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“宿命の少女”伝説の誕生と瓦解 歌手・藤圭子とは何者だったのか?

 昭和の高度経済成長期の世、凄みのある歌声で一世を風靡した演歌歌手・藤圭子。時代に翻弄されて引退、平成になって歌手・宇多田ヒカルの母として再び注目を浴びるも、謎の死を遂げた。藤圭子とは何者だったのか、『あの時代へ ホップ、ステップ、ジャンプ! 戦後昭和クロニクル』(朝日新聞出版刊)から抜粋して、歌手人生をたどる。

『あの時代へ ホップ、ステップ、ジャンプ! 戦後昭和クロニクル』(朝日ビジュアルシリーズ)
『あの時代へ ホップ、ステップ、ジャンプ! 戦後昭和クロニクル』(朝日ビジュアルシリーズ)

「歌い手には一生に何度か、ごく一時期だけ歌の背後から血がしたたり落ちるような迫力が感じられることがあるものだ」

 作家・五木寛之がエッセー(『五木寛之エッセー全集・第四巻 ゴキブリの歌』講談社)の中で、新人歌手・藤圭子にふれてから、彼女につけられたキャッチフレーズ“演歌の星を背負った宿命の少女”はひとり歩きを始めた。

 藤をスカウトした作詞家の石坂まさを(沢ノ井竜二)は、「マイナスはプラスになる」と、藤の生い立ちを売りだしの材料にした。幼いころの浪曲師の両親とのドサ回り生活。 上京してからのネオン街での流しの生活。これに“暗さ”と“つらさ”を加え、 石坂氏は、宿命のドラマをつくり上げた。藤のインタビュー記事をいくつか読んでいくと“宿命の少女”伝説の誕生と瓦解が浮き上がってくる。

 デビューは昭和44年の秋。その翌年早々の取材で、藤は石坂ドラマを演じ始める。

「生活するということで、つらく苦しい、涙が出るようなことがありました」「早く一人前になって、両親のためにマイホームを建てたい」「暗いさみしい歌が好きです。映画、悲しい物語。まんがもコミカルなのだめです」

 そして、取材が終わると「ありがとうございました」と挨拶する。このけなげさと、藤の歌う歌の世界とは対照的な明るさが、逆に哀切感を盛り上げ、シンパを増やしていった。

 マスコミは、藤の宿命のドラマをさらに悲劇的に表現していく。その一方で「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」などが爆発的に売れると、こんどは姉の離婚といった藤にまつわるスキャンダルを書きたてた。藤のマスコミに対する不信感が強くなるのは、デビュー1年目あたりから。

藤圭子さん

「インタビューって、きらいよ」と言い始め、「アサヒグラフ」(昭和45年7月31日号)のインタビューでも、

「もう思考能力がなくなってますからどんどん聞いて下さい。ハイ、イイエで答えますから」

 と投げやりな一面を見せた。

「ぜいたくはできなかっただろうけど、別にお金に困ったことはなかった」と、悲劇性過剰の宿命ドラマに対して反発し始めている。育ての親の石坂もこの取材中に早くも、「藤圭子の時代は終わった」と語っている。

 藤が第1回日本歌謡大賞や日本レコード大賞大衆賞を受け、さらにNHK紅白歌合戦に初出場するのは、石坂が藤圭子の時代の終わりを告げてから半年後のことである。そして、翌年には前川清との突然の結婚、そして1年後の離婚。藤圭子の“宿命の少女”伝説には、ほぼ1年ほどでピリオドが打たれることになる。

 しかし、その伝説づくりは見事というしかない。五木寛之が前出エッセーの中で、「ここにあるのは、<艶歌>でも<援歌>でもない。これは正真正銘の<怨歌>である」と書き、全共闘世代が「新宿の女」の一節、バカだな バカだな だまされちゃって……、に共感したことなど、時代の雰囲気すべてが、たとえ短期間だったにせよ、藤圭子という演歌歌手を幾重にも支えた。

 時代が“怨歌歌手”藤圭子をスターに押し上げ、やがて彼女はその時代の重みにつぶされ、消えていく。結婚、離婚、引退、渡米。そこには、彼女なりの抵抗の跡がうかがえる。伝説で語られた暗い人生は、むしろ伝説崩壊後の一時期、 藤を直撃したと見るほうがいい。藤は「週刊朝日」(平成10年7月9日号)のインタビューに対して、こう答えていた。

「子どものころから歌が好きと思ったことは一度もなかったんです。歌えなくなって初めて、私は歌が好きだったと気がついたんです」

 独身時代の本名・阿部純子から、旅回り歌手の時代には三条純子、上京してソノシートに歌を吹き込んだときには島純子、そして“演歌の星”藤圭子。昭和54年に一度引退、2年後にカムバックした。“歌う藤圭子”に、彼女が愛情を感じはじめたのは、カムバックしてからだろうか。“怨歌”のイメージは、自殺とも思える謎の死にあるだけだった。

(文:生活・文化編集部 宮本治雄)