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【エッセイ】原点

 私が初めて赤の他人に読まれることを意識して文章を書いたのは高校生のときだった。誰かに読まれることを意識して書いた時点で、それは作文でも日記でもなくエッセイとなった。
 つまり、私が初めてエッセイを書いたのは高校生のときだった。
 地元の新聞に投書した。自分がどうしてそのような行動に出たのか今となっては覚えていないが、おそらく衝動的に書き、送ったのだと思う。テーマを見て「これなら書ける」とでも思ったのだろう(そして謝礼の図書カードを狙ったのだろう)。小中高生を対象にしたコーナーだった。初めて応募した文章が掲載された(そしてまんまと図書カードを手に入れた)。

 テーマは「私があこがれる大人像」。
 私はジブリの『紅の豚』の主人公ポルコロッソについて、薄っぺらな内容で短くも熱くつづった(多分金曜ロードショーで放送された直後だったのだ)。
 過去の栄光を捨て、何にも縛られずに信念を貫いて自由に生きる。実力(と金)と、他人を惹きつける魅力もある。かっこいい。そんなことを書いた。
 他の少年少女の文章とくらべると、奇抜な内容で斜に構えた書きぶりだった。
 原点というほど大したものではないのだが、思い返せばやっぱりあのとき思いたって行動したことが、そしてあの文章を書いたことが、今の自分と自分の書く文章の何らかの原点であったと思う。
 その後、何度か同じコーナーに投書をし、何度か掲載された。当時、私は月々の小遣いというものがなかったので、新聞社から届く図書カードはマンガや小説を買う貴重な資金源となり、有効に活用された。

 高校生の私は、初めて書いたそのエッセイをこのように結んだ。
 「私はきっと、そんな大人にはなれないだろう。だからいっそう、あこがれるのだ」
 いくぶん生意気だが、よくわかってるじゃないか、と大人になった私は自分を顧みる。確かにあこがれた彼のように、しがらみを捨てて自由を選ぶことはできなかった。そして漠然としたあこがれは真に迫り、今やうらやましさも加わって、正面から見すえるのがつらいときすらある(でも金曜ロードショーで放送されると見ずにはいられない)。

 いや、待て。私はこの先ずっと大人なのだ。(すでに彼の年齢を超えていようとも)大人を終えるまでのすべての期間を彼のように生きられないと決めつけるには早すぎよう。
 いつか高校生の自分に向かって「まだまだ若かったね」と優しい目を向けながら、軽やかに生きる自分の姿を妄想する。
 妄想するのは自由だ。
 そしてまた、自分の原点はどこであったかとときどき振り返り、そこからの距離と今の自分の存在を確認するのだろう。

 とにかく、大人になった今『紅の豚』を見て思うのは、持つべきものはフェラーリンみたいな仲間だってこと。

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朝日 ね子
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