疲れた人が繰り広げるよくわからない話
タイトル画像は、つい先日鳥のフンを車の真正面から受け止めた後さすがに恥ずかしくて洗車機に入った時のものです。辛い。
今日はとてつもなく疲れたので、ただぼんやりとスマホを打ってます。iPadかノートパソコンが欲しいな。「あ〜あ、宝くじ当たらないかなぁ」といつも思ってしまう。宝くじ買った事ないのに。
昔から基本的に他人の話しをうんうん聞いてる事が多かったんですね、自分。
特にバババババッ!ポロポポポポー!みたいにすごい勢い喋る方と話す場合は、もう自分の話しを差し込むタイミングも難しいし、タイミングが被ると何だか「ああ……」ってなるし。
差し障りのない相槌代表の「へぇ〜」や「そうなんだ」もしくは「ははっ(聞き取れなかったけどとりあえず笑う)」を繰り返していたわけです。
でもまぁ、その方が楽だったといいますか。
そんなに苦痛に感じたことは無かったんですよね。
ところが歳を取ってくると“一方的に人の話をずっと聞いていると具合が悪くなってくる”という現象が起き始めました。
まさに今日は人の話しを沢山聞かなければいけないスケジュールが詰まっていて、うんうんと聞いてるうちに最後の方は出て来そうな生欠伸を噛み殺したり、頭がぼんやりしてきては心の中で自分に喝を入れたり、ちょっと大変でした。え?待って、眠いだけ……?
自分以外の感情とか、興味がないのに新しい知識がどんどん与えられる苦痛と言いますか。
学生の頃に私が勉強がめちゃくちゃ嫌いだったのって、結局はこれなんだろうなぁと理解しました。うん。苦痛だったなぁ。
知りたくないのに教えられる。
他人の負の感情で占められる。
自分という容器に不本意なものをドボドボと継ぎ足される感覚。
ちょっとこれ、私も気をつけなければ!
やっぱり愚痴を言ったりするのって良くないな。
たまにはそういう事で行き場のない感情が落ち着く事もあるけれも。言い過ぎは良くないね。ごめんなさい。
とにかく、今日はそんなジャンルで疲れてしまった。というお話しでした。
人と会うのって楽しいけれど疲れるよね。
でもまた会いたくなるから、仕方ないと割り切って。
ところで昔から私は「自由」というものを追い求めてきた気がします。
自由を求めて飛び込んだ初めてのSNS。
初めてブログというものでドキドキしながら思う事を表面化して、それを読んでくださる方々がいると知った時。本当に感動したし、嬉しかった。
そこにはリアルな現実、本名では得られない自由を確かに感じた。
それでも続けていく内にその中で繋がった人達との些細なトラブルもあったし、自分の表現が他で使われていたり、話したアイデアが使われていたり。
仲良くしていた方に段々と監視されている気すらしてきた時にはもう、若干病んでいたんだろうなぁと思います。
「自由とは何か」という内容でエッセイめいたものを書いたりもしました。
あんなに自由の翼であったSNSも、結局は誰かが決めた様々な制限の中で動いているんだ、と。
ちなみに一番自由度が高くて好きだったTwitterも、何だか最近は使いづらくなってしまって。
検索してもアラビア語が沢山出て来て同じ事を呟いてるし、知りたい情報になかなか辿り着けないし。正直Xさんにはがっかりだよ……ばか〜!涙
結局のところ「君にとっての自由は何?」と聞かれると、今の時点ではこんなこと。
何かを考えている限り自由など無い。
自由になる時は死んだ時なのかも。
不自由さの中で、私は自由という曖昧な言葉をずっと追い続けている。
だから私は今、リアルでは得られない身軽さをこのブログで得ているんですかね。常々感謝です。
あ〜あ。今日もこんなんじゃ勉強捗らないな。
少し疲れた心がすっきりしたけれど、何かもう、今日は何も考えたくないな。
何も考えないでお風呂入って呑気にアイス食べて冷えたら温かいお茶飲んで、さっさと布団入って寝たいなぁ。それで夜中に目を覚ましたら付けっぱなしのテレビにタローマンが不気味に映ってて「ヒッ!」と小さく叫びつつ、何だ、タローマンか……と安堵してまた寝たい。いや、夜間に起きたらトイレに行きたくなるだろうか。そして目が冴えてタローマンをずっと空が白むまで見てしまうのだろうか。そしたら猫が布団に入って来て人の腕枕でぐうぐう……
え!?今何の時間!?
どうやら本当に今日はもう無理な様子です。
お風呂入って寝ますね!では!!笑