ニッポンの思想と批評の奔流を追いながら、いま必要とされる生き方のモデルを刷新/「大人」になれない男たちを「成熟」の呪縛から解き放つ――佐々木敦さんによる刊行記念エッセイ「『日本的成熟』とは何か」を特別公開!
「日本的成熟」とは何か
去る七月八日に齢六十を迎えてしまった。還暦である。まだまだ若いつもりでいたのに、とかではないが、でもなんだか騙されたような気分だ。二十代前半からプロの物書きになり、気づけばあれこれやりながら三十五年もの月日が流れていた。芸術文化の複数の分野にまたがって仕事をしてきたので、著書の数もそれなりに多い。もう何冊目になるのか自分でもわからない(数えたことがない)が、このほど偶然にも「還暦記念出版」とでもいうべき新著を上梓した。『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊』である。
最終的に新書で出すことになったが、もともとは季刊文芸誌「小説トリッパー」に連載された長編論考をまとめたものである。いささか奇妙な題名かもしれないが、副題にあるように、まず第一に、これは庵野秀明論である。一九九五年にスタートし、二〇二一年に完結した(とされる)「エヴァンゲリオン」シリーズを中心に、現代日本を代表するアニメーション作家であり、アニメという枠を超えた圧倒的な人気と評価を誇る表現者である庵野秀明の作品世界を論じたものだ。「エヴァ」のみならず、『ラブ&ポップ』に始まる一連の実写映画や、『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』『シン・仮面ライダー』のこともじっくりと論じている。だがしかし、本文中でも再三断っているが、私はアニメというジャンルには疎く、幼少時にアニメに嵌まることもなかった。ただ庵野秀明だけが、アニメという領域における私の継続的な関心の対象であり、この意味で『成熟の喪失』は「アニメーション作家としての庵野秀明」について書いたものではない。アニメ史上の庵野の位置付けも、他のアニメ作家との影響関係や比較なども、全くと言っていいほど行っていない(というより私にはそれをする能力がない)。
では何をしているのか? もともと私は、庵野の作品を長年観てきたとはいえ、長い批評文を書いたり、ましてや一冊の本を著すとは思ってもみなかった。ところが「エヴァ」のシリーズ最終作と銘打たれた『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を映画館で観終わった時、強烈な引っかかりを覚えたのである。違和感と言ってもいい。これでいいとは到底思えない。これで終わってもらっては困る。その時の私の気持ちを端的に記せば、このようなことだ。困るも何も、四半世紀以上に及ぶ長い長いロードの終着点として他ならぬ庵野自身が選んだラストがあれだったのだから文句をつけるなと言われるだろうと思ったが、そして実際、同作の世評はすこぶる高かったのだが、それでも私は自分の「違和感」をどうにかして言葉にしたいと思い立った。そしてまず一本の『シン・エヴァンゲリオン』論を書き下ろし、それから間を空けずに庵野論の連載を開始したのである。最初の論文を書きながら、私には「違和感」の向こう側が見え始めていた。それは自分がかつて出した二冊の本、日本の現代思想の歴史を紐解いた『ニッポンの思想』と、私自身のある種の「哲学」を述べた『未知との遭遇』と繋がっていたのだ。どちらもずいぶん昔の本である(前者は二〇〇九年刊、後者は二〇一一年刊)。私は庵野秀明を論じつつ、同時にこれらの二著の続きがやれると思った。そこでキーワードとして立ち上がってきたのが「成熟」の一語である。
ここで『成熟の喪失』の副主人公の名前を出さなくてはならない。といっても書名からしてバレバレだが。文芸評論家の江藤淳である。江藤が(自死というかたちで)没してから二十五年が経つが、にもかかわらずその仕事は忘れられてはおらず、彼が主戦場としていた文壇や論壇に留まらない(それらはすでに廃絶しつつあるとも思うが)存在感を維持し続けている。江藤の代表作が『成熟と喪失』。副題は「〝母〟の崩壊」。刊行は一九六七年である。若い頃、私はそこで論じられている「第三の新人」への関心もあって同書を読んだが、なんだかよくわからなかった。私は文芸批評もやってきたが、江藤の他の著作に触れることはあったものの、『成熟と喪失』を相手取ることはたぶん無意識的に避けてきた。今思うとそこには、自分の手には余るという意識と、やはり一種の「違和感」が働いていた。そして私には、この二つの「違和感」が通底していると思われたのだ。したがって、私の庵野秀明論に江藤淳が召喚されるのはいわば必然だった。
『成熟の喪失』は庵野秀明の作品世界を論じたものであると同時に、現代日本における「成熟」の姿を浮かび上がらせようとする試みである。「エヴァ」という物語が、主人公である碇シンジが「大人」になる、すなわち「成熟」するまでを描いた、紛れもないビルドゥングスロマンであることを踏まえて、そこで最終的に提示される「大人=成熟」モデルに私が抱いた「違和感」を、それより半世紀以上前の江藤淳の「成熟」論への「違和感」と突き合わせて、更に先に挙げた自分の前二著の議論を引き継ぎつつ、私が「日本的成熟」と呼んでいる心性(のようなもの)を明らかにし、出来得るならば、その更新を、アップデート・ヴァージョンを提出したい、なんだかややこしいが、纏めるとこのようなことが私はやりたかった。それがどの程度上手くいっているか、その「更新」が果たして有効なものであるのかどうかは読者に委ねるしかないが、偶々のこととはいえ(私はこれを書きたいと思った時、自分の年齢を特に意識してはいなかった)、私は自分が事もあろうに還暦を迎えてからの最初の本が、これになってよかったと思っている。なぜなら私は自分が「成熟」しないまま(出来ないまま)この年になってしまったと感じており、そのことに開き直るつもりはないが、それがどういうことなのかをちゃんと考えてみる必要が、おそらくはあったのだから。
劇場用映画四本から成る「エヴァンゲリオン新劇場版」の第三作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』と第四作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の公開は約八年四ヶ月離れている(その間に『シン・ゴジラ』が撮られた)。碇シンジは『Q』のラストで、ある事情で昏睡し、『シン・エヴァ』で目覚めてみると、なんと十四年が経過していた。私は眠っていたわけではないが、少し似たような気分である。そして私は、こんな風に感じるのは自分だけではないのではないか、とも思っているのだ。確かに私はやや特殊な人生を歩んできた。だが「成熟」とのすれ違いは、実のところ少なからぬ人々が感じているのではあるまいか。また、若い世代にも「成熟」の要請(強制?)に震えている人たちが結構いるのではないか。このような推測も私が今回の本を書いた動機のひとつであったと思う。「成熟」の逆は「未熟」、「大人」の反対は「子供」である。「おわりに」から引用すると「未熟とかコドモとかいった言葉はネガティブな意味合いで使われがちだが、自分がそうだと、そうなのかもしれないと思って密かに恥じ入っている誰かを救いたい」。私は本気でそう思っている。そしてまた、幾つかの条件を満たせば「成熟」した「大人」であるとされるニッポンの長年の常識に対して、僅かなりとも抵抗を示してみたかった。そんな「成熟した大人」にも実際には幼稚な恥知らずが沢山いる。それは誰もが知っている事実だ。だから敢えて言うならば、『成熟の喪失』は「日本的成熟」に異議申し立てを挑む戦闘的な書物である。
だからその「日本的成熟」って結局何なの?と問いたくなるだろうが、それは拙著を読んでいただくしかない。先回りして述べておくと、しかし『成熟の喪失』を読んだからといって「日本的成熟」の明確な定義が得られるわけではない。しかし、庵野秀明と江藤淳を重ね合わせて論じ、新書にしてはかなり多い四〇〇ページを費やさないと、私はこの問題に迫ることが出来なかった。自分でも不思議な本だと思うが、ぜひ読んでいただきたい。