をしていたにも関わらず、時間経過とともに橙黄色に着色し、NMR解析データシグナルの一部が消失した。このシグナルのデータは水素の置き換わりが原因と突き止められ、ウロビリノーゲンはビリルビンよりも遥かに反応しやすく、ラジカルを容易に補足して自身が酸化されてウロビリンになることで過酸化反応の連鎖を断つことが示された。

この内容は、この後に示す博士課程研究(岩手大学連合大学院連合農学科博士論文、中村宜司、2006年)の中で仕上げて論文投稿されたが、前述した通りウロビリノーゲンの生体内抗酸化物質としての性質を始めて明らかにした論文(JOS, Nakamura et al, 2006)でもあり、だれが記事編纂されたのか分からないけれどWikipediaのウロビリノーゲンの紹介の中にもぼくのこの論文が引用されている。

下記がWikipedia記事(参考まで)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AD%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3

アサイゲルマニウムについては論文内に全く出てこない、所属名だけが浅井ゲルマニウム研究所である論文だが、さすが天然の抗酸化物質に関する内容だけあって、残念なことにぼくの書いた論文としては最も世界中でよく読まれている・・・。

以上、アサイゲルマニウムを経口で摂取すると、ビリルビンが消化管に排出されやすくなり、そのビリルビンが腸内細菌の作る還元酵素によってウロビリノーゲンとなり、空気のほとんど存在しない腸の中で酸化物を補足して無毒化できる物質も増やし、結果として抗酸化反応として酸化されたウロビリノーゲンはステルコビリンとして糞便の中に排出量が増える。ということになる。繰り返しますが、投稿論文ではこのことは一切記載されていません(笑)

2023年7月18日更新 第5話&第6話追加
つづく


7.大学院社会人博士課程と人生の岐路

さて、多少前後するが博士課程の話が出たので記しておこう。出身の帯広畜産大学を訪問した際に出身研究室に挨拶に行くと、指導教官であった大西教授が「中村さん、ゲルマニウムの研究でしっかり学会発表重ねているし、先輩の丹治くんも博士課程で頑張っているから、連大(岩手大学連合大学院)で社会人博士課程でドクター取らへん?ちょっとじっくり考えてみて」と言われたのが2002年頃のことだった。その当時、ぼくは半年間の出向を命じられ、有限会社梅田事務所という梅田圭司先生が作った研究関係の会社の研究員を兼務しており、その仕事で恵庭市にある北海道立水産孵化場に半年間勤務していた。そして、恵庭に住みながら頻繁に函館に帰るという生活を続けていた。ぼくはその時に北海道旭川の作家であった三浦綾子さんの小説にはまり、移動の間や仕事から帰った夜の時間に読み漁った。『氷点(上・下)』『続・氷点(上・下)』『海嶺(上・中・下)』『塩狩峠』『泥流地帯』『道ありき』『この土の器をも』『光あるうちに』あたりが2,3ヶ月の間にまとめて読んだ書籍だった。

それまでの人生で考えてこなかった、人間の原罪という悪意の根源を意識するようになり、ついにはそれまで避け続けていたキリスト教会に自分から進んで行ってみたいという思いが芽生えた。恵庭での半年間の締めくくり、函館に戻って旭川が遠のく前に・・・と思い切って旭川の三浦綾子記念文学館に車を走らせ、既に故人となっていた三浦綾子さんの記録、軌跡を追想してみた。出演テレビドキュメンタリーの映像が館内で放映されていて、その中で綾子さんは「わたしはありとあらゆる病気にかかった。さらに神様はわたしに癌までくださった。神様はわたしに依怙贔屓している」という内容を笑顔で語っていた。この人は小説の中に記している“苦難が恵みであるということ”を、実際に自身の身をもって本気で思っているのだということが身に沁みてわかった。

綾子さんの周りの方々の高潔さ、人の苦難をともに悩み、時には持っているものすべてを差し出して、命をも差し出して他人の命を救う行為。これが偽善でなく本気で行われているのである。ぼくは、そのことに興味が湧き、ぼく自身の中には利己的で人を思いやらない心しかなく、それが原罪というものの故なのだと、聖書が教えているのだということを理解した。

ぼくは自己中心的ではあるが、他人の苦しみを喜んでいることはなく、見ているのは辛い。ぼく自身が弱く、辛い目に合うのが嫌なので、苦しみにあっている方のことを考えると苦しくて仕方がない。なんとか助けてあげられないのかと思ってしまう。アサイゲルマニウムについても、こんなに良いものなのなら健康上で苦しんでいるすべての人が使えたら良いのに・・・。実際は高額であるアサイゲルマニウムを健康のために使える人は多くはないと考えてしまう。みんなが無償で得られて健康が向上し、しっかり働ければ社会にとっても非常に良いことなのに・・・。なども考える。
一方で、何が目的かは分からないが悪意を持って他人を陥れて喜んでいる人々もいる。自分たちさえ良ければ他の人は苦しんでいいという考えで不正に財産を得て、行いを改めない人々もいる。この世の不条理は神や仏がいるのなら、なぜ介入されず放置しているのか。とも考えていた。
しかし、三浦綾子文学が伝えるのは、神は確実に存在するということ、そして人間は神の操り人形ではなく、自分で考えて行動を選び取っていける人格が与えられて活動しているということだった。人の心は神から離れて自己中心にある時に原罪のゆえに悪をおこなう。
おそらく心の後ろめたさや、不意に訪れる虚無感は、神不在の孤独によるものなのだと感じられた。ぼくが恵庭福音キリスト教会に向かうのに時間はかからなかった。

ぼくは、そこで貴重な体験をした。偶然とは思えない、なぜこの時にこの説教内容なのか・・・ぼくのために用意されたかのような『ことば』が三週間続けて礼拝説教で語られた。詳細はここでは割愛するが、函館に戻ることになる前の三週間は、不思議な時間だった。函館に戻っても毎週函館の花園キリスト教会に通い続けた。そして素直に信じるに至った。当時ぼくは結婚していたが、キリスト教の洗礼を受けると伝えたら猛反対され、洗礼を受けるなら離婚するといわれた。それでも受洗の決意が変わらず、洗礼式に進んだ。その翌週に妻は家を出ていった。そして間もなく離婚することとなった。その直後に、大西教授からの博士課程への誘いがあったのだ。なんというタイミングの悪さだったろう。
その後、ぼくは教会の関係者を通じて今の妻と出会い、再婚することとなり、岩手大学連合大学院の社会人博士課程に入学することになった。当時も感じたが、離婚して金もなく住宅ローンやその他のワケアリで返済しなければならない借金を抱えていたぼくが、さらに大学院ドクターコースに進んで学費を支払わなければならない(会社で半額だけ若者の学びのために用意された基金から支出してもらえたことは非常に感謝している)という状況で、それでも応援してくれた妻の真紀には本当に感謝しかない。その後も、今に至るまで根性なしのぼくを支え続けていてくれている。まさに神(天)が与えてくれた助け手である。
この頃から、天の配慮によるレールを走る速度は加速していった。

8.遺伝子研究

さて、前項では恵庭の水産孵化場のことを少し述べた。恵庭に行くことになったのは梅田事務所の研究員を兼務しており、その仕事を手伝う駒としてであった。ある意味、会社としては収入を絶たれており、死を待つ状態とも言えた。おそらく、顧問であった梅田先生が状況を憂いて半分は助ける意味でぼくの労働力を買い取ってくれていたのではないだろうか。実態は知らないが、ぼくはドナドナのように売られていったのだと感じていた。
梅田事務所は梅田先生と名達さんという方が主メンバーで、様々な研究アイデアで複数の研究機関や会社を結びつけ、産・官・学を横断するような組織化をすることで新たな産業を作り上げて「大きなことをしてやろう」という山師的な方々とぼくには見えていた。今考えれば、かなり先進的なことをやっていたと思う。さすがは農水省の研究系のトップだった方が作った会社だ。
梅田先生たちが天才と呼ぶ人物がいた。それがぼくの第三師匠である坂井勝信先生である。坂井先生は当時は前出した北海道立の水産孵化場の病理部部長職だった。しかし、ここに記してよいのか微妙ではあるが、実際に孵化場に研修で勤務してみて感じたのは“一応部長の仕事はこなしている”という雰囲気で、興味ややられていた実験などは直接孵化場の病理部の仕事とは感じられない内容だった。坂井先生はぼくをリクルートに来た北大水産学部の信濃先生のお弟子さんとのことで、梅田先生の親友である信濃先生との関わりからGe-132の実験なども行っていたようだ。坂井先生の考え方はぶっとんでいた。Ge-132の機能は量子物理的なものとして捉え、宇宙からの放射線などにも考えを向かわせておられた。当時は喫煙家だったぼくは、超ヘビースモーカーであった坂井先生に喫煙コーナーに連れ立ってもらい、様々な哲学的な話をしてもらった。「うん、天才の考えることは飛び抜けていてわからん(笑)」と思いながら、「へぇ。そうなんですか。うーん」などと分かったような態度を取っていた。しかし、師匠はぼくの研究に関する悩みや相談をしっかりと受け止めて、実験のための装置がないから、代わりに証明のためこんなことをしたい!という姿勢を高く評価してくれた。
あるとき、師匠から金言を頂いた。「中村くん、研究をするなら誰もやらないことをやるといいよ。皆がやることは一流大学が競ってやるから。でも誰もやらない・やりたがらないことには宝が眠っているんだ。誰もやらないから、簡単に世界で最初になる。誰もやったことがない、誰もが知らないことを、世界中で自分だけが知っている面白さはたまらんぞぉ!(笑)」目からウロコ、という聖書由来のことわざがある。まさに目からウロコのようなものが落ちた気持ちだった。ぼくは偶々みんながやりたがらない排泄物を対象にした研究に入社早々に突入した。そして誰もやってこなかった・・・まだあまり知られていない物質であるGe-132の生理作用の”食品としての機能性”という分野を研究対象とすることになっていた。坂井先生の言うことを当てはめれば、まさに前人未到の原野の宝探しを(先輩たちが手がかりとして残した地図を片手に)ぼくはしているのだ。例えば前述したウロビリノーゲンの研究などは、まさにこのような指導の中から得られたものだ。
半年間で様々なことを教えていただいたが、このことと加えて、「やりたいこと、明らかにしたいことがあったら、まず方法論を考えること。しかも何通りも方法を考えて、どのルートが適当なのか、どのルートなら出来るのか、それを見つけてから仕事(実験)にとりかかること。研究費を多くかけられない小さな研究機関は、華々しいジャーナルに載る一流大学の研究予算でなんでも買えるところとは違う。だから知恵で勝負しないといけない。ルートは一つじゃないから最初に考えておけば仮に行止っても他のルートがある。」ということも教えていただいた。ぼくのその後の研究では本当にこの教えが力になった。
その時の研究は、とてつもなく大きな話で、特許を取って海外の製薬企業に売り込むという話だった。実際に話しにも代理人が行って交渉したが、最終的に決裂したようだ。でも、ぼくの目から見ても非常に面白くエキサイティングな研究だった。その業務の中で習った研究手法が遺伝子の研究である。遺伝子と聞いただけで蕁麻疹が出そうな拒否感があった。勉強嫌いのぼくは、大学時代にも生化学などで学んだはずであったが、A, T, G, Cの組み合わせで二重らせんがあって、タンパクと関係する・・・(爆笑)。くらいしか解っていなかった。しかし、実践的にPCR反応を行い、逆転写反応をし、クローニングや大腸菌によるタンパク産生をする中で理解は出来るようになっていった。ぼくのスキルは脂質や色素だけでなく核酸やタンパク質まで広がりレベルアップした!

9.糞便赤色色素プロトポルフィリン

さて、少しページを遡るとTLCで分離される糞便色素には不明な赤色色素があると述べた。この赤色色素、アサイゲルマニウムを多く摂ると糞便の中にどんどん増える。多量のアサイゲルマニウムを摂取すると糞便は黄色を超えて赤黒くなる(ラットの場合)ことがわかった。そこで、いったいこの物質は何なのかが気になった。放ったらかしにしておくことができず、ぼくの中の知りたい欲求は高まった。ある時、研究部の先輩である吉原さんが「ゲルマニウムの研究は用量多い方は結構やってるけど、量がどのくらいだとどうなるっていうのがあんまり研究されてないんだよね」と話していたのを聞いた。ぼくの耳はこれを捉え、食べさせるアサイゲルマニウム量を変えてみることにした。それは、餌にGe-132を混ぜ込む量を変えてみたのだった。
ステルコビリンの研究、糞便が黄色くなる実験は粉末餌にGe-132を0.05%重量比で加えて行っていた。これを1/10あるいは10倍にしたらどうなるのか・・・。非常に簡単な実験である。ぼくは餌にGe-132を①入れない群、②0.005%入れる群、③0.05%入れる群、④0.5%入れる群、という4種類で混ぜ込んだ。ラットにこの餌を食べさせたところ、糞の色が①と②では変わらなく見えたが、既に解っていた通り③は黄色くなった。そして、④に至っては赤っぽく濃い色に変化した。まず思ったのは、オレンジ色のステルコビリンが更に増えて排出されたのだろうか。ということだった。
色素を抽出して、例によって馬鹿の一つ覚えの色素分離を薄層TLCで実施してみた。するとなんと、増えたのはステルコビリンの部分ではなく、未知の茶色い色素だったのだ。
この茶色い色素は乾くと茶色くなるのだが、有機溶媒が染み込んで色素が移動していく時には見た目が鮮紅色だった。ぼくは胆汁色素の代謝図を眺めて睨めっこしながら、どの分子が赤いのか頭を悩ませていた。記憶は定かではないが、ポルフィリンまで遡って、恐らく生化学ガイドブックなどを見て、赤色色素といえばヘムなので他の書籍もあたっていったように思う。結局、ポルフィリン化合物は光学的に特殊な性質があるということが目に止まり、強力な蛍光を持つということから、生物実験室にあった遺伝子研究に用いる電気泳動ゲル中のDNAを検出するためのUV照射の写真撮影装置にTLCを入れて紫外線をあてて観察してみたところ、非常に強く鮮やかな赤い蛍光を発する色素だということが確認できた。すなわちターゲット分子はポルフィリンに違いなかった。さらに詳しく辞書などで調べるとポルフィリンは独特のUV可視吸収スペクトルを持ち、ソーレー吸収帯という非常に強い吸収とともに、特徴的なQ帯があり、いくつかの吸収波があるという。それではということで、抽出した色素を波長分析し、この特徴を確認してポルフィリン化合物である確信を深めた。
あとは、関係するポルフィリン化合物の試薬を購入し、標準品として薄層TLCで同じ挙動のものを探索した。結果的に怪しいのはプロトポルフィリンだった。プロトポルフィリンIXはヘムが作られる課程で生じ、環の真ん中の活性中心に鉄がキレートされて挿入されればヘムが完成する最終前駆体だ。

TLCを行ってみて興味深かったのは挙動が非常に似ているが、到達する場所が少し違うことだった。この移動距離の割合は物質に固有であるはずだが、糞からの抽出液と購入した試薬では若干異なっていた。結局は同じプロトポルフィリンだったが2つあるカルボン酸のメチル化が起きていたことで移動度が変化しているのだった。このことは、物質の同定を行うためにNMR解析とマススペクトル(MS)解析を行うために試薬からメチルエステルを作る過程の薄層TLCによる分離精製作業で判明した。MS解析は有機溶媒で実施されるので、メチルエステルを調製してメタノールに溶解して東京薬科大学中央分析センターの志田保夫先生に協力していただき実施した。志田先生は秋葉部長の盟友であり、快く分析に協力してくださった。結果としてMSパターンは糞便から分離精製したものと、プロトポルフィリン試薬から調製したもので完全一致した。さらに自社内で調製したジメチルエステルと思われる分子をNMRにより解析し、プロトポルフィリンIXジメチルエステルであることを確認するに至った。結局、0.5%のGe-132を餌に添加して食べさせたラットでは当該色素が2倍に増えていた。そして、このプロトポルフィリンは肝臓で作られている量が増している可能性が示され、プロトポルフィリンの産生において律速(速度を決めている)となる5-アミノレブリン酸合成酵素が発現増強されていることをmRNAというタンパク質に翻訳される前の遺伝子量をチェックすることで明らかになった。これは水産孵化場で得たスキルにより実現した研究だ。この当時は5-アミノレブリン酸が増えるからといって特別注目されることもなかった。
しかし、アサイゲルマニウムでプロトポルフィリンが増えることが考えられ、プロトポルフィリンは実は医薬品として認可されていて、肝炎の薬になっている。アサイゲルマニウムというのは身体の中にある天然の医薬品成分を増強するものだとも言えるわけだ。この研究も博士課程の中で実施していたので、博士論文に記述されている。しかし、科学ジャーナルへの投稿論文としては博士課程を終了後しばらくして、2011年になってからヨーロッパの薬学雑誌に掲載になった(EJP, Nakamura et al., 2011)。

https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/21167148/

2023年8月4日第四章完結


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