われわれは何度でも生まれ変わる/岩井圭也さんによる、藤井義允著『擬人化する人間 脱人間主義的文学プログラム』書評
われわれは何度でも生まれ変わる
〈自分の存在の希薄さを常に感じながら生きてきた。〉
藤井義允氏の初の単著『擬人化する人間 脱人間主義的文学プログラム』は、この一行からはじまる。自分のなかにあるものは全て作りものであるという違和感と、悲しみや怒りといった人間的な感情。そのふたつが併存している状態を、著者は「人間」らしさをもった「人間」ではないもの――「人擬き」と名付けている。また、自分たちは「人間からかけ離れた存在」でありながら、「自分は人間である」という矛盾を抱えた、「脱人間」化された存在であるとも語る。
この感覚は、現代を生きる人々が少なからず抱えているものではないだろうか。著者は1991年生まれだが、1987年生まれの私も、自分が自分でないような感じに絶えずつきまとわれてきた。この感覚を表現するための言葉を求めて、著者は現代文学の海へと飛びこむ。
本書で徹底して追究されるのは、「私」とは何者か、ということだ。
この問いは、近代以降の文学の最大の関心事であった。そしてその試行錯誤の内実は、時代によって大きく変遷してきた。明治期から昭和前期にかけては、近代的自我の確立が重要な主題であった。大雑把にいえば、封建的な日本社会において、西洋の「個人主義」を葛藤しつつも消化していったのが戦前までの文学である。しかしその後、日本において「個人主義」は衰退していく。もともと日本人にとって「個人主義」は違和感のあるものであり、耐用年数が切れるにともなって近代的自我は解体されていく。
その後、ポストモダンの時代が到来し、ジャン=フランソワ・リオタールが「大きな物語」の終焉を宣言する。しかしそれからすでに半世紀近くが経過していながら、現代を生きるわれわれはいまだに新しい自我を確立できていない。それどころか、テクノロジーの発展によって「私」は分裂していく一方である。
拡散を続ける「私」はもはや人ではないが、一方では人であろうとしつづける。すなわち、現代を生きるわれわれは「擬人化する人間」なのである。
著者は、朝井リョウ、村田沙耶香、平野啓一郎、古川日出男、羽田圭介らの作品を通して、現代の作家たちが「私」とどのように向き合ってきたかを概説しながら、「擬人化する人間」のありようを模索する。
本書のすぐれているところは、ディストピア的な状況における「私」に焦点化した点であろう。ディストピア小説はこの二十年近く、世界的ブームとなっており、現実社会の出来事と照らし合わせて作品が論じられることは少なくない。しかしながら、ディストピア的状況下で「私」を喪失した人間が、いかにして「私」を取り戻そうとしているかを論じた文章は意外なほど見かけない。現代日本文学を素材として、これほど包括的に現代的自我を論じたものは、これまでなかったのではないかと思う。
また、又吉直樹、加藤シゲアキの両名に材を取り、芸能人という「脱人間」的存在が小説を書く意義に言及している点も見逃せない。本書は全編にわたって、作品と作者を切り離す「テクスト論」的な態度から距離を取っている。作者の属性、あるいはインタビューでの発言を積極的に取り上げ、テクストとクロスオーバーさせることで、作家の心性を追究している。だからこそ、書き手という名の「私」を浮き彫りにすることに成功している。
本書の白眉は、最終章の米津玄師論である。米津玄師(=ハチ)の根底には、人と人とはわかり合えない、というコミュニケーションへの深い諦念があるが、時代が進むにつれて、彼は徐々に外へと歩み出していく。そして自己否定を繰り返した先に、「遠くへ行け」というメッセージを発するようになる。オリジナル=本物ではない「偽物」として、それでも人間であろうとする。
「私」を解体し、再構築することで、生まれ変わりつづけること。それこそが、「擬人化する人間」のあり方なのだ。本書は、これまで言語化されることのなかった現代的自我を提示する、会心の批評と言えるだろう。
本書では、古川日出男が「書くこと」と「読むこと」の循環によって、「私」の解体と再構築に取り組む姿が示されている。そして小説家である私自身にとっても、この態度には心当たりがある。
私の場合、小説を書く前に作品の主題を明言することができない。それは、私が「脱人間」的な存在であることと関連しているのかもしれない。
主題の代わりにあるのは、具体的なモチーフと「このモチーフを書けば面白そうだ」という直感だけである。そのため、一編の小説を書き終え、それを読むことではじめて、「自分はこういうことが書きたかったのかもしれない」と考える。そしてまた、別の具体的なモチーフから出発する。そういう行為を幾度も繰り返しているうち、最近になって、自分が本当に書きたい主題=「私」の輪郭がうっすらと見えてきた気がする。
砂場で城を作っては崩すように、これからも私は「擬人化する人間」としての自我を求めつづけるだろう。終着点があるのかもわからないが、それでもやるしかない。小説を書く以外に、小説家である「私」が生まれ変わる方法などないのだから。