「生きるのに“やる気”は不要」ベストセラー作家・森博嗣氏の“諦めの作法”
■見切り癖の早さについて
【相談1】
僕は昔から、なにごとも拘らない性格です。仕事でも「これはこれでいいや」「こんぐらいでいいや」と手離れも早いです。正直、「どうでもいいや」という感覚に近く、本質的に興味がないのかもしれません。
それはそれで楽なのですが、たまに「あのときもっと慎重に考えておけば良かった」「もっと必死にやっておけば、あの成果は自分が手にしていたのかも?」と後悔をすることも。
諦めずに結果を出している人も見かけるため、このままの自分で良いのか、もやもやしています。
【森博嗣さんの答え】
今のままで、よろしいのではないでしょうか。
「後悔なんかしなくてもいいや」とお考えになれば、ハッピィになれるのではないでしょうか。嫌味でいっているのではありません。
僕は、これまでの人生で、後悔という行為を一度もしたことがありません。過去のことについては、すべて肯定しています。なにしろ、自分が考えて、自分で決めたことです。誰のせいでもないし、もちろん、やり直すこともできません。
ですから、ご相談の前半の部分は、まったく僕と同じです。その勢いで、すべてを「これでいいや」と思うだけのことでは?
ある意味で、「これでいいや」といえるのは、とても凄いことだと思います。「これでいいや」と思えるまで、なかなかできないものです。
もやもやするのは、もやもやしたいからだ、後悔するのは、後悔したいからだ、と思っている人間です。誰もが、自分がなりたい人間に、思いどおりの人間になれる、と考えています。
■諦めたら、やる気が出ない
【相談2】
人生を諦めたは良いのですが、そうしたら、あらゆることのやる気が出ません。
すべてが、どうでも良いのです。
休みの日は、食べて、寝て、ネットを見るだけです。このまま漫然と死を迎えるしかないのでしょうか?
ある程度の健全なエネルギィを保ち続けるコツは何でしょう?
【森博嗣さんの答え】
やる気なんかなくても、あなたは生きているわけですね?
それで充分ではないでしょうか。それが、「人生を諦めた」という意味です。健全なエネルギィを保ち続けることも、ついでに諦めればよろしいのではないでしょうか? 人生を諦めるよりも、だいぶ簡単だと思います。
「コツ」というものが、どういう意味なのか、僕にはわかりません。世の中にそういうものが存在するのでしょうか? 僕は見たこともないし、経験したこともありません。誰かが、そういうものがあると吹聴しているのでしょうか? おそらく、それは宗教に近いものでしょう、と想像するばかりです。
僕自身、毎日沢山のことをしなければ生きていけません。食べたり寝たりするのもそうです。でも、それらに対して「やる気」をもって臨んだことはありません。やる気を出しても、特に良いことはなにもありません。それは「コツ」と同じく、「やる気」を信仰する宗教のようなものなのでしょう、きっと。
■夢を妥協するタイミングとは?
【相談3】
自分には夢があります。それは、自分自身の趣味を完全に楽しめる家を造ること。しかし、そのためには、何千万単位のお金を注ぎ込まなければいけないし、住む場所も限られます。理解してくれるパートナも見込めません。
趣味のためだけの人生になるのは確実です。時間もお金も限られている中で、自分の趣味をとことん追求する勇気も、まだ持てずにいます。どこまで自分の欲望を追求すべきで、どのタイミングが諦めどきなのでしょう?
【森博嗣さんの答え】
その夢を実現させるために、今まで何をお試しになりましたか?
その家の設計図はもうできているのでしょうか? 実際に建設費がいくらかかると試算されましたか?
パートナの方には、どのようなアプローチをされたのでしょう? 何故、理解が見込めないと判断したのですか?
お金が足りないのなら、仕事に励むなど、沢山の手段が考えられますが、あなたは何を試されましたか?
どこまで自分の欲望を追求すべきか、と疑問を持たれているようですが、「追求すべき」といった規制はありません。どこまで追求しても、誰も文句はいいません。
少なくとも、実際に時間とエネルギィをかけて、努力をされたのなら、「自分はここまでかな」というタイミングはわかるものです。山に登っているとき、体力の限界を感じれば、「これ以上は無理だから下山しよう」と判断します。登りもしないうちから、「どこまで登るべきか」「どのタイミングで諦めるか?」などと悩む必要はありません。
実際になにかを実行することで、その夢に近づけるはずです。たとえ夢が完全に実現できなくても、「夢に近づいている」という手応えで小さな満足が得られます。少なくとも、夢に近づいている人たちは、このような質問をしないと思います。