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日本の中のインド亜大陸食紀行 富山&新潟編

さて、寒い日々が続きますが、こんなときはアジアハンターの小林真樹さんの著作『日本の中のインド亜大陸食紀行』でもゆっくり読んでみてはいかがでしょうか。ただいま大好評発売中です。その中から富山新潟のモスクに行ったときの食紀行をご紹介します。

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富山モスクと新潟モスクのイフタール
 
 富山県北部を東西に縦断する国道8号線沿線。比較的交通量の多いこの国道沿いを走り、射水市近くにさしかかると、道路の左右にはパキスタン人の経営する中古車の展示場やヤードが田んぼの間にポツポツと現れはじめる。1990年代以降、対ロシア中古車輸出業に携わるパキスタン人が集まり栄華を誇ったこの界隈だが、2009年にロシア政府が輸入関税率を引き上げたことで急速にビジネスは縮小。廃墟化した事務所も点在し往時の繁栄を偲ぶことはとはいえ富山在住パキスタン人が消えてしまった訳ではない。ロシアとのビジネスを目的として富山に来た彼らだが、仕向地をロシア以外に変更したり関連する他のビジネスに鞍替えしたりしながら、まだまだ大勢のパキスタン人が富山に暮らし続けている。日本人妻と生活し子供を市内の学校に通わせているといった家庭事情もある。
 
 そんな富山在住パキスタン人の拠り所となっているのが富山モスクである。普段は静かなこのモスクがラマダンの時期、それも日没(マグリブ)の時間近くになると大勢のパキスタン人をはじめとするムスリムたちでにぎわう。特別な月であるラマダン月に断食(サウム)が敢行されることが有名だが、それだけでなくとりわけこの期間中には善行や喜捨(ザカート)も励行されている。普段はあまりモスクに顔を見せないような人でもこの時期は礼拝に訪れるという人も多い。一列に等しく並んでその日の断食明けである日没後の食事(イフタール)を一斉に摂るその圧巻の光景は、ムスリムならずとも食と信仰について改めて深く考えさせられるのである。
 
 大都市圏の一部のモスクを除き、多くのパキスタン人は自家用車でモスクに来る。駐車場はすぐに車であふれるが、BORO船で車を輸出する際に一分のスキもないように積み込むかのような見事なテクニックで駐車していく様は壮観である。
 
 モスクに入る前にまず手足や顔を洗浄(ウドゥ)する。富山モスクではこの洗い場の横に調理室がありここでイフタール用の料理が作られている。イフタールのメニューはデーツ、野菜のパコーラー、ローズミルク、水、果物などどこに行ってもほぼ定型化した内容である。日没の合図と共にまずこれらの食事が摂られ一定の空腹感が満たされたのちに集団礼拝が行われ、次いで本格的な食事という流れになる。イフタール用の料理やその後に食べられるご馳走などは有志の方々によって調理されたり、外部のレストランから無料で提供されたりするもので、こうした善行もラマダン月には特に重要とされている。

富山モスクでのイフタールイフタール

 訪問したこの日は主にバングラデシュ出身の有志グループが食事当番だったらしく、富山名産のブリを使ったカレーなどがモスクに集まる数百人分の料理の仕込みを前日から行っていた。このように食事当番的な割り振りがあり、出身国や地域別にグループが組まれて趣向を凝らした料理が出されるのも楽しみである。各モスク管理者の考え方にもよるが、多くのモスクではこうした宗教儀礼を通じてイスラム教への理解を深めてほしいという考えもあって、非ムスリムであっても入場を拒絶されることはない。むしろ本来は一日空腹を我慢したはずの彼らよりも優先して食事をすすめられることもあり、改めてその寛容性に心打たれるのである。

モスク内でいただく食事

 この富山モスクは1999年に8号線沿線の廃業したコンビニ跡地に建設。80年代後半から徐々にパキスタン人が富山をはじめとする日本海側に集まりはじめ、90年代半ばにはムサッラー(簡易礼拝所)が存在しそこで礼拝が行われていた。物件取得当初は冷蔵庫などのコンビニの設備が残っていたが、2004年に内部の改修工事がなされ礼拝スペースなどが拡張された。建て直してドーム屋根のついた壮麗なモスクにしたいという希望も一部にあったというが、市街化調整区域にあるため建物の改築許可は下りないという。  今でこそこのような多くのパキスタン人が居住し(特に射水市の市営堀岡団地に多く居住しているという)複数のパキスタン料理店が活況を呈している富山だが、30年来の富山在住者であるパキスタン人のアハマドさんによると在住した当初はハラール食材の入手にも苦労したという。当初、香辛料などは故国から時々郵送してもらったり、来日する仲間に分けてもらっていた。また、どうしてもという時は東京・上野にある当時唯一ハラール肉を販売していた業者から購入していたという。同様の話は各地のパキスタンコミュニティでもよく聞く。 90年代後半にはこうした需要からハラール食材店が富山に進出。8号線には現在でもプレハブの食材販売店舗が存在するが、こうしたスタイルで黎明期のハラール食材店は営業していたのではないかと往時を偲ばせる。現在は閉店してしまったRAJA(2011年閉店)が最も早くにこの地で営業をはじめ、次いでカシミールが出来ていった。現在群馬県在住のRAJA創業者によると、当初はトラックにハラール食材を積んで射水市など販売に訪れていたという。当初は食材販売が先行で、やがてそうした店で軽食を出すようになり、パキスタン人だけでなく在住日本人をも客層とした本格的な食インフラが整っていったという流れのようである。2018年現在ザイカ、ホットスプーン、ハムザ、パークマサラなどが点在する一大パキスタン料理王国と化し「イミズスタン」と親しみを込めて呼ばれ、地元に定着している。  新潟もパキスタン人中古車業者が多い。現在でこそ富山のパキスタン人社会が有名だが、そもそもロシア船は新潟西港にも就航していて、かつては富山以上に多くのパキスタン人中古車業者が集まっていたと現在も新潟で中古車輸出業を行っているマリックさんは言う。

 1986年の旧ソ連末期あたりから、ソ連船員による旅具通関という形で日本車の輸出はスタートした。ロシアから材木などを乗せてきた貨物船に帰途、船員たちが日本の中古車を個人の旅具(携行品)扱いで持ち帰り転売するやり方である。やがて船員だけでなく単に中古車転売目的で訪日する買い物ツアーと呼ばれる人たちも来日するようになる。こうした状況を見て、パキスタン人中古車業者が本格的に対ロシア中古車貿易に参入するようになるのは1995年の日本側の規制緩和によってである。個人の携行品としての車の輸出台数制限が拡大した事と輸出前検査が不要になったことがパキスタン人中古車業者の参入を後押しした。こうしてロシア船が就航する日本海側に多くのパキスタン人業者が集まるようになる。これが富山や新潟でパキスタン人が増加した理由である。当初は富山より新潟(西港)の方にパキスタン人が多く集まっていたが、諸費用の安さなどの理由で伏木富山港の方に流れ、対ロシア中古車輸出の中心となっていったらしい。ネットが未発達だった当時、取引には広い中古車展示場を必要としたため港湾周辺に中古車業者が集まり事務所を構えるようになった。2000年代に入っても対ロ中古車輸出は順調に伸び続け、絶頂期には市内の歓楽街にパキスタン人向けにパンジャビードレスを着たロシア人ホステスがボリウッドソングに合わせて踊る店まで出現したという。しかしそんな景気も2009年のロシア政府による関税法改正により急速に停滞。ほとんどビジネスは成立しなくなり現在に至る。それでも新潟の地に残るのは富山在住パキスタン人同様、仕事上の付き合いや家族事情などによるものだ。

 こうした人たちが拠り所としているのが新潟モスク(Madani Masjid)である。新潟港に近い立地の新潟モスクは、富山のように市街化調整区域といった規制に抵触することもなく2018年4月に立派なドーム屋根とミナレットを持つ、白壁に覆われた大きなモスクを新たに敷地内に建設した。それまでは2002年12月設立したプレハブの礼拝スペースを長らくベースとしていて、こちらは現在イフタールなどを行う場所として活用されている。日没の時刻になると一旦このプレハブの旧礼拝スペースでデーツやパコーラー、フルーツミックスなどの簡単な食事で空腹感を和らげたのちに新しい礼拝堂で集団礼拝。そして本格的な集団共食がはじまる。骨付きのマトンがゴロゴロと入った分厚く油の浮いたアールー・ゴーシュトをおかずにナーンが配られていく。これが絶品。わざわざナーンを焼くためだけに、近くのパキスタンレストランからタンドール職人が招聘されていた。もちろん新潟モスクでのイフタールも富山同様温かく迎え入れていただいた。

新設された新潟モスク

静謐な祈りの場にお邪魔させていただくのだから決して失礼の無いように細心の注意を心がけるのは言うまでもない。


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こんな感じで日本の中のインド亜大陸を北は北海道稚内から南は沖縄まで、オールカラー300ページを超えるボリュームで食紀行しているのが、『日本の中のインド亜大陸食紀行』です。現在発売中ですので、よろしければぜひにです。ボリューム抜群、ガッツリ楽しめます。


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