「笑いあり涙あり感動あり!短編集ならではの醍醐味」書評ライターの松井ゆかりさんが、大好評の森絵都さん最新刊『獣の夜』をレビュー!
森絵都作品の魅力はいくつも列挙できるが、思わず笑ってしまうユーモアというのも間違いなく筆頭にカウントされる要素のひとつだ。本書でそれがとりわけ顕著に感じられるのは、表題作であろうか。主人公の紗弓が夜の約束に備えて仕事を片づけていたところに、一本の電話が入った。予期せぬ頼みごとをしてきたのは、大学時代に同じサークルだった泰介だ。夜の約束というのはやはりサークル仲間で現在は泰介の妻となっている美也のサプライズ誕生会のことなのだが、泰介は自分が彼女をパーティー会場に連れて行くはずの役割を急遽、紗弓に代わってほしいとのこと。しぶしぶ引き受けさせられた紗弓は、美也を指令通り予約してある店に連れて行こうと苦心するものの、雲行きはどんどん怪しくなっていく。
「新鮮な鎌倉野菜が売りのイタリアンレストラン」を目指していたはずが、なぜ二駅先の「ジビエ・フェスタ」にたどり着いたのかというところも笑えるのだけれども、そこからさらに著者の筆はノってくる。実は過去に因縁めいたものがあった女ふたりのバディものにもなっていて、こんなにおかしいのにじんとさせるのが素晴らしい。……と思っていたら、最後の最後にまた驚かされて、約五十ページの作品とは思えないほどの密度の濃さだった。食べている肉のことだけでなく、人間もまた動物であることをも指していると思うと、「獣の夜」とはなんとも意味深なタイトルである。
七編の収録作品は、テイストも多彩だし、長さもまちまち。各編の並びによって突然シリアスに転調するのも、本書の油断できないところだ。最短の「ポコ」は三ページ。四日前に飼い犬だったポコが亡くなって以来、小四の朔は大きな悲しみの中にあった。いまだ打ちひしがれている様子の朔と、すでに「悲しみの向こう側へ抜けた」らしい両親たちの間には、若干の温度差が感じられる。コロナ禍のまっただ中と思われる状況において、愛犬の死以外にも大人の頭を悩ませる問題はあまりにも多かった。一方、朔の心は在りし日のポコに留まっていた。親と子それぞれの立場から世界を見つめる視線は角度の違いこそあれ、いずれもが日常の厳しさに向けられていたのではないだろうか。たとえどんなにつらくても、生きることはおいそれと捨て去るわけにはいかないのだから。
そう、人生というものは一筋縄ではいかない。そのことを最も強く思い知らされたのは、最後に置かれた「あした天気に」。社会人二年目の一平は、ひょんなことからてるてる坊主を作った。その夜、一平はてるてる坊主たちが暮らすテルテル王国の夢を見る。国王のテルテル一〇三世が言うことには、科学技術の発展(すなわち気象情報の予測精度の進化)により、てるてる坊主の出番は最近めっきり少なくなった。そんな中で久しぶりに作ってもらったお礼に、一平の願いを三つ叶えてくれるという(ただし、気象に関する願いだけ)。目覚めると、自分が作ったてるてる坊主である〈奴〉が話しかけてきて、夢ではなかったことが判明した。
一平にはずっと心に引っかかっていたことがある。高校生のとき一平は卓球部で、小学校からの同級生だった阿良太と高校で出会った小春と一緒だった。一平も阿良太も小春に思いを寄せながらも、三人の仲は均衡が保たれていた。しかし高三の冬、阿良太は交通事故で亡くなってしまう。三歳の息子を連れた小春と久しぶりに再会したとき、「阿良太が生きてたら、自分の人生、ぜんぜん違ってたんじゃないか」と考えることがあると告げられる。打ち明けられた一平もまさに同じように思い続けていたのだ。
三つ目の願いが叶ったとき、目の前に現れた世界に対して一平が抱いた思いは複雑だった。混乱しながらもどこか冷静な部分もあって最終的にはなんとか前向きにやっていけそうな一平の姿は、てるてる坊主が願いを叶えてくれるという非現実的な物語の中でなんともリアルで読者も元気づけられるに違いない。現実の私たちは〈奴〉のような救世主とはまず出会えないけれども、一平のようにつらさも悩みも自分が納得して消化できれば少しずつでも前へ進めることを、森絵都作品は教えてくれる。
本書の七編はいずれも、“再生”について書かれていると思った。これは最も謎めいていて不穏に感じられる「Dahlia」においてさえ共通している。舞台は、十年前に『ATTACK』という現象が起きたことが示唆される世界。そこには正義が一瞬でひっくり返ることを思い知らされた人々が暮らしている。それでも、いまは打ちひしがれていても望みを捨てずにいられれば、いつか再び立ち上がることができる。残された時間が少ないと悲嘆に暮れるだけではなく、自分にできることをやっていけば、信頼に足る者や次の世代の人々に未来を託すことができる。絶望に覆い尽くされた世界において、わずかな希望のようでもあるダリア畑が目に浮かぶようで、美しいラストに心が震えた。
笑いあり涙あり感動あり。ノンシリーズ短編集の醍醐味が凝縮されたような一冊を、心よりご堪能いただきたい。
■書籍データ
タイトル:獣の夜
著者:森絵都
発売日:2023年7月7日(金)
発売元:朝日新聞出版
定価:1760円(本体1600円+税10%)