「これほど強い愛の言葉を私は知らない」林真理子さんが感嘆した作家夫婦の壮絶で静謐な愛/小池真理子著『月夜の森の梟』文庫解説を特別公開
小池真理子さんの『月夜の森の梟』は、朝日新聞紙上で、2020年から連載された。たちまち大変な反響を呼び、終了後に特集記事が組まれたことを記憶している。
が、私はものを書く人間なので、少し別の感想を持った。単に「感動した」「自分も亡くした大切な人を思い出した」というわけにはいかない。まず私が持ったものは「すごいなあ」という感嘆である。
愛する夫を亡くした、というエッセイであるが、一回として同じ切り口がない。全く読者を飽きさせることなく、この連載を続けることに、どれほどの文章力が必要なことか。ここには書かれていないが、もっと凄絶な修羅場や絶望もあったに違いない。が、小池さんはそういうことを極力省いて、自然のうつろいや、整理された記憶の中から見事な文章をつくり上げているのである。
小池さんはもともと、文章の美しさで定評のある作家だ。磨き抜かれた言葉は、凜とした水晶のようで、それは自然描写と実にうまく結びつく。
「金木犀」を描いた回がある。
「橙色の小さな花をつけた金木犀は、香りが感じられてもどこにあるのか、すぐにはわからない。さほど大きな樹ではないから、民家の塀や立ち木の向こうに隠れてしまう。風に乗って流れてくる甘い香りが、束の間、ふわりと鼻腔をくすぐっていくだけ」
これは37年前、二人が共に暮らしていた頃のスケッチだ。小池さんは金木犀を比喩として、幸福のさりげなさを書いているのである。読者はまず花の描写にひきつけられ、そしてすぐに人生の深淵へと誘われる。短い文章で、これだけのことが出来る小池真理子という作家に、同業者としての私はまずうなったのである。
などと技術論を書いていくと、私が藤田宣永さんの死に冷淡のように思われるが、全くそんなことはない。私は藤田さんが大好きだった。それほど長いつき合いではなかったが、文学賞の選考委員も一緒にするうち、私は藤田さんという人にどんどん惹きつけられていったのである。
よく喋る人であった。小池さんも、
「あの人は殺されても喋り続けるはず」
と言っていらしたが、食事にはほとんど手をつけず、煙草を吸いながらずっと話は終わらない。その話はとても面白い時もあったが、そうでもない時もあった。しかしそこにいる人たちは、藤田さんのサービス精神とやさしさにまず魅了されるのだ。あの時に流れていた温かい空気を懐かしく思い出す。
肺癌が見つかった次の年も、ちゃんと文学賞の選考会にいらした。皆に経過を聞かれ、
「それがさ、大変だったんだよ。こんな検査してこんなこと言われて、でもね、その後の経過がよくて……」
ずっとご自分の闘病について喋りまくった。
あぁ、少しも藤田さんは変わっていない。これなら大丈夫だと、私は涙が出そうになるぐらい嬉しかったのを憶えている。
けれどもその喜びはすぐに断ち切られたのである。軽井沢にお悔やみに行った私に、小池さんはさまざまなことを話してくださった。それは連載には書かれていない、本当につらい闘病のあれこれである。
おうちのリビングルームには、蓋が閉じられたままのグランドピアノが置かれていた。初めてうかがった時、このピアノに向かって藤田さんが毎朝まず何かを弾かれると聞いた。
「まるでジョルジュ・サンドが、毎朝ショパンのピアノで起きるようなものだね」
と言ったら、
「そんないいもんじゃないわよ」
小池さんは笑ったものだ。
二人を「おしどり夫婦」と呼ぶ人がいたが、それは違うと思う。小池さんも否定している。私が見ている限り、「おしどり」などというほのぼのとしたイメージはない。
激しく愛し合い、激しくリスペクトし合っていたという感じだ。その激しさゆえに、喧嘩が絶えなかったと文中にもある。
何年か前だろうか、酔った藤田さんが私に言ったことがある。
「俺は自己チューの男だから、俺が別れたくなければ絶対に別れないんだ。あいつが何と言おうと別れないんだ」
おそらくお二人にもめごとがあった時ではないか。とにかく「別れない」という言葉をずっと繰り返されていた。
どちらも人気作家とはいえ、二人が同じうちに住んでいれば、トラブルはいくらでも起こっただろう。しかし多くの人は、朝日新聞の一面に載った二人の写真を憶えているに違いない。それは2001年、藤田さんが直木賞を受賞した時の記事だ。小池さんはその5年前に直木賞を受賞している。藤田さんの受賞が決まり、まずは安堵したのであろう。夫を見つめる目は、まるで母のような優しさに満ちている。
それから何年かして、藤田さんが吉川英治文学賞という大きな賞を受賞された時の、贈呈式での小池さんの美しい着物姿も忘れられない。小池さんは4年前に、既にこの賞をとられているのだ。どちらかが狭量な心の持ち主ならば、おそらく嫉妬という黒いものがしのびよったに違いない。が、そんな気配はまるでなかったことに、私を含めてまわりの者たちはただただ尊敬の念を抱いていた。
「直木賞もそうだけど、夫婦で吉川賞ってまずいないよね」
藤田さんは嬉しそうにずっと喋り続けていたものだ。藤田さんはその十数年前、『愛さずにはいられない』という長編小説を書いていた。これは本書にもあるように、酒と煙草、ナンパに明け暮れる高校時代を描いたものだ。年上の女性と同棲もしていたらしい。しかし藤田さんがご自分の過去について、饒舌になればなるほど、あまり胸に迫ってこなかったのは、小池さんという絶対的な存在がいたからではなかろうか。それよりも、
「恋愛経験は多い方だと思うが、すべて小池真理子に出会うためのものである」
という言葉の方が、すとんと胸に落ちていくのである。
そして単行本帯カバーにも書かれたこの言葉。
「年を取ったおまえを見たかった。見られないとわかると残念だな」
これほど強い愛の言葉を私は知らない。妻に別れを告げながら妻を賛美している。当時小池さんは60代後半だったはずであるが、今もその美貌が損なわれることはない。藤田さんにとって、小池さんは長年つき添った古女房ではなかった。未だにみずみずしく美しい女なのだ。こんな夫が逝ってしまったのだから、小池さんが冷静でいられるはずがない。それなのに『月夜の森の梟』の、この静謐はどういったらいいのだろうか。やはりこれは作家の力技なのである。渾身の力を使い、静かに生と死を書いた。
そして、この本の大きな魅力は軽井沢の自然にもある。藤田さんの喪に服すように、その年の小鳥や動物たちはいつもと違う動きを見せたらしい。
小池さんは定点観測をしていると、私はご本人に言ったことがある。東京に移ることをせず、ずっと二人で暮らしてきた、山の中の大きなおうちに一人暮らしているのだ。雪かきをし、春を迎え、そして蝉の声を聞く。とことん夫の記憶とつき合った人でなければ、この本は書けなかったであろう。よそに行くことなく、動かずに自分の心をじっと観測した。
そしてこの連載と並行して、小池さんは『神よ憐れみたまえ』という長編を書き上げたのである。作家の矜持をつくづく感じる。