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\祝・50周年/日本で唯一の寄席演芸専門誌「東京かわら版」が一冊の本に!『落語家の本音』のまえがきと目次、さらには第1章から、林家彦六、柳家小さんインタビューを特別公開

 1974年に創刊された雑誌「東京かわら版」。日本で唯一の寄席演芸専門の情報誌である。寄席演芸とお笑いに関する情報が、コンパクトな誌面にぎっしりと詰まっている。特に人気があるのは、落語家にたっぷり話を聞く巻頭インタビュー。今は亡き大看板から現役の人気落語家まで、半世紀にわたる、東京の落語界の貴重な資料でもある。そこから24人を厳選し、さらに創刊当時の思い出を綴った会長ブログ、若手真打・三遊亭わん丈師匠と社長の対談を収録したのが、本書『落語家の本音――日本で唯一の演芸専門誌が50年かけて集めたここだけの話』(朝日新聞出版)である。落語家から絶大な信頼を得ている雑誌編集部だから聞き出せた、どこから読んでも面白い落語家の本音トーク。そこから「まえがき」「目次」、さらには第1章の一部「林家彦六」「(先代)柳家小さん」を特別公開する。

「東京かわら版」編集部編著『落語家の本音 ――日本で唯一の演芸専門誌が50年かけて集めたここだけの話』(朝日新聞出版)
「東京かわら版」編集部編著『落語家の本音 ――日本で唯一の演芸専門誌が50年かけて集めたここだけの話』(朝日新聞出版)

まえがき

「東京かわら版」という情報誌があります。皆様ご存知でしょうか。
 この書籍を買ってくださった方はおそらくご存知かと思うのですが、改めて説明いたします。
「東京かわら版」は落語・講談・浪曲を中心とした情報が詰まった、日本で唯一の月刊の演芸専門誌です。
 内ポケットに入るサイズで持ち運びにも便利で、多くの演芸ファンや関係者に愛されている(と信じたい……)情報誌です。
 日本全国、北海道から沖縄までの演芸ファンが定期購読をして 
くださっていて、演芸会のバイブルとしてご活用いただいております。他にも寄席や全国の書店でもお求めいただけますし、落語会で販売していることもございます。
 創刊号は昭和49(1974)年11月号で、皆様のおかげで半世紀にわたり1号の欠号もないまま、今こん日にちまで発刊し続けております。
「東京かわら版」が創刊50年を迎えて、何か記念になることをしたいと思っていながら日々の業務にかまけてなかなか動けずにいた折に、思いがけず朝日新聞出版の編集の方からお声がけいただき、『落語家の本音』が発刊する運びとなりました。
 こうして小誌が歩んできた50年の歴史が一つの本になったことを、とても嬉しく感じております。
この本は、昭和の名人のインタビューを再掲載した第1章、現役の噺家さんたちのインタビューを再掲載した第2章、実は密かなファンの多い(?)会長・井上和明の会長ブログをまとめた第3章、そして若手真打・三遊亭わん丈師匠と社長・井上健司の対談を掲載した第4章で構成されております。
 過去のインタビューを再掲載するにあたり快くご許可くださいました皆様、写真を提供してくださった関係者各位、お忙しい中対談の時間を作ってくださった三遊亭わん丈師匠、寄席文字を書いてくださった橘紅樂師匠、本当にありがとうございます。
 紙幅の都合で本書に載せられなかった珠玉のインタビューもまだまだ沢山ございます。「東京かわら版」は情報誌であると同時に、インタビューをはじめとした記事も満載ですので、是非お持ちの方は改めてご覧ください。新たな発見があるかもしれません。
 どうぞ気の向くままにページをめくってみてください。

『落語家の本音』目次

まえがき

第1章 昭和の名人たち、大いに語る――今は亡き大看板の本音

林家彦六
天狗連はなくちゃいけない/小朝に注意してやりたいことはネ、あれには反省心がないということです/無声の演った「彦六」という名前が印象強く残っていたんですねェ

柳家小さん
浅草の思い出/えっ、永谷園をやめた?/若い者は努力せよ!/芸人としての損と得/やっぱり人物描写が大事/テープに頼っていては駄目/初席のトリを小三治師に/両協会合同の顔づけを

金原亭馬生
最初はもう絵描きになりたい一心で/落語の生命は軽さにあるんです。そこんとこは寄席でなくちゃ練磨されないんですね/志ん生ファンというのは絶対的に私がいやなんです

林家三平
落語の基礎もしっかりと古典をやっておくことなんです/“寄席の灯を消してはいけない”自分が出なければ“寄席の灯が消える”というぐらいの自負もありました

桂文治
江戸前の魚/めきりで出れない!?/情のあるものは生で/蛇は寸にして……

桂歌丸
円朝ものはお手本/このひとことが……/和を大切に進んでいきたい/カナダ・アメリカ公演/今年は記念の年/思いは胸に秘め/健康の秘訣!?/歌舞伎の効用/噺は財産になる/枯れた芸なんぞなりたくない

立川談志
いったい、何が落語なのか (落語協会脱退)/落語=落語論/高座は一期一会/談志落語はどこへ行くのか

古今亭志ん朝
島之内寄席など大阪の会について/新作落語について

柳家小三治
師匠とは毎日一緒にいる/憧れだった八代目可楽/小さん=小津安二郎論?/一番泣いた映画/やれることをやりながら/噺のあるべき姿とは (?)/面白いって何だろう/永遠の少年/今はまだ過程

三遊亭円丈
何かを遺すべき時期に入った/熾烈な選別が始まろうとしている/「新作差別」はどこに消えた?/円丈落語の原風景/「円丈にやらせたら……」/古典落語にも「今」を/円丈ブーム、再び/七代目三遊亭圓生は……

第2章 高座の人気者たち、熱く語る――現役落語家の本音

柳家さん喬
落語に経験値は必要?/シンプルに行き着く/言葉は道具である/高座の美について/変わらぬ容姿のヒミツ!?

五街道雲助
円朝の感触/志ん生・馬生/ハラの必要性/二ツ目時代の奮闘/噺家生活一番の思い出は……

春風亭一朝
「僕、噺家になったから」/“御輿”より“笛”/「寿司でも取ろうか」/寝っ転がって稽古/師匠に似てしまう/「イッチョウケンメイ」の秘密/稽古は裏切らない/おしぼりにソース

柳家権太楼
「妾馬」を実体験!?/「鰍沢」の衝撃/噺を突き詰めすぎない/責任のない落語/今が一番面白い!/歳を重ねるカッコ良さ/確信犯のずるい顔/落語はワインと同じ

林家正蔵
下町に恩返し/父親の血をひいている/自分を試してみたかった/走るしかない/楽しみだったちゃんぽん/出てきた七代目の映像/今後に乞うご期待/期待に応えたい/こんないい商売はない/根岸の正蔵

柳亭市馬
すべては"間"だ/噺の中に歌が鳴る/人情噺に挑戦/会長のお仕事/「俵星」のはじまりは……/感情を込めすぎない/気持ちよかった浪曲/会長もネタ下ろし

春風亭昇太
若手の星スペシャル/ゴキゲンに生きる/「長短」のような噺が理想/落語界での役割/面白い生き物になりたい

立川志の輔
全てを非日常空間に/古典と新作のバイリンガル/集結したエネルギーのすごさ/ワンカップとカンテラ/肩の力が抜けてきた

柳家花緑
プレッシャーを越えて/中学で噺家を志す/日々変化する落語/全てが高座に繋がる/見えないものを信じる/オフがオンに?/花緑流・弟子の育て方/未来の落語

柳家喬太郎
芸の底力/「今、やっとかなきゃ」/噺の持つ情念/落語協会設立100周年/どんな噺家に/噺家の年齢の重ね方/喬太郎、大人の入口に立つ

柳家三三
演芸界若手の星/興味深い存在でありたい/志ん朝のアドバイス/究極の高座とは/身体の中で鳴る音/噺の稽古より厳しい?!/「柳家」ではなかった僕

三遊亭兼好
演芸界若手の星/オリジナリティの提示/正確なジャブが信条/ワガママは高座で充分

春風亭一之輔
オツな若ぇの生け捕ってきやした/ツイッターで知った昇進/百席ずつ増える高座/俯瞰で見ている/いつも通りでいい/落語との距離感/美味しいお酒が飲めるうち

桂宮治
オツな若ぇの生け捕ってきやした/お客さんの温かさ/家族あっての“桂宮治”/全部自分、嘘はつけない/「笑点」という家/全てが詰まったおもちゃ箱/人間って面白い

柳亭市馬・春風亭昇太対談
両会長のタッグ/スイーツ会談( !?)

第3章 創刊号の落語会情報は18本――会長ブログ「いのど〜ん」一挙掲載

その1 東京かわら版創刊/その2 発刊まで/その3 とりあえずのスタート/その4 取材は名画座から/その5 大塚名画座/その6 何とか創刊/その7 創刊号/その8 創刊号の落語会情報/その9 当時の落語会/その10 松葉屋と民族芸能の会/その11 題字/その12 10号まではタブロイド版/その13 判形チェンジ/その14 再スタート/その15 通巻11号(実質の第1号)/その16 昭和50年9月号/その17 東宝演芸場/その18 木馬館・松竹演芸場/その19 継続の危機/その20 木挽寄席/その21 木挽寄席(2)/その22 木挽寄席(3)

第4章 若手真打にとって「東京かわら版」とは?――三遊亭わん丈・社長の本音対談

動きがいい前座さんがいると思って。それがわん丈さんだった/「東京かわら版」にこんなに分厚く扱ってもらえる人の弟子になれたんだ/「東京かわら版」のここは、若手はみんな競い合ってる/お祝い出そう。どうしよう。じゃあ、東京かわら版だ/落語好きな方のお気持ちをすごくくすぐる雑誌だと思うんですよね/演芸が好きだからというその一心でやってくれている/安心して取材受けられますよね、「東京かわら版」さんは/誰もいなかったんですね、『名鑑』に書き込むというのは/「わん丈師匠、連載やってください」って言われたら/「東京かわら版」さんの読者だったら、これくらいの話してもわかってもらえるんじゃないかな

あとがき

【編集部注】
・ 第1章、第2章のインタビュー部分は「東京かわら版」1977年1月号から2024年4月号までの記事から厳選し、載録した。今日では不適切と考えられる表現があるが、雑誌掲載時の時代背景と落語という古典芸能の特性を考慮し、そのままとした。単行本載録時点で変化している高座名など、説明が必要な個所は[   ]で補足した。
・ 第3章は東京かわら版サイト内「いのど〜ん!ブログ」2010年1月29日から同年9月22日までの記事を載録した。


\試し読み/
第1章 昭和の名人たち、大いに語る――今は亡き大看板の本音

前口上

「東京かわら版」に最初の巻頭インタビューが載ったのは1977年1月号。八代目林家正蔵(後に彦六)師匠の新春インタビューが記念すべき第1回です。その後も、昭和を代表するような名人たちのお話をお聞きできたことは、「東京かわら版」にとって大きな財産です。
 皆様まだ何者かもわからない草創期の小誌に、落語への熱い思いを語ってくださいました。インタビューを読むと、感謝の念が浮かんで参ります。誠にありがとう存じます。
 師匠方の貴重なお話を、ぜひご一読ください。

林家彦六 ©横井洋司

林家彦六(はやしや・ひころく)
1895年、東京都生まれ。1912年、二代目三遊亭三福に入門し「福よし」を名乗る。16年、師匠と共に四代目橘家圓蔵の内輪弟子となる。17年、二ツ目に昇進し「橘家二三蔵」。その後、三遊亭圓楽、蝶花楼馬楽を経て、50年、「八代目林家正蔵」襲名。81年、「林家彦六」に改名。独特の語り口は、弟子の林家木久扇をはじめ後輩落語家がしばしば真似している。82年、肺炎のため逝去。

◆東京かわら版編集部よりひと言

 再録の最初は林家正蔵(後に彦六)師匠。1977年1月号で初春インタビューと銘打ち、正蔵師匠のお話を掲載しています(この後おりにふれ師匠に出て頂き、たびたび誌面に登場してもらいました)。それまで基本的には会の情報だけを記載していたのですが、読者には読み物のニーズがあると考え、思い切って稲いなり荷町の長屋のお宅にお伺いしました。日立家電勤務の酔水亭珍太こと水野雅夫さんが仲立ちをしてくれました。水野さんは、民族芸能を守る会の茨木さんや東京小文枝の会のメンバー(橘左近師匠も其の一員)に引き合わせてくれ、徒手空拳だった私の活動の場を広げてくれました。
 林家は、暖かく迎えてくれ、お弟子の照蔵(現・八はつ光こう亭てい春はる輔すけ師)さんに「照さんや、井上さんにコーシーを入れておあげ」と仰ってくれました(当時林家の家でコーヒーをご馳走になるのは、認められた証あかし、との噂がありました)。師匠は噺家さんたちに、こんなものがあるよと、小誌を宣伝もしてくれました。
 後に日本橋の「たいめい軒」での一門会(壱土会)では販売させてくれると共に、その日の割前を私にも下さいました(お弟子さんには白い目で見られました)。初期の「東京かわら版」の大恩人です。(井上和明)

〇1977年1月号

――若者に対するアドバイスを。

正蔵:弱ったのは、その若い者に対してだがね……。今はね、何んたって、寄席が無いんだから。これがもう落語界に対する致命傷ですよ。それでいけないことに、こんだ国立のうしろに文化庁がこさえてくれる。ありゃあんな所に寄席ったって、お客が来ないですよ。修業にならないのは眼に見えている。も一つあらゆる演芸を包含しての殿堂だからね。くじ引きにしていつ廻ってくるか分かりゃしない、というようなところはあてにならない。目下少ない寄席を相手にして、それ以外は、めいめいの自分達の資力で発表会をやってんです。だからいろんなところで世話する人がいりゃ、これは大変結構だけれども、自分でやるとなると、会の経営なんて大変なもんですよ。タレント志望でね、師匠も兄弟子もそこに行ってるから俺も当然そこに入込んでもらうってのは、もはや論外ですよ。噺家は、ある点まで禅僧なら雲水になった気持でね、貧乏に耐えてくれなければ、もはやどうしようもない状態ですよ。貧乏に溶込んで付合いを欠かさないような、これは若いもんの気魄みたいなもんですから、おせえて教えられないもんだから……。タレント志望の落語家とは、少し別れちゃった方がいいですよね。タレントをしながら、噺もなんて、そんな両天秤をかけてうまく行くはずがないですよ。人間というものはそうしたもんですよ。二兎を追うもの一兎を得ず。両天
秤で成功しようとしたってそうはいかない。噺ってものは、終世の目的のためだからね。

――最近のテレビは素人が受けると言う人がいますが、素人について。

正蔵:昔の言葉で言うと天狗連ですよね。天狗連はなくちゃいけない。いつの時代にも真似をしようという人は、落語を面白いから、盛んだから、そういう事に刺激されてやろうという、つまり触手を動かしてくるわけです。ぜんぜん無風状態じゃ誰も天狗連になりゃしませんよね。素人落語というものがあるってことが、落語界にとっていいことで、あってもいいもんですよ。ただ昔は、貸席というものが盛んだったから、素人がそこへ打って出まして商売人の前座、二ツ目を結構師匠扱いにして深いところに上げてくれたもんですよ。ですから、今も本場もんだという自負があるなら、一遍素人のそういう会に入ってやったらいいんですよ。そこで受けないことがあるんです。そうやって気で気を養っていたんです昔は。(略)

――最後に師匠のこれからの抱負というか、目標を。

正蔵:目標を立てるってのは、いいようで悪いですよ。その発表の間際になると、やっぱり平常じゃなくって少しあせりをみせる。又、そういう時に限って雑用が山のように来るもんですよ……。今年綺堂ものをね。岡本さんとこのものを心がけてやってみようと思うんですがね。それから自分でこしらえたもの。誰かに「うれし泣き」という噺は面白いですって言われて。忘れてたんですよね、この噺、もう前にこしらえたんだが、そんなものもやってみたい。大仰に言えば自作自演ですね……。ただあたしがやるのは、ほんとの創作じゃない。デッチもんですよね。あたしがデッチたのは「うれし泣き」「二ツ面」「ヘラヘラの万橘」「ステテコ誕生」……それから「年枝の怪談」そんなもんですがね。
 これからもやりますよ。やらなくちゃしょうがないですよね……。

(聞き手 水野雅夫)

〇1979年9月号

 今回は東京・台東区は稲荷町の有名な林家正蔵宅にお伺いしました。9月は東京の高座に上らず、全国各地での公演も予定され、10月には新境地を開きたいとおっしゃる、御年85歳の正蔵師匠。孫弟子にあたる小朝さんへの諫言など、いろいろお聞きしました。

――北海道から本日お帰りになったばかりですが、北海道へはお仕事で……?

正蔵:向こうの労音(勤労者音楽協議会)に行ってきました。東家夢助てェのがあっせんしてくれましてネ、函はこ館だて、帯おび広ひろと2日程。会員制でいいお客さんですよ。リーダーなんかが落語の研究会をやっていたりして、真面目ですよ、務め人の人たちがレコードやテープで研究してんですネ。
(略)

――最近は、壱土会(たいめい軒)もそうなんですが、定席以外での寄席、料理屋、喫茶店などを借りた寄席が増えてきましたが……。

正蔵:昔だと、風呂屋さんですよネ、もう高座ができているから……冬はいけないけど夏だったらいいですよ、場所はみんな知ってるし。最近は風呂屋そのものもなくなりましたが。コーヒー屋さんではお客を統一して座らせないようになってんですネ、設計上からして。向き合ったりしてますからネ。しかしどこで演ろうと肝心なのは演る者の方針ですネ、十けっこう五よろしいという心構えでお客さんを迎えなければものにはなりませんよ、またお客さんもそれでお荷物にされたらいっぺんで来ません。こりゃ変ってて面白いね、てんでお友達を誘って来るようならば成功します。それに、自分で足たし前まえしないということは興味の持てることですよ、会をやってて、それのありがた味の分らない者はこまりますネ。儲かるわけないんだもの噺家が会を演って。
 大きな寄席が減ってきましたから、そういう小さな寄席も必要なんでしょうネ。これから新しく寄席を始めるには、土地や建物などのために大資本が要るから大変ですよ。だから現在ある建物、映画館なんかの屋上で細々やっても寄席はなりたつんじゃないかと思うんです。これは商売人としては冒険なんだけど、自分ところでやってうまく行かなかったら、どうしてくれる、と言われるかも知れませんが、やってみれば案外成績がいいんじゃないかと思うんですがネ。それから、サラリーマンの自由な時間や2時間程もてあましているからお笑いでも、というようなこんな時間を活用できれば、昔のニュース映画みたいに有効にして楽しめるんじゃないかと思ってんですがネ。これからは昔の寄席の形に戻って行くんでしょう、料理屋の2階とか。近頃の普通の住宅はだんだん合理的になって広く使えませんからネ。あとは町会事務所みたいなところで演るんでしょうネ。

――噺家さんも増えまして、みなさんいろいろな落語の演じ方をしてますが?

正蔵:噺家がお客さんを笑わせないとうまい噺家ではない、ということを一時席亭も認めて、それを奨励したんですよ、これはよくないと思うんですがネ。それじゃ笑わせるにはどうしたらよいかといいますと、言葉より顔の表情に訴えるんですよ。これは(柳家)金語楼さんから系統を引きまして、今の(桂)枝雀にいたる演り方なんですよネ、表情で笑わせるのは。表情といいますと、怪談噺というのは黙っている時ほど凄味が出る。なんにもいわない時の眼の使い方。一角をじっと見つめている凄さは、怪談噺には必要以上のものでしてこれより凄いものはない。これも表情の一つですからネ。落語で笑わせるのは顔の表情、怪談噺でいちばん凄味を出すところは無言の眼の表情。面白いもんですネ。しかし、顔の表情、体の動作だけでお客さんを笑わすとなると、聞かせて面白くさせるのがおろそかになっていけない。語りというのが基本ですからネ。その兼ね合いが難しい。また、お客さんもそれに慣らされて、それで笑うのを待っている。その場その場で笑えたらそれでいいとなって、じっくり噺を聞かなくなりますよ。

――さきほど北海道のお客さんはいいとおっしゃいましたが東京では演りにくい、ということもありますか?

正蔵:贔屓の落語家を持っているグループがいるところでは演りにくい。特定の噺家しか聞かない。これは前からありましたネ、(桂)文楽一辺倒、(三遊亭)金馬一辺倒、それ以外は認めない、というような。吞みに連れてってもらってこの話が出るといちばん困るんですよ。御馳走になってんだから、いやそれは違うよと、反ばくするのもできない。こんな時は、どこかで吞み直すか、帰って瀬戸物でも壊さねェと腹がおさまらない。よくありましたよ。
――今売れに売れている(春風亭)小朝さんに、大師匠としてなにか注文と言うようなものは?

正蔵:小朝に注意してやりたいことはネ、あれには反省心がないということです。己れを顧みることをしないと、野放図になっちまって、暴れ馬が駆け出すようなもので……それになってやしまわないかと危ぶんでいるんですよ。いまのうちはなにをやったっていいとはいいながら、反省をして、いいものといけないものの区別をつけなくっちゃいけません。噺は土台なんだから、棄ててしまうわけにはいかない、しかしギターをかき回したりすることは、いつだって止せることですからネ。あれよりギターのうまいのは東京にいく人だっているわけなんだから。余技は棄てなくちゃいけないと思うんですがネ。

――若手の噺家さんが新しい落語を目差したり、落語以外のことでマスコミに取りあげられたりしていますが……?

正蔵:新しいものを手掛るのは結構なことですよ、海のものか山のものか判らないものを演ってお客さんの反応を確めてみるのは、芸人として当然のことですよ。ただそれだけのもので、手ごたえのあった方へ進んで行くという自分のお試しですからネ、いくら演ってもいい若手で芸術論をどうのこうのいう人がいますが、自分を主にした芸術を論ずるてェことは、とんでもないことですよ、あんな歳でものを論ずる資格はないといいたいですネ。

――最後にこれからの落語界、これからの林家正蔵をお話し下さい。

正蔵:私はどんな時でもこのままでよいと思う。これは体制順応ということだし、なるようになるということだし……。(三遊亭)円朝、(談洲楼)燕枝が亡くなって、落語はもうだめだといわれても、ズ太く生き永らえてきたんだから不思議な寿命ですね、落語というのは。
 自分は自分なりに身の始末はして置こうという料簡だけは持っていて、すべてのことについて、あまり人に世話をやかせないようにと思ってんですよ。9月はプーク(人形劇団)などで高座には上がらないけど、10月からの高座では、ステテコなどを踊ってみようとネ、私は心機一転したんですよ。高座で演ってみたらば、またその心境をお話ししますョ。

(聞き手 水野雅夫)

〇林家正蔵改め彦六 11981年1月号

 このところ、噺家の中で一番新聞紙上をにぎわせているのは、林家正蔵師匠ではないでしょうか。名前「正蔵」の返上、昭和55年度の芸術祭大賞(大衆芸能部門)の受賞、さらにフジ・サンケイグループ放送演芸大賞特別賞にも選ばれ、まさに時の人となりました。そこで、今回は9月号に引き続き〝稲荷町の師匠〞林家正蔵さんに登場願いました。(12月
13日インタビュー)

――芸術祭大賞を受賞されておめでとうございます。「牡丹灯籠」を正蔵さんの話芸と人形劇団プークとの組み合せで演って、受賞されたわけなんですが、このへんのところからお聞かせ下さい。

正蔵:あれは本当にプークの人が骨折って、脚本を書き変えたもので、内容はほとんど新作ですからね。円朝師匠のとは違って、時代とか萩原新三郎という人物もはっきりさせていますからね……プークの脚本はえらいものですよ。書いた人もあそこまで勇気を出して、敢然と一つの時代をうち出すってえのはねェ、冒険ですから。プークの方で思うようにお書きになって、私がそれにくっついて行ったということで……私の歳に合わせたような演出だったんですよ。
 プークとのつき合いは、最初私はお客として見てたくらいのもので、あそこは人形と人間をかみ合わせたり、演出が破天荒でしょ、面白いなと思った。それに光線の使い方ですよ、初めて見た時、びっくりしましたね、日本にない機械とかで……私も怪談噺を演っていますからね、光線の使い方が面白いと思って、それから遊びに行っているうちに近づきになって、出て下さいよという話になっていっちゃった。賞をいただいて、私の嬉しさはとにもかくにも、プークの人たちが全体的にねェ、それで恵まれましたからね、私は幸せだと思ってんですよ。この人形劇団はみんなすごい協力を仕合いますね。プークの名においてというところで演れたんですからね、すばらしいと思いましたよ。
 私個人にしてみると、愚妻が病って、日増しに悪くなって行く時はずいぶん心配しましてね、それが頭にあるもんだから、せりふもよく入らない、時にはどういうもんですか、全然記憶がなくなってしまうこともあって、喋り始めているうちに、人物の名前とか場所が出てきたりしましてね……こりゃ悪いから降りちゃおうかなと思ったこともありました。いまは病人も入院中で元気も出たそうですが、プークとの活動期間中にそんなことで苦労といえば苦労しましたね。NHKがこの公演を旅先まで追っかけて取材してくれましてね、いろいろ写真にもしてもらったんですが、ずいぶん遠くまで来ましたよ、東北の方まで。
 とにかく何回か演った中で、自分でも満足できて、これなら作者に聞いてもらってもまんざらでないという芸は、2日か3日きりしかないんですよ。あとは上がっちゃってねェ、どうにもならなくなって、お客さまには判りませんがね、自分自身でも謝ろうかと、その手前まで行ったこともあります。(略)

――今まで、いろんなところで、いろんな人に「彦六」に改名する理由をお話しになっていると思いますが、もう一度東京かわら版の読者に、その辺の経緯を話していただけませんか?

正蔵:これは、(林家)三平君が亡くなった(1980年9月20日)という無情感がね、私を冷静に考えさせたんですよ。くやみに行きまして、主の死んだあとですからねェ、悲しみのどん底ですよ、こりゃ気の毒だなァ、名前を返してあげよう、これが仏に対する供養であって、私の一番いい態度というのはこれだなァ、ってことで「正蔵」という名前を返すことになった。この名前は知っての通り三平君のお父さんが先代(七代目)の正蔵なんですが、私が(昭和)25年に正蔵を襲名したのは、今の(柳家)小さんさんが小三治から小さんになって、私が当時の蝶花楼馬楽のままだと、馬楽が席順で上位にいては小さんが小さんでありにくい、適当な名前に換えてくれと上位のものが言いだした。そこで、怪談噺を演ることから、林家正蔵がいいだろうということになったんですよ。その時、一代限りで返して欲しいということを承知して、一札書いて三平君のお母さんに渡した。
 先代は名札一つなかったんですけど、私の代になって、(橘)右近さん(橘流寄席文字家元)にこさえてもらった名札があった。この名札と一番古い林家正蔵という印鑑をもって行ったんですよ、喜んでくれましてね、あとで聞いたら、その名札を仏壇に納めたというんでね、私しゃまだ生きているんだが、そういう処置も破天荒で面白いねェ。
 それから、私はねェ、弟子が真打ちになる時は、名前をつけるのに気を配ったんですよ。ですから柳朝とはちょっと仲たがいするところまで行ったんです。春風亭ですからね、疑問にも思うでしょうが、今はわかってくれたらしいんですよ。いちいち説明はできませんからねェ、本人にはちょいと言ったりするんですが……。(橘家)文蔵の時もそうですよ。
「彦六」とつけた由来は、もうご存知だと思うんですが、PCLの映画「彦六大いに笑ふ」(昭和11年11月12日封切、木村荘十二監督)ってえのがあったんですよ、(徳川)夢声が主役の彦六になったやつでね、その頃、「笑いの王国」が浅草で有名になっちゃった。それの真似をして、夢声が中心となって「談譚集団」ってえのを作った。寄席でなに演ってもいい笑わせようという集団なんですよ、私もこの集団にいたもんですから、夢声の演った「彦六」という名前が印象強く残っていたんですねェ。(略)

――1月の鈴本・下席から「彦六」を名乗るわけですが、正蔵が彦六になるということで、なんか心境の変化というものは……。

正蔵:私は30年間「正蔵」を名乗ってきましたが、この正蔵になったのはいろいろいきさつがあって、不思議な縁で正蔵になった。誰だって名前というものは大事にしますよね、それだけに今までゆとりというものがなかった。しっくりしなかった。はればれとしている、というのが今の私の心境です。まァ、1月から“彦六大いに笑う”といきたいと思っていますョ……。

(聞き手 水野雅夫)

柳家小さん ©横井洋司

柳家小さん(やなぎや・こさん)
1915年、長野県生まれ。33年、四代目柳家小さんに入門。前座名「栗之助」。39年、二ツ目に昇進し「小きん」。47年、真打昇進し、「九代目柳家小三治」。50年、「五代目柳家小さん」襲名。72年から24年の長きにわたり、落語協会会長を務める。たくさんの直弟子に加えて孫弟子も多い。95年、落語家として初の人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定される。2002年、心不全のため逝去。

◆東京かわら版編集部よりひと言

 前のインタビューは落語協会の会長になって10年目、後のは更にそれから約10年後のものです。最初のインタビューは、圓生師が1979年、彦六(八代目正蔵)師が1982年に亡くなっており、圓生一門他が落語協会を脱会した1978年の騒ぎも、翌年圓楽師匠一門以外の圓生師匠のお弟子さん(円窓・円丈・円龍他)が協会に復帰し、圓楽師が1980年に「大日本落語すみれ会」を設立したことで一連の騒動が一段落した時期です。
 会長としてお忙しい日々を送られていましたが、小誌の印刷をしてくれていた会社の方が、かつて二ツ目時の小さん師匠の勉強会のお手伝いをしていた奇縁も有り、インタビューが叶いました。若い頃馬楽時代の彦六師に噺を教わったが「歯切れがよかった」とか、「定席の顔ぶれも協会としては早く出したいと思っている」「両協会の顔付を合同でやってみたい」等興味深いお話がたくさんあります。また稽古をお好きな剣道の「守・破・離」にたとえている点は、落語より剣道がやりたかったと口にされていたお人柄が良く表れております。

(井上和明)

〇1982年3月号

――実に久々の独演会(3月26日東横落語会)ですが以前は?

小さん:神田の立花亭でね、戦争中……イヤ戦争中じゃねェや戦後だ。小三治になってからだから。「小三治を育てる会」というのをねお客さんがやってくれたんだ。これはまあ独演会みたいなもんだな。その前は……イヤその後だったかな、ある社長さんの家で「小さん勉強会」てえのをやってね、一年ちょっと続いたのかな、そこの奥さんが亡くなってやめたんだけど……そこで噺の数は増したりね。
 昔は、私の師匠(四代目小さん)の独演会てえのは興に乗ると五席くらいやったもんですよ。神田神保町の花月てェ席があったんだけど、そこでうちの師匠が独演会やった。戦争中だね。最初はお客も40〜50だったんだけど、だんだん増えて最後は二束(200)くらいなったかな。子供などもいないし、いい客ばかりで、はばかり行くにも頭低くして行くような人ばかりだから、そこでやる噺よかったね。お客もさあ聴こう、という姿勢だから。私はこの時分、ちょいと出ただけで召集されちゃった。

――しばらくやらなかった理由というのは?

小さん:めんどくさくなっちゃってね。その社長さんところの勉強会も一年以上やったんだから……昭和三十数年のころですよ。
 このごろ独演会でも二席しかやらない、独演会じゃねェんだよ。今度のは(金原亭)馬生さんにも出てもらうけど、いちおう三席(ろくろっ首、らくだ、花見の仇討)やるんだ。やるについちゃ別に心境の変化とかいうもんじゃないんだ、むこうがね、こういう番組をこしらえたいっていうから、たまにはこういう企画もいいんじゃないか、というのが出たんだね。それじゃやってみようかと、まあ独演会だから三席はやらなくっちゃ……。

――そのあとは池袋演芸場で、小三治師匠との余一会(3月31日)がありますね。

小さん:これもなにかかわった企画をやろうじゃないか、というのでね。マンネリ化しちゃうとあれでしょう。まあなにかやってみよう、ということだね。なんかそこに池袋の特徴を持たせて、お客も池袋に行くてェとこういうものがあるんだな、とわかってもらえれば、いくらかお客の入りも違ってくるだろうとね。
 タタミの席でね、噺をするにはやりにくいところじゃないんだ。ただお客に気の毒なのは3階まで上がってもらう、ということだね。若い人はいいけど、年寄りなんざァね、あそこまで上がって行くのは大変なんだな。だけど帰りは、噺聴いて下に降りるんだから……帰りに上がって行くてェのは、どうも聴き終わっちゃって、ガッカリして帰りに上に行くのはいやだけど、降りるんだから、まあいくらかは助かるね。

――いま、その池袋演芸場が定席閉鎖の危機を迎えている、とのことですが……。

小さん:あそこもそうそう赤字を出していられないからね、なんとか考えてくれということなんですよ。こっちもその気になってひとつやろうということで、もう少し辛棒して欲しいと、社長に頼んであるんだ。同じ落語やるんにしても、なんかそこに特色をつけなきゃお客の方も寄ってこないからね。(立川)談志なんぞがやると、談志の客がくるんだ。もっとも談志の客だけじゃこまるんだな、他がこなくちゃいけないんだ。
 4月以降、こっちもなんか考えようということになってるんだけどね。池袋ばかりでなく、浅草(演芸ホール)ももう少し立て直しをしようとね。4軒しかない寄席ですからね、これをなくすようなことになったら本当に申し訳ないことですからね。

――「定席の顔ぶれもかわら版に載せて欲しい」という投書が良くあるんですが、早く顔ぶれを決める、というのは協会としてどうなんですか?

小さん:なるべく協力しようと思っているんだけどねェ。早めに出すというのは宣伝するのには必要なことなんだけど……他の劇場とか、そいったものはみんなそうですからね。寄席もそういう風に、なんだけど、なかなかむつかしいんだ。早くから決めちゃっても仕事の関係でね、そうすると替りの問題が出てくる。まるっきり替りということになっちゃう場合もあるしね。まだ、替りがいればいいんだけど、不思議と、ひとつの日に集中しちゃって休むてなことができてきたりね。
 そいで、替りというのもむつかしいもんで、それぞれの人のファンもいるだろうし、それに格もあるからね。同格以上でないと替りにならない。こっちも素人時分に、あてにした人が出ないと本当に損した気分になっちゃったからね。(略)

――1月に亡くなりました林家彦六さんのことについてなにか?

小さん:圓えん生しようさんが亡くなって、そのあと林家まで……(桂)文楽、(古今亭)志ん生もいないし、寂しくなっちゃったスねェ。
 私が噺家になった時に、蝶花楼馬楽(故・林家彦六)でね、若い者の目標だったよ、ああいう噺家になりたいなんてね。歯切れがよくって……。当時、寄席には客が入らなくってね、いろんなことをやったわけ、「とんがり座」というのをこしらえて、怪談噺なんかやったりね。
 三代目の身内になってから、私の師匠とは兄弟弟子みたいなもので、師匠が小さんになったんで、馬楽があいて、その馬楽を林家が継いだんだね。噺もずい分教わりましたよ。教わるとみんなその口調になっちゃうんだ。「こりゃなんだな。馬楽に教わったな」なんてすぐわかっちゃう。
 しかし、明治の噺家というのはこれでおしまいだね。死ぬまで現役だったからねェ。若い時分、あんまり売れなくってね、後からきた人に追い抜かれる、ということもあったし……長生きして、それで売れてきたというか、いろんなこともよく知ってたね。圓生さんが亡くなって一対のものが片方だけになっちゃった感じだったのが、もう一つもなくなって大変な損害ですよ。

――本当にそう思います……。今、お話にありました、人の口調から抜け出すには大変なんでしょうね?

小さん:こっちは四代目小さんの“影法師”みたいだといわれてね。口調が似るから……だから師匠が「お前はオレの噺をやっちゃいけない、やったら小きん(当時)の名前を取り上げちゃうぞ」というから、方々に稽古に行ったね。自分の口調に合ってやりよかったのは、(三笑亭)可楽師匠(七代目)でね、そんな関係で私の噺が三代目に似ている、といわれるようになったんだね。私の師匠のをやると、その口調になるし、馬楽さんのをやると、馬楽さんになっちゃう。真似から始まるのだからいいようなもんだけどね、自分のものを出すというのは容易なものじゃないね。
 剣道に「守破離」ということばがあるんだ。教わったら、まず教わった通りにやる。そのあと、師匠のところからだんだん離れて、その型を破る。自分のものをこしらえるためには、その型を破らなきゃいけない。それには、いろんな師匠のところに行って、教わって歩くことが一番いいことじゃないかな。これらをミックスすると、なんかそこに出来上がるんだ。それがだんだん時がたつと、今度はだれの真似でもない自分のものが出来上がる。それが「離」で離れるわけでね、そこで初めてどうにか一人前、ということになるんだね。

――師匠の自宅道場で、毎月第一日曜日に、前座の勉強会(「錬成道場」)を開いてますね?

小さん:三十畳敷くらいの広さで、組み立て式の高座になっているんだ。若手真打にも出てもらってんだが、常連も多くて、楽しみにしてもらってますよ。

(構成 藤木順平)

〇1991年1月号

■浅草の思い出

――昨年は4月に「浅草芸能大賞」を受賞されましたが、師匠は浅草とはどんなご縁が……。

小さん:浅草は、寄席へ出るぐらいでね、あとは食べに行くくらいですかね。ヨシカミなんて洋食屋とかね。すし屋横町の隣に「あづま亭」っていう中華料理屋があってね。若い時分に柳家小半治さんと一緒によくそこへ行ったン。江戸館(戦前に浅草にあった寄席)に出演してた時にね、帰りに「あづま亭」へ寄って、もやしそばを注文するン。25銭なんだ。早く食べた方が勘定を払うン(笑)。持ってくるとタタッと、その熱いやつを食うんだね(笑)。それがどうしても二口三口負けちゃうんだ。悔しくってね。毎日やってたの。そしたら胃潰瘍になっちゃったン。向こうはたいこ持ちなんぞやって鍛えてんだから、違うんだよ。その当時小南師匠(初代)の「奴凧」って豆電球つけたやつね、それを後ろで回してたんだよ、それが胃が痛くて回らなくなっちゃった。とうとうぶったおれて、黄おう疸だんになっちゃって、二ケ月寝ちゃった。

――それはいつごろのお話ですか。

小さん:昭和14、5年頃かなあ。

■えっ、永谷園をやめた?

――去年1年間を振り返って何か。

小さん:うーん、振り返ってみるてェと、永谷園のコマーシャルをやめて……くびンなってね。去年の8月いっぱいで終りになったン。社長が替わってね、なんか新しくするってんでね。

――ああそうですか。それは気がつかなかったですね。

小さん:残ったのは須藤石材だよ。お墓はちょうどいいんだよ、年頃でね(笑)。あたしもぼちぼちっていう……(笑)。

■若い者は努力せよ!

――若い人の活躍もいろいろあったと思いますが、師匠の目からいかがですか。

小さん:そうね、(春風亭)小朝がひと月間(独演会を)やったりね。ひと月間、勉強するネタを出すというのは大変だよ。努力してるってことは結構ですよ。
 あたしがまだ若い時分にね、師匠連中が「お前、夜よく寝られるか?」てェから、「ええ、よく寝ます」てェと、「いいなあ、お前たちはよく寝られてなァ」なんて言われたことがあったけどね。自分がその位置に来て、色々と悩んでいる時にぶつかるとね、本当に夜寝ちゃあいられないン。夜中飛び起きて、しぐさをやってみたり、しゃべってみたりね。それで夢ん中で受けるんだ、バーッと。いいくすぐりだなあ、なんて思って、起きて考えてみるとちっとも良くなかったり……(笑)。そのぐらいでなきゃあ駄目なんだ。上手にはなれないン。

■芸人としての損と得

小さん:うちの小緑(現・柳家花緑。小さんの孫)なんぞは、もっとどんどん噺を覚えろって言うんだけど、駄目なんだな。どっちかって言うと不器用なのかな。覚えちゃうといいらしいんだけどね。器用にスーッとすぐ覚えらんないんだね。

――でも、覚えの遅いほどあとに残ると言われますね。

小さん:そうなの。兄弟弟子の(蝶花楼)馬楽が覚えが悪くってね。二人で可楽さんのとこなんぞへ稽古に行くとね、別々の噺を教わるわけだ。おれは脇で聞いていて、その噺も覚えちゃうんだ、こっちはね。

――「あくび指南」ですね(笑)。

小さん:帰ってきて「立花」の高座でもって、教わった噺をやるわけだ。向こうは忘れちゃうんだ。だからこっちが教えるの。ところが、教え込んじゃうと忘れないン。だから後になって「あそこはどんなアレだっけな」って言うとちゃんと覚えてるんだよ。だから、どっちが得かってェと、覚えが悪くっても忘れない方がいいよね。
 文楽師匠がそうだったン。文楽師匠は自分で原稿を書く、しゃべりながら。そうすると覚えるって……。色んな型の人がいるんだよね。

――師匠が小緑さんに稽古をつけるということはなさっているんですか。

小さん:いやあ、小学校の時分には稽古をつけたけど、この頃はそういうことはしないンで方々へ行って教わって来いって言ってるン。

――小緑さんも二ツ目になられて約1年、紀伊國屋で独演会をやったり活躍されているわけですが、師匠の目からごらんになっていかがですか。

小さん:つまり調子が良いんですよ、あいつは。それで派手だからね。声音が良いしね。そういうのは得だね。この調子でずうっと勉強していけば、どうにかものになると思うんだけどね。

■やっぱり人物描写が大事

――最近の若い人の高座についてはいかがですか。

小さん:枕で漫談みたいなことを言うでしょ。それが受けるからみんなやるんだよ。で、噺の本題へ入ると客が笑わなくなっちゃうんだよ。それはてめェの腕が悪いんだ、それだけの勉強をしないから。だからあたしの師匠(四代目柳家小さん)が、落語は人物描写が肝心だと。それができれば噺は面白いんだ。四季をはっきりさせて、舞台装置、状況が目に浮かぶようでなくっちゃいけないとね。やっぱり人物描写。それでくすぐりなんかも新しいものがぽんぽん出てくるんだね。創作力の無い者は噺家じゃない、とうちの師匠は言ったけど、本当にその通りでね。

――骨格でちゃんと人物描写をやって、その中に新しいくすぐりを入れていくという。

小さん:そうそうそう。その時代時代のものをうまくとり入れろと。それを入れたために噺がぶっ壊れちゃ何にもなんないン。邪魔にならないようにうまく入れなくっちゃならないン。

――言葉が今の人たちにはわからなくなってきているということも、よく言われますが……。

小さん:若い者がわからないからついて来ないって言うけど、なにも若い者にわからせるためにやる必要はないって言うんだ、おれはね。

―― 媚びることはないと。

小さん:そうそう。

■テープに頼っていては駄目

――今の若い人の勉強のし方についてはいかがですか。

小さん:どういう勉強のし方をしてるんだか、よくわからないな。テープだとかなんか、そういうもんでやんのが多いんじゃねェかな。テープはね、ちゃんとしたことを教えてくれないんだよ。上っ面だけなんだからね。噺の解釈のし様を間違えるてェと、これは駄目なン。噺の中の人物がどういう人物であるかってことの解釈が間違ってると、それで噺の総体が崩れちゃうン。それで、客も知らないで、喜んで聞いてるんだから、まあいいや、ということになっちゃうン。

――そうすると、噺の伝承というのは、基本的には師匠と向かい合って……。

小さん:そう。小緑がね、(古今亭)志ん朝さんとこへ稽古に行くときにね、「テープ持って行く」って言うから、「おそらく断られるぞ。ま、行って聞いてみろ」と。そしたらやっぱり断られたって。「そんなもん使うんじゃない。わかるまで教えてやるから」って言われたって。

――それはありがたいことですね。

小さん:テープなんぞ持っていって、あとでこれを聞きゃあいい、なんてな、そういう了見が駄目なン。

■初席のトリを小三治師に

――今年のことを少しお話し下さいますか。

小さん:今年は、初席(上野鈴本)のトリを小三治に任せたン。あたしが文楽師匠から上野の初席を継がしてもらって、やって来たんだけどね。大変なんだ、初席のトリを取るってことは。初席でどっか行くって訳にはいかないしね、責任があるからね。段々こっちも疲れてくるからね、気楽にしようと思ってね(笑)。二之席も(三遊亭)圓歌さんがやるようになったン。

――大分以前に師匠がおっしゃっていたのを伺ったのですが、「芸が枯れる」というけれども、それは噓だと……。

小さん:それはうちの師匠が言ったの。新宿でトリを取っていて、時間があるからというので「三人旅」を落げまでやったン。その時の高座が袖で聞いてて、大変良かった。家へ帰ってから「師匠、今日の『三人旅』はとても良かったです」って言ったら、「いやそんなことない。おれが小三治の時の『三人旅』が一番いい」とその時に言ったン。芸は上り坂の時の芸が一番良いんだと。個人差はあるだろうけど、上がるところまで上がったら、今度は下がるんだと。急激に下がるか、なだらかに下がるかの違いであってね。噺家だって役者だっておんなじだよ。ろれつは回らなくなるし、もの覚えは悪くなるし、耳も遠くなるしね。衰えた芸をいかに、悪く言えばごまかすってことなんだと。それを世間じゃ「枯れてきた」と言うんだと。

――師匠は今年、満76歳におなりですが本当にお元気で、まだまだ「枯れる」ということじゃないと……。

小さん:いやいや、そんなこと言うけどね、随分舌が回らねェんだよ。でも言い直しなんぞしねェんだよ。間違ッたことは、さっさと乗り越しちゃうン。言い直しなんかするてェとはっきりしちゃうからね(笑)。
 それでも、自分なりに噺を楽しんでやるようになったン。だから昔と随分違ってきますよ、やり方もね。

■両協会合同の顔づけを

――今年、やってみたいことは何かございますか。

小さん:今年は、向こうの会(落語芸術協会)とうまく話し合って、合同の顔づけをやろうと持ちかけて行こうかと思ってるの。上野はあれとしても、新宿、浅草あたりね。圓楽のとこも何でも来れば入れてね。

――それは良いことですね。師匠はまだまだ落語界のトップとしてご活躍いただきたいと思います。
今日はどうもありがとうございました。

(構成 大友浩)