読まなきゃわからない高山羽根子の不思議な世界 『オブジェクタム/如何様』佐々木敦氏による文庫解説を特別公開!
本書は、2018年刊行の『オブジェクタム』、2019年刊行の『如何様』の2冊の作品集を合本し、更にエッセイ「ホテル・マニラの熱と髪」を加えた文庫版である。高山は2009年に「うどん キツネつきの」で第1回創元SF短編賞を受賞、同名の短編集が2014年に刊行されており、『オブジェクタム』は2冊目の単著だった。その後、『居た場所』(2019年)と『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』(同)の2冊を挟んで『如何様』が刊行された。そして2020年に「首里の馬」で第163回芥川龍之介賞を受賞する。「居た場所」と「カム・ギャザー・ラウンド・ピープル」も芥川賞候補に挙げられており、3度目の正直で栄冠を射止めたことになる。デビューから初単行本まで5年程かかったものの、本文庫の親本2冊刊行あたりの高山の創作活動は旺盛を極めており(2019年には3冊も出ている!)、SFでデビューしながら純文学の世界でも注目の作家になっていったのもこの時期であった。そして私としては、そのすべての出発点は、何といっても「オブジェクタム」という作品にあったのだと言っておきたい。
「オブジェクタム」はじつに不思議な小説である(とはいえ「不思議」ではない高山の小説は存在しないのだが)。物語は「中野サト」という人物の語りによって進行する。サトは子供の頃に住んでいた土地へ向かいながら、小学生のときの或る出来事を回想する。とつぜん町内のあちこちに誰が作っているのかも知れない謎のカベ新聞が貼り出されるようになった。その内容は「スーパー山室と八百永青果店、ナスと柿における傷み率の比較」などというどうでもいいようなものだったが、いつのまにか町の生活に溶け込んで、町民たちに愛読されていた。サトは偶然、その新聞の編集発行人が祖父の静吉であることを知る。じいちゃんは俳句を習いに行くフリをして、ススキ野原の奥のテントでカベ新聞作りに精を出していたのだ。サトは静吉を手伝うようになる。だが祖父と孫の共同作業は、やがて静吉の入院によって終わりを迎える。そして……とこうしてあらすじを記していってもこの小説の不思議さはどうにもうまく伝えられない。とにかく読んでもらうしかないのだが、たとえばサトが友だちのカズと広場でカベ新聞を見ていると、静吉が通うフリをしていた俳句教室の先生で、不意に手品を披露したりする変な男「渋柿」が現れ、新聞紙の表面を指でなぞっていたかと思うと、こんなことを言う。
「タテが12と、80、80マス」
渋柿は笑顔のままで、カベ新聞の正面から顔を離して、額に上げていたメガネをもういちど引き下げて言った。
「ホレリスコード」
続けて言う。
「昔はデータを記録して、保存するために穴の開いた紙を使っていたんです。このカベ新聞の紙には、そのときに使っていた紙が漉きこんである。ずいぶん手間のかかることをしています」(「オブジェクタム」)
ホレリスコードとは初期の電算機の記録媒体であるパンチカード(穿孔カード)に使われていたコードの名称である。クラシックなSF映画に出てくるあれだ。なぜ唐突にホレリスコードなんてものが出てくるのか。どうして静吉はそんな技術を持っているのか。静吉はなぜそんなことをやったのか。そして、そのコードには何が書かれているのか。幾つもの謎が押し寄せる。すると渋柿が「うちの倉庫にまだカードを使ってデータを読むマシンがあったと思います」などと言い出す。ではそこから一挙にいわゆるエスエフになるのかというと、そうでもない。結局、ホレリスコードの謎はそのままになってしまう。
問題は、コードに何が書かれていたのか、ではない。コードとは暗号のことだ。暗号を解読することではなく、解かれ得ぬ謎としての暗号そのものが重要なのだ。そしてこの小説のクライマックスには、まさしく「暗号=謎としての光景」とでも呼ぶべき、比類なく美しい場面が待っている。
「オブジェクタム」には他にも幾つもの謎が埋め込まれている。結末に至って俄に物語の前面に出てくる偽札事件の謎。移動遊園地の謎。語り手の「中野サト」の謎。そして「オブジェクタム」という耳慣れない用語の謎。ラテン語では名詞の末尾に「um」を付加すると容れ物や場所を意味する中性名詞になる。つまりobjectumはobject=対象/物体の容器、つまり客観の収納場所といった意味だと考えられる。対義語はサブジェクタムである。ところがややこしいことにサブジェクタムとオブジェクタムの意味は中世においては現在とは逆だった。subjectumはギリシア語の「hypokeimenōn=下に置かれてあるもの=基体」のラテン語であり、objectumは同じくギリシア語「antikeimenōn=向こう側に投じられてあるもの=心的内容」のラテン語である。つまりサブジェクタムが客体/客観でオブジェクタムが主体/主観だったのだ。この用語法が逆転するのはカント以降の近代のことである。作者がどういう意図で、この題名を選んだのかはわからないし、小説の中でも触れられていない。だがポイントは「um」なのではないか。objectでもobjectiveでもobjectivityでもなく、objectum。かつては「心の内」という意味だったのに、歴史上の或る時期から「客観」へと変化した「向こう側にあるもの」、それらが収められてある「容器=場所=空間」。こう考えてみると「オブジェクタム」とは、この小説それ自体、いや、小説という営み/試みそのもののことを指しているようにも思えてくる。
「如何様」の時代設定は第2次世界大戦が終わって間もない頃、記者をしながら探偵のようなこともやっている女性の「私」は、知り合いの榎田から奇妙な仕事を依頼される。画家の平泉貫一が、大戦末期に徴兵され、捕虜になったのち復員した。両親と、夫と一度も会わぬまま嫁入りした妻のタエはよろこんで貫一を迎えたが、ほどなく彼は行方不明になってしまう。貫一の人相は戦争に行く前とは似ても似つかないほどに違っていた。榎田は男が贋物なのではないかと疑い「私」を雇ったのだった。「私」はタエをはじめ貫一とかかわりのあった人々を訪ね、失踪した男の正体を探っていく。戦前と戦後の貫一の2枚の写真は、どう見ても別人に見えるが、証言者たちの話を総合すると同じ人物であるようにも思えてくる。「私」は、貫一が腕の良い贋作画家であり、彼自身も変装の名手だったことを知る……題名の「如何様」は「イカサマ」と読むが、これは「いかよう」とも読める。まさにこれはいかようにも読める小説である。リアリズムの筆致で書かれてはいるが、一種の幻想譚でもある。本物と瓜二つの贋物、本物の代わりを完璧に務めている贋物は、もはや贋ではないのではないか。そもそも「本物」とは何か? 「本物/贋物」の判別が決定不能だとしたら、その違いに何の意味があるというのか? これもまた「謎」をめぐる、いや、謎としての小説である。そして高山羽根子の小説は、これ以外のどれを取っても、謎、謎、謎だらけなのである。
表題作2編に劣らず、この作家の特異性が際立っているのは、第2回林芙美子文学賞を受賞した短編「太陽の側の島」だろう。戦時に離れて暮らす夫婦が交わす手紙のやりとりが、いつしか謎めいた細部を孕んでゆき、やがておそるべき世界の実相が立ち現れる、私はこの小説を最初に読んだとき、あまりの驚きに本を取り落としそうになった。こんな小説をいったいどうやったら思いつけるのか、想像もつかない。そして本書の他の収録作、マルセル・デュシャンの作品と同題を持つ「L.H.O.O.Q.」も、外国で駅伝(?)を指導することになった「私」の物語「ラピード・レチェ」も、マニラのホテルで過ごした夜を回想するエッセイ「ホテル・マニラの熱と髪」でさえ、映像が思い浮かぶようなリアリティある描写と、シュールと呼ぶには現実との乖離がどうにも定かでない奇妙な展開、そして読み終えたあともいつまでも残存し続ける「謎」の魅力と強度によって、唯一無二の世界を現出し得ている。
高山羽根子ワールドへの扉として最良の一冊と言えるだろう。