【短編小説】 明るい夜を歩くために 作:灰瀬
凍てつくような空気が頬を冷やす。精一杯自転車を漕いで坂道を登っていく。体温は熱くなっているというのに、向かい風によって表面だけがその熱を奪われていく。白くなった荒い息が目の前を満たしては消えている。
ガシャンと大きな音を立てて自転車を停める。鈴のついた鍵を鳴らしながら駅へと向かった。
自転車に乗っている時も、自転車から降りて歩いて駅に向かう時も、ホームで電車を待つ時も。私は、きらきらと光るものが空気中に霧のように立ち込め、泳いでいるのを見ていた。粉末のような形をしていながら、早朝から射す陽に乗ってさらさらと流れているようにも、降ってきているようにも見えた。
私が吸う空気にもきらきらとしたものは当然含まれていて、呼吸をする度に変な気持ちになる。
町中のあちこちが結晶のように輝いていて、見慣れた家々も道路も、いつも通ったイチョウ並木も、霜が降りたように陽の光を反射している。
吸い込んだ結晶が喉に張り付いたのか、喉に違和感を覚えて思わず咳き込む。
電車を待ちホームに並んでいた人から白い目で見られた気がして、水筒のお茶を飲んで誤魔化した。けれども、ホームには咳き込む者ばかりである。反対側のホームは人口密度が高いので逃れようもないらしい、顔は皆落ち込んでいた。
「どうしてあんなに多いんだろうな」と、独り言を呟き、東京行と書かれた看板を見て納得する。
この町を捨てて、別の場所でやり直そうとするのだ。持てるだけの物を抱えて、安定した足場もないまま、希望に託して。
既に結晶に蝕まれているのにな、と私は彼らを見る。きっと自分では気づくことはできない。勿論、それは私も例外ではない。
十分遅れてきた電車に乗り込んで、しばらく体を揺らして時を過ごす。
久しぶりに見る朝陽は、電車の中からガラスを通していても随分と綺麗だった。太陽がとても輝いて見えたのは、それ自身がひどく明るかったからか、大気を覆う結晶の所為かは分からなかったが。
誰かと会う約束をしたのはいつぶりだろう。
私は駅を降りて、待ち合わせの場所へと向かった。
車もいないのに信号を待ったり、時折見かける人を見ると、以前の営みに戻ったような気持ちになる。
けれど、町の至る所は結晶の煌めきを反射し、人が吐く息にさえ、その片鱗を含ませている。忘れたいと願うあまり、その恐怖さえ消え失せて、皆、いつも通りの日常を過ごそうとする。
きっと私もそうだ。終わりのような現状に向かい合いたくなくて、平然を装い、そのことに気づいているフリをしている。彼女はどんな顔をしているのだろう、この結晶を恨むのだろうか。世界を終わらせるには、あまりに綺麗すぎるこの結晶を。
電車を降りて、乗ってきた電車が過ぎ去るのを踏切で待つ。私の知らないさらに遠くへ行く電車を見送り、遮断機が上がった先に、彼女は待っていた。
「久しぶり。どうしたの、世界の終わりみたいな顔して」
辛気臭い顔をしていたんだろう、私は笑みを作って踏切を渡った。
「公園にでも行こうよ、昔遊んださ」
私は彼女に連れられるがまま、町並みを走り抜けて行った。
「最後に会えてよかった」
日が高くなってきて、朝のように息が白くなることはなくなった。代わりに周囲の輝きが一層増して、私たちの再会を喜ぶような、世界の終息を早めているような、その中で二人、他愛もない話をした。
「世界が終わるっていうか、この町が消えるだけだよ」
「私たちにとっての世界なんて、この町の中だけでしょ」
「そうかも」
ねえ、と自然に言葉が出た。
「ん?」
「ミツキは、この町を出ないの」
その時、わずかだが彼女の表情が固くなった気がした。何気なく、ずっと思っていたことを呟いただけだった。彼女の横顔から見える前髪が透けて、その先の太陽の光が目に入った。
「分かんない」
砕けたような笑みをこぼして彼女は笑った。
「一緒に行こうよ」
「どこに?」
「どこかに……全部投げ出して、やりたいこと全部やろう」
ふっと彼女が息を漏らして下を向いた。泣いているのかと私が顔を覗き込んだら、あははっ、と声をあげて笑い出した。
「え? ミツキどうしたの」
彼女は、おかしい、とベンチの上で腹を抱えて笑い転げていた。おかしいのはミツキだよ、と言いたい気持ちをぐっと堪えてぼんやりとその風景を眺めていた。
「そんな、突飛なこと言い出す子だっけ」
「なんで笑うの」
真剣に言ったのに、と思わず不安を漏らす。だってさ、と彼女は構わず喋り続けている。
暖かい陽が辺りを照らしていて、ひだまりになっていた。雨上がりを照らしたかのように、結晶が陽を照り返して底抜けな明るさを醸し出していた。
「で、行くの行かないの、どっち」
急かすように私は彼女に迫った。
「私はね、この町が結晶まみれになった時に、ああ、もう終わりだなって思ったの。そんな風に考えたこともなかった。ここに来る途中、私はこんな時でも明るくて羨ましい、って言ってたけど、それは違うよ。全部、もう諦めたから、だから最後くらい明るくいようって思った。前向きでもポジティブでもなんでもなくて、ただ取り繕ってるだけ」
だから、と彼女は続けた。
「私もついていっていいの?」
「だからずっと言ってるじゃん」
彼女の声が震えていたのを、私は聞き取った。
彼女が服についた結晶を払い落として立ち上がった。
「電車でどこか行くの? 遠くの路線図、わからないよ」
そーだなあ、と空を見上げて、あ、と気づく。
「自転車、駅前に放置しちゃった」
自転車で行くのは無理でしょ、と笑われて少し口を尖らせる。ポケットに入ったままの自転車の鍵が音を鳴らしていた。ポケットに手を突っ込んで、鈴のついた鍵を取り出す。
「じゃあ、これはもういらないか」
私は鍵を後ろに放り投げ、鈴がリンと音を立てて地面に落ちた。
結晶の雪解けはもう、始まっていた。
(2024年度 東葛飾高校文学部 冬号『黎明の光』より)