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多気町観光大使による多気町案内その①

皆様にクリスマスのお慶び心から申し上げます。
先日珍しい病眼瞼黄色腫のレーザー手術を受け、しばらくの休息期の全快すべく過ごしておりますが、お陰様で術後経過は良好で安心しております。
大好きなニューイヤー駅伝、箱根駅伝に刺激いただいた後の1/12が2025年初ステージになりそうです。
本年は多気町観光大使のご委嘱も頂き、中々明和も多気も貴重な歴史的資源が埋もれつつあることに遺憾の思いから
心から「日本でここだけなんです」と叫びたい思いです。本年のライヴでも各所で「明和町ご存じの方?」「多気町ご存じの方?」と尋ねたところ多気町の勝利でした。VISONに目が集まりがちですが、多気町にはすごい歴史遺産がございます。

現代化されつつある相可の街並み。


相可は近年相可高校調理部の全国的な活躍で名を知られる様になったかもしれませんが、縄文時代の土器も発見される地域で、特に江戸時代には熊野街道・伊勢本街道などが交わる要所として宿場が栄え、江戸に支店があった大和屋(本草学者で両替商西村廣休は11代当主)・大黒屋なども開店し、櫛田川対岸の射和(こちらの街並みも秀逸)との間には渡し舟も運行されました。

往時街道が交わった様相を示す道標広場

現在では往時の街道の街並みは見られなくなったものの、まつかさ餅の長新さん、鮎の甘露煮で知られるみなと屋さん周辺は依然往時の佇まいを感じることができます。 道標広場の南側はかつての大和屋の屋敷跡で近年まで町役場があり、長新さん南の三重県指定文化財長刀(非公開)を所蔵する長盛寺さんは同級生のお宅でした。

相可名物まつかさ餅の長新さんは元禄年間の創業です。

鮎の甘露煮で有名なみなとやさんから櫛田川に向かうと二代目両郡橋の煉瓦造橋脚が遺されております。

松阪市射和と相可を結んだ二代目両郡橋の煉瓦造橋脚

伊勢本街道沿いに西に進むと相可高校前あたりには西行法師の歌碑が、当地を訪れた際に詠まれた歌とのことです。

四疋田の大常夜燈。私は訪問した史跡をほぼほぼGooglemapにもアップしています。

更に西には伊勢本街道最大級の高さ5.5mに及ぶ四疋田の大常夜灯。若干街道からずれて民家の影になっておりますので、注意深くご訪問を!

櫛田河畔にある子得る岩

この十字路を北に櫛田川に向かって降りると半分が地面に埋もれた大岩。子得る岩が。こちらは子供が生まれた11日目にこの岩に赤飯やお神酒を供え子供の名前を披露し成長を祈願したと伝わります。

更に伊勢本街道を西に進み、歯の病に霊験があった歯痛地蔵を左に見て進んだ井内林集落には樹齢1000年を超えるとされる38mのスギがそびえる津田神社があり(三重県指定文化財紙本墨書神事頭番帳の所有(多気町郷土資料館寄託)、神仏習合の名残か境界がはっきりしない光徳寺が。

光徳寺鐘楼に架かる朝鮮鐘(多気町指定文化財)

こちらの鐘楼に架かる梵鐘は和製梵鐘にある袈裟襷のない朝鮮様式で多気町指定文化財になっております。

更に伊勢本街道に戻り津田認定こども園さんの南側の道を西に進むと地元四日市川島町に墓碑と首塚がある源義経の家臣伊勢三郎が昇って敵の軍勢を見たと伝わる伊勢三郎物見の松が。現在あるものは5代目とのことです。

四日市に墓がある源義経の家臣伊勢三郎物見の松

両郡橋が松阪市との境界となる松阪多気線160/421号線に戻ると左に文筆の神様天児屋命を祀る相鹿上神社が。趣向をこらされた御朱印授与で最近よく知られております。
また160/421号線西側の桑名三重信用金庫相可支店さん西側の広場には三重県指定天然記念物の西村廣休宅趾ふう樹が威容を見せています。

三重県指定天然記念物の西村廣休宅跡フウ樹

西村廣休(1816-89)は前述の豪商大和屋の11代目にして自宅敷地に2000種近くの植物を育てた植物園"成蹊園"または"櫪木園"を運営していました。
フウ樹は植物園にあったもので、樹高約18m。多気町役場登録文化財の六角堂前にも植物園にあったタラヨウとキンボウランが現存しています。
多気町は江戸時代蘭学の先駆者で日本を代表する本草学者野呂元丈が旧勢和村波多瀬の出身ですが、江戸時代の植物に関する大家が2人も輩出されたことも特筆されると思います。

かつて旅篭であった鹿水亭

160号線を抜けた変則の三叉路にはかつて「車屋」の屋号を持つ旅篭で近年まで旅館鹿水亭が営まれておりました。
また天台真盛宗浄土寺さん(②で紹介します)の裏の櫛田川の河原は鉾ヶ瀬と呼ばれ、倭姫命が川で鉾を清められたと伝わっております。瀬への下り口には百日咳に霊験がある「乳母神」が祀られております。

多気町勢和郷土資料館にある野呂元丈の肖像(多気町指定文化財)

相可を離れ南方向に約1km、天啓公園(こちらはおそらく公園内にある法泉寺を開創した同名の填啓に因むと思われます)北入口付近には伝銅鐸出土地が。こちらは昭和19年この地において流水文の銅鐸が発見された(現在所在不明)ことを記念する史跡です。

伝銅鐸出土地(多気町指定史跡)

園内には旧法泉寺の遺構(いわゆる寺じまいされております)があり、江戸時代から「天啓のもみじ」として名をはせた三重県指定名勝の法泉寺庭園や歴代住持の墓石、黄檗宗独特の建築様式の山門が遺されております。

「天啓のもみじ」で知られる旧法泉寺庭園

公園内には東和薬品(本社は大阪府門真市)の創業者で町内出身の吉田雄市(1911-98)氏が平成7年設立した吉田福祉基金を記念した吉田福祉基金会館や多気町社会福祉協議会なども所在しています。
本年同じく「薬の街」として知られる高取町でのイベントの際にも「仕事で多気町へ」と仰ってみえた方がいらっしゃいましたが、現在ご活躍の万協製薬さまをはじめ、本草→製薬につながる系譜も多気町の歴史を探る一つのワードなのではないでしょうか。
天啓公園は春には桜の名所としても知られ、トップの写真にもありますが涵翠池の景観も秀逸です。
多気町について述べさせて頂くシリーズもおそらく3~5回ほど要すると思いますが、また時間が出来た際には続けて書かせて頂きたいと思っております。
クリスマスが終わり、新年を迎える時期になりましたが、是非お伊勢詣での際には魅力一杯の街"多気町"も是非ご訪問ください!!

黄檗宗の名刹であった旧法泉寺の山門(多気町指定文化財)

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