母娘問題の第一人者による力作『母は不幸しか語らない 母・娘・祖母の共存』/水上文氏による解説を特別掲載!
私たちは親と共存することができるのだろうか?
親の加害性を告発する言説の洪水を見ると、時に私はそんな風に問いかけたくなってしまうことがある。
告発の言葉は増えた。もう、親からの加害を子どもの立場から告発しその長く続く悪影響を表現する「毒親」という言葉だけではない。ただ格差ばかりが拡大していく現代では、平等なレースなんてどこにもないことを誰もが知っている。そして「親ガチャ」という言葉も広まった。どんな親のもとに生まれるかは選ぶことができないという偶然性を強調し、親とガチャを並列にする言葉――それは社会的格差や不遇を出生における個人的な「不運」として捉える見方を示すと同時に、「親の愛」をめぐる神話の決定的崩壊をも語るかのようだった。
さらに2010年代後半には、オンラインを中心に反出生主義なる思想も広まっていった。デイヴィッド・ベネターという哲学者によるこの思想は、「生まれてくるべきではなかった」「人間を新たに生み出すべきではない」という強烈な誕生/出生の否定として、特にオンライン上で類い稀な訴求力を持った。もちろん毒親も親ガチャも、「親の愛」という神話を切り崩す言葉ではある。ただ反出生主義は、切り崩すだけではない。それは「親」という存在そのものに対する、哲学的かつ絶対的な否定だったのだ。
本書の単行本が刊行された2017年から現在までは、子どもの立場から親の加害性を告発する言葉が増殖し、広まっていった期間だったように、私には思える。
毒親、親ガチャ、反出生主義――こうした言葉によって彩られた時代に、それらの言葉が生み出された背景にある問題をしかと見据えるには、どうしたらいいだろう?
センセーショナルな言葉や思想として単に消費されるのではない道筋を探るには、何をどう考えたらいいのだろうか。
「毒」親を捉え直す
そして本書こそ、この困難な時代に読むべき最良の手引書なのである。
カウンセラーとして長年働く著者は、「毒親」という言葉が登場するよりはるかに前から、親子関係に起因する苦しみを抱えた様々な人々に相対していた。本書はそんな著者が、カウンセラーとしての経験に基づきながら、問題を社会的・歴史的背景のもとに文脈付けて考察したものなのだ。
とりわけ議論の中心になるのは、これまで「父と息子」が重視される一方で軽視されてきた「母と娘」の問題である。「母の愛」という、最も不可侵の神話として存在してきたものの支配性と加害性を暴き出すこと――本書はそんな課題に取り組まざるを得ない人々に寄り添いながら、同時に、問題を「母娘」の個人的なものに終わらせず、その背景にある時代や社会、ジェンダー、近代家族といった問題に鋭く切り込んでいくのだ。
著者は懸念していた。毒親や毒母をはじめとする言葉の広がりが、一過性の流行として消費され尽くして終わることになりはしないかと。散々消費し尽くされた末に行きつく先には、「やっぱり母は大切だ、といったドミナントな言説への回収」(p24)があるのではないか、と。ただでさえ、母性愛神話に包まれた母の愛は家族関係の中心的な機能を今も担わされ続けているのだ。ならばようやく手にした告発の言葉が、再び奪われることもあり得るのではないか。
あるいは、毒という言葉は様々な問題――母娘関係にまつわる歴史、近代家族、ジェンダー、世代間の確執、母と息子といった膨大な問題系――を一気に単純化してしまうのではないか。たとえば母性神話は、母の役割の巨大さは、決して普遍のものではない。それは近代家族の形成と絡まり合い、ジェンダーをめぐる社会的な構築物である。にもかかわらずこうした複雑さが捨象されるとしたら、それこそ真の「猛毒」ではないか。
だから著者は、容易く解毒させないために、母娘関係を歴史的に文脈付けるのだ。
母娘をめぐる言説の歴史/団塊の世代
では、母娘をめぐる言説の歴史とはどんなものだろう?
著者は1970年代からの臨床経験に基づいて、日本における母娘をめぐる言説の歴史を四つに分けて説明している。まず日本のフェミニズム運動(ウーマン・リブ)の影響によって母娘関係に光が当たった1972年以降を第一期。AC(アダルト・チルドレン)という言葉が社会的な注目を浴びるに至った1996年以降を第二期、さらに著者による『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』や斎藤環による『母は娘の人生を支配する』などの母娘本が立て続けに刊行された2008年以降を第三期。そして東日本大震災後「絆」の強調を経て、当事者本(体験記)の大量刊行と毒母・毒親ブームが起きた2012年以降を第四期とする区分である。
こうして「母娘」に光が当たった時期を特定する必要があるのは、そもそも、母娘は常に注目されていたわけではなかったからだ。
むしろ精神分析の祖であるフロイトの理論(エディプスコンプレックス)に代表されるように、男性中心主義的な社会において光を当てられるのは決まって男性であり、要するに父息子の関係であった。そこでは女性/母娘の関係は、ほとんど語られていなかった。そんなフロイト理論を批判した人々が、1960年代後半に勃発した第二波フェミニズム運動のフェミニストだった。彼女たちはフロイト理論を批判し、母と娘の関係を語り直そうと試みていたのだ。
そして同じころ、日本で第二波フェミニズムの展開に関心を持っていたのは、団塊世代の女性達だった。だが、先の区分で言う第三期を牽引した人々とは、世代としてはこの団塊世代の女性達の娘にあたる人々なのである。自らも団塊世代と言える著者は、カウンセラーとして被害者の立場に身を置くことを心掛けているからこそ、混乱したのだという。同世代として、被害者より身近に感じる母親らが、まさに今目の前の被害者によって告発されている加害者だということ。その経験によって、著者は「団塊世代」を世代的当事者として解剖する必要に迫られたのだ。
団塊世代を考察することで明らかになるのは、まさに戦後日本社会の問題である。
革命の理想が潰え、かつて抱いた理想とは真逆の道を歩み、感情言語を失った企業戦士として馬車馬のように働き、妻子とのコミュニケーションを疎かにしていた団塊世代の男性達。あるいはそんな夫の傍らで、戦後民主主義がもたらした建前としてのジェンダー平等とロマンティック・ラブ・イデオロギーの理想が無残に裏切られていくのを目の当たりにし、失望感に苛まれていった団塊世代の女性達。彼女たちは夢破れた代わりと言わんばかりに、子どもに全てを注ぎ込む。そしてそんな母親から過剰な期待をかけられ、過度な支配に苦しむ子どもたち。こうして問題は母子に焦点化され、父は後景に退いていく――それは、戦後日本社会のジェンダー構造が生んだ歪みそのものなのだった。
共存に向けて
要するに本書が読者に授けるものとは、言葉と知識である。
苦しみを表現する言葉を、そしてあまりにも個人的だった問題をより俯瞰的に見るための知識を、本書は授ける。苦しみをカジュアルな言葉で消費せず、また個人的な「不運」にも帰着させないために必要な議論を、本書は行っているのだ。
たとえば世代やジェンダーを歴史や社会に接続していく本書は、物事をこれまでとは異なった仕方で捉えることを可能にするだろう。あるいは、母娘問題の陰に隠される夫/父の役割の重要性を強調し、母息子問題の深刻さにも触れる本書は、これまで自分が考えていた問題の根を、本当の在処を探り出すことにもつながるかもしれない。いずれにせよ、グループカウンセリングの豊富な知見や具体例、具体的なアドバイスに満ちた本書は、今まさに苦しんでいる人に寄り添い、ヒントを与えるものに違いない。
なお、仮に読者が団塊世代とその子ども世代のどちらでもなかったとしても、依然として本書で行われた歴史的文脈に関する議論も重要である。なぜなら歴史とは現在に確かに繋がっているのだから。現に本書では、高齢化社会である現代にあって祖母、母、娘という世代をまたがって存在する問題がますます増加していると指摘されている。世代間の問題は、私たちが生きる現在と歴史の切り離せない連続性を実証している。
なお、それは個人的にも納得のいくことである。なにしろ私はかつて、曽祖母、祖母、母、私と、女四代でひとつの家に暮らしていた(付け加えれば、祖母はまさに団塊世代である)。母娘関係が幾重にも入り組んだ中で幼少期を過ごした「娘」である私にとって、本書は他では見ることのできなかった道標を様々に示してくれた。あなたはひとりじゃない。そう思うことで踏み出せる道に、本書は読者を確かに誘うものである。