「『悪逆』は面白い。文句なしに面白い。絶対のお薦めだ」文芸評論家・池上冬樹さんが太鼓判を押す、本年度最注目のクライム・サスペンス!【黒川博行著『悪逆』書評】
カタルシス vs.ピカレスクの魅力
黒川博行の小説は読みとばせない。軽妙ですいすい読めるのに、台詞の一つひとつに味があり、笑いがあり、キャラクター描写の冴えがある。相変わらず語りの巧さは天下一品で、大胆で不埒なストーリー、賑々しいキャラクターの妙、リズミカルで生き生きとした会話が素晴らしく、笑いながら頁を繰っていく。退屈に思えるところなど微塵もない。さすがは「浪速の読物キング」(伊集院静)だ。
物語はまず、殺し屋が広告代理店元社長大迫を殺す場面から始まる。綿密に計画をたてて、証拠を一切残さずに、金塊のありかを吐かせて、残酷に殺す場面なのだが、徹底したプロ意識に貫かれた犯行で、警察捜査が手こずるだろうことが予測される。
大迫は「ティタン」という広告代理店を経営していて、事業のパートナーは「大阪ミリアム」という弁護士法人。消費者金融の過払い金請求代行で有名になった法人で、テレビや雑誌などで派手な宣伝をして大儲けしたはずなのに、金融会社から回収した過払い金を依頼者に返還せずに着服したか横領したかで、一昨年に破産。ティタンもそのあおりをくらって破産した形になっているが、警察の見立ては、大迫が大阪ミリアム破産の黒幕で、計画倒産。実際、敷地三百坪の豪邸に住み、輸入車二台を所有していた。
事件はそれだけでは終わらなかった。「エルコスメ」というマルチ商法企業代表の成尾が殺されたのだ。成尾は多数の被害者を生み出して、訴訟沙汰になっていた。大迫同様、成尾もまた数十億を隠し持っていた。殺し屋は殺しの手口をかえ、巧みに現金を強奪する。今回も犯人につながるような遺留品はひとつも残さなかった。
黒川博行の小説は、主人公二人の物語が多い。経済やくざの桑原と建設コンサルタントの二宮が活躍する疫病神シリーズ(『疫病神』『国境』『暗礁』『螻蛄』『破門』『喧嘩』『泥濘』)がそうだし、疫病神ものと拮抗する面白さをもつ元刑事の堀内&伊達シリーズ(『悪果』『繚乱』『果鋭』『熔果』)、大阪府警刑事部薬物対策課の桐尾武司と上坂勤が活躍する『落英』、上坂勤が泉尾署刑事課捜査二係に異動して新垣遼太郎と捜査する『桃源』などもそうで、二人の行動を中心に物語っていく。
今回も刑事二人が主人公。大阪府警捜査一課の舘野と箕面北署のベテラン刑事・玉川だ。若いエリート刑事と所轄のベテラン部屋長がコンビを組み、たーやん、玉さんと呼び合って、一歩一歩殺し屋(別に仕事をもっている)へと迫っていくのだが、他と異なるのは、殺し屋の視点を随時入れて、犯行を詳細に物語り警察を翻弄する点だろう。
この緻密な犯罪遂行と綿密な警察捜査が交互に捉えられるカットバックが実に秀逸。殺し屋と警察の動きが逐一描かれてあり、警察の動きが犯人に追いつかないのではないかと思えるほど犯人側のほうが警察のはるか先をいく。未解決に終わるのではないかと玉川が考えるほど殺し屋は尻尾をつかませないのだ。それでも徐々に捜査が進展し、少しずつ犯人に近づいて、監視体制を整えるあたりから物語は大いに盛り上がることになる。
同時に、殺し屋の存在も大きくなってくる。なにゆえの犯行なのかを一切明かさず、緻密な計画と無慈悲な犯行の過程をクールに描くから、次第に魅せられていく。終盤近くになって殺し屋の肖像が具体的にあかされるものの、善良な人間たちを食い物にする男たちを次々に成敗するイメージもあり、次第に肩入れしてしまう。ピカレスクの魅力が増していくのだが、しかし同時に、舘野と玉川コンビの地道な捜査活動も報われてほしくなり、犯人へと辿り着きそうになると、もう少しだ! と応援したくもなるから不思議だ。とにかくこの殺し屋の行動に追いつこうとする刑事たちの丹念で具体的な捜査が読ませるし、警察の動きを察知して、新たな殺しを実行して、逃走をはかろうとする殺し屋の驚くべき行動力も颯爽としていて恰好がいい。
帯に「ラスト5ページまで結末が読めない」とあるのは、まさに物語がどちらに有利に展開するのかわからないからである。警察小説としてカタルシスを生むのか、それともピカレスクの魅力を強く出してしまうのか。どちらでも納得がいくし、正直どちらも読みたいと思った。戦後日本文学の傑作に福永武彦の『死の島』があるが、この小説には結末が三つあり、それを読者が選択する形になっている。エンターテインメントでは難しいかもしれないけれど、そういう複数の結末を想像するほどスリリングなのである。実際、雑誌連載時とは異なる結末というから、文庫収録時には、幻の結末を付録にして読ませてくれないだろうか。と、そんな先々のことまで期待して昂奮を覚えるほど、『悪逆』は面白い。文句なしに面白い。絶対のお薦めだ。