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「読み継がれなければならない物語がある」――NHK時代劇にもなった傑作時代小説シリーズ『峠 慶次郎縁側日記』が復刊!作家・村松友視氏による文庫解説を特別公開

 読み継がれなければならない物語がある。
「慶次郎」が、それだ――。
 
 北原氏自身は、やわらかさと厳しさという、一見相反する面を持った方だったと思う。作品にもそれはあらわれていて、たっぷりした江戸情緒と、翻訳小説かと見紛うモダニズムを兼ね備えている。ほかに誰が、このような作品を描き得ただろうか。

砂原浩太朗(作家)

 元南町奉行所の同心・森口慶次郎が市井の弱き者に寄り添う、人情時代小説シリーズ、北原亞以子著『峠 慶次郎縁側日記』(朝日文庫)が発売になりました。本作は、善良な薬売りの若者が一瞬の過ちで人生を踏み外してしまう悲哀を描く中編小説「峠」など8編を収録しています。今回の出版にあたり、著者の北原亞以子さんと親交のあった作家・村松友視氏による文庫解説を公開します。

北原亞以子著『峠 慶次郎縁側日記』(朝日文庫)
北原亞以子著『峠 慶次郎縁側日記』(朝日文庫)

 毒は上澄みとなって表面に浮上するか、澱となって底に沈むかで、中間には存在しない。したがって毒見の役は、まず上澄みをたしかめるのだということを、どこかで読んだか耳にしたことがあった。なるほど毒は上と底にあり、中間にはない……私は、毒という世界を大きな価値としてとらえながら、そんなふうに呟やいたことがあった。無毒である中ほどの層に一般的で無味乾燥な世界があり、上と底に毒という贅沢な価値が存在する、と腑に落ちたつもりだったのだ。

 その感覚は、つい最近まで私の頭に宿っていた。たしかに、中間の層に毒の気配はなさそうだという思い込みが、私の物を見るモノサシみたいになっていたのだ。ボロ布と金ピカの衣にこそ、毒をからめた贅沢があり、中間のやれ紬だ絽だ紗だ何だといったことを取沙汰する領域には、およそ一般的な常識的価値を超えるものはありそうもないと。

 ところが、この作品を読んだことから、そんな私の思い込みが微妙にゆらいだ。目を凝らして見るならば、上澄みでも底の沈澱でもない、明快そうな中間の層あたりに、実は複雑で味わい深く、しかも贅沢な毒の気配がただよっていそうだと、そっと囁やかれたように感じたからだった。

 そういえば、北原亞以子さんとは何度もお目にかかっているが、そのたびに彼女の眼差しが気になっていた。その場の空気を支配するというのでも、仕切るというのでもなく、いつもやわらかくそこに存在している。だが、微笑をたたえたその眼差しの奥に、そこに流れている空気の芯を切り取るような色が、時おりふっと浮かんでは消えることがあった。表面上の空気とは別に、浮き沈みしている嗅ぎ取りにくい匂いを、掌にのせてかるく愉しんでいる……そんな色だった。

 この作品集を読みながら、私は何度もそんなときの北原亞以子さんの貌を思い出していた。そして、中ほどの層に浮遊する、見届けにくく複雑きわまりない毒のざわめきとうごめき……それこそが市井の贅沢で切ない毒の世界だと、思い知らされた。この作品集の『峠』というタイトルには、市井で普通に生きるはずの者たちが、何かの拍子に“毒”に出会い、“毒”に感染し、“毒”にさいなまれながら味わう、人生の“峠”という意味合いが込められているはずだ。「峠」という作品の中で、作者は登場人物にとってのっぴきならぬ踏み台となった碓氷峠と、人生の“峠”の苦味とを見事に滲ませている。

 この作品集は、“慶次郎シリーズ”の第四弾目であるという。森口慶次郎はもともと定町廻りの同心だが、今はその役を養子の晃之助に譲っての隠居の身、酒問屋山口屋の寮番……といっても居候といった趣きの気楽な身分だ。そして慶次郎は型通りの主人公ではない。主人公ではないが、つねに作品のうしろにある風景のごとき存在だ。市井に生きる者の性根や情を知り抜いた元同心の、含蓄ある人間の見方が、全体に風のようにながれている。したがって、その場合に登場するしないはともかく、主人公はやはりいつも慶次郎なのであり、伊達も粋狂も含み込んだ絶妙のタイトル・ロールとなっている。

 人が罪を犯す犯さぬのちがいは、誰が踏んでも不思議でないほど、人生の道筋に無数に埋められている地雷を、つい踏んでしまうか運よく踏まずに先へ進むかといった事柄である……そのことが、表題作の「峠」を初め、ここに収められたすべての作品から伝わってくる。そして、この差が人の運命を大きく左右するという見定めからは、もちろん額面通りの“人を裁く”という立場は生じない。だが、地雷を踏むか踏まぬかで、科人、被害者、その先の人生へ進む者という役が決まってしまうのは厳然たる事実なのだ。さて、どうする……この問題を共有するため、作者は慶次郎を隠居の位置に置き、自らの視座とかさねるという方法をとったのだろう。

 したがって、事件の結着であざやかに物語が閉じるというケースは、ほとんどない。その結着に溜息や呟やきや屈託をかさね、“にもかかわらず市井に生きる者はまた次の日を迎える。だが、その次の日にもやはり地雷を踏まぬ用心は必要なのだ”……という余韻が、終りにからみついていることが多い。このあたり、“仏の同心”ではあっても“仏”そのものではないという慶次郎像にかさなる心憎い設定だ。

 このシリーズは、慶次郎がスーパーマンでない点で、他の時代小説とのちがいを指摘されることが多いようだ。たしかに、慶次郎は一般的な人気時代小説シリーズの主人公のごとき、破格の腕前や才智を持ち合わせているわけではない。事件を、超人的に解決することもない。だがその代り、上げ潮のゴミのように慶次郎にまとわりついてきた岡っ引の辰吉や吉次や太兵衛、下っ引の弥五、山口屋寮の飯炊き佐七などが、したたかな役をこなしてくれている。これらの人間配置は絶妙だ。毒をもって毒を制するための油断ならぬタイプの登場人物として、実に頼もしい連中なのだ。私はいつのまにか岡っ引吉次のひそかなるファンになってしまっていた。

 さらに、そういうアクの強そうな男たちを作品にちりばめながら、どこまでも淡彩をくずさぬ作品の肌合いもまた、このシリーズの醍醐味だろう。単に淡いのではなく淡彩……このあたり、北原文学の髄のようなものにちがいない。

 茶碗や皿を洗い終えた手を拭くと、手拭いに血がにじんだ。かなかな蝉の声が聞えなくなったばかりだというのに、おつぎの手には、あかぎれのような裂け目が幾つも入っている。わざと押してみて、おつぎは顔をしかめた。痛かった。が、押しつづけていると、痛みが快感に変わってくる。手拭いの赤いしみも大きくなった。

(「峠」より)

 気がきかない女だとは、自分でも思う。「ぼんやり」と言われるのは、やむをえない。が、姑の言う「ぼんやり」には、もう一字ついた。
「薄ぼんやりだねえ、ほんとに」
 この「薄」という一字がふえたことで、おつなはどれほど傷ついたことか。傷ついて、気持も躯も縮んだことか。

(「蝶」より)

 急ぐことはないのだが、それが癖になっているのかもしれない。夕闇と、干物を焼く煙にかすんでいる長屋の路地に入ると、おまさの足はひとりでに早くなった。うちわで七輪の火をあおいだり、子供に味噌汁の鍋をはこばせたりしながら、「お帰り」と声をかけてくれた長屋の住人達は、おまさの亭主思いに、またあらためて感心したにちがいなかった。
 愛想よく笑って見せ、味噌汁の鍋を提げている子を「よく働くねえ」などと褒めてやって、おまさは、紙が薄茶色に変色している表障子の前に立った。

(「お荷物」より)

 わりきれない。
 しかたがないとは思うが、わりきれない。一を三で割った時に、どこまでも数字がならんでゆくような、きっぱりとしない気持があとに残る。女房が、晃之助の見舞いを心から喜んでくれたのが、唯一の救いだった。
 晃之助は、足早に角を曲がった。女のすさまじい悲鳴が聞えたのは、その時だった。

(「三分の一」より)

 こういったひとくだりには、時代小説独特の表現というより、現代小説の場面や心理の描写へと、すんなりと移行できるテイストがただよっている。いわゆる“見得”を切ったり、“決めゼリフ”をちりばめた時代小説風とは、一線を画すべき自然体の風味というのだろうか。それが、北原亞以子流の淡彩を成り立たせているのである。
 
 上澄みと底の沈澱という、毒のありように立ち戻ってみると、この作品集にあらわれるのは、“出来事と事件のあいだ”という世界が多い。光の当てようで、出来事としてすますこともでき、事件とする必要も生じる。そして、そこへ光を当てるのが人間であるとなれば、そこに情や道理や通念がからみついてきて、まことに厄介だ。厄介にはちがいないけれど、その領域の複雑な面白さに入り込んでしまえば、上澄みと底に沈澱している分りやすい毒など、単純明快すぎてつまらなくなるのかもしれない。それでこそ、時代小説と現代小説を自在に行き来する淡彩の構築が成り立つというものだ。
 
 私は、ここに収められた作品を堪能しながら、北原亞以子という作家のしたたかさを何度もかみしめさせられた。そして、“出来事と事件のあいだ”といえば、隠居した元同心という慶次郎の心のありようは、“市井人と同心のあいだ”であるにちがいない。それに晃之助や岡っ引や下っ引連中も……そう思って辿り直すと、“一を三で割った時”ではないが、この作品集にはどうしても割り切れぬ“あいだ”というキーワードが随所に見え隠れしているような気がした。それにつけても、北原亞以子さんのあのやわらかい微笑の裏側には、幾重にも織られて謎めいた綾が張りついているようである。