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東京という怪物よ

関西に住んでいるのだけれど、最近、どういうわけか月に一度くらい呼ばれて東京に向かうことになっている。いつのまにかそうなった。

出版社や書店への挨拶まわり、作家としての講演会、知人のYoutuberとのコラボ企画など、いろいろだ。正直、東京にいくのが楽しくて、わざと予定を入れている節もなくはない。

新幹線の青いシートに二時間半ゆられて──アイマスクをつけて泥のように眠るか執筆している──品川駅でおりて、緑色の山手線に乗って、たとえば渋谷駅の改札をぬけた先に広がっている人の群れと雑音を前に、ああ東京やなあ、と感じさせられる。

都内はみんな歩くのがはやくて、ぴっと冷たい表情をしている。だれに話しかけられても足を止めることはしませんよ、というように。もちろんハチ公前などの待ち合わせ場所にいる友人を見つけた瞬間、手を前にあげて、ぱあっと顔は明るくなるわけだけれども。

いまだに旅人の目線で、東京を、観察している自分がいる。

仕事の合間に、渋谷のスクランブル交差点のマッチングアプリのキレキレの宣伝文を読んだり、神保町の古本屋の棚から室生犀星の詩集を引っ張りだしたり、東京駅の構内で立ち止まって大正ロマン風の壁面をみあげたり──東京に対する発見は尽きない。

先日、学生時代の友人に誘われて、下北沢のバーに行った。

カウンターだけの店内。八人も入れば満席という具合だった。客のふっかける深淵なる人生の問いに、イエスともノーとも受け取れる困り顔で返すのが得意技のマスターが入れてくれた〝ラスティ・ネイル〟は美味しかった。

「このお店は面白い人が多いんですよ」マスターはいった。常連の全員から面白がられている女性がいるらしかった。「今日も来るかもしれない」

その瞬間、ちょっと身がまえた。関西勢の自分としては〝面白い人〟とは芸人のようにアップテンポで喋り続けて、周囲を巻きこんだ笑い話を得意とする女性がいる──という意味だと思ったから。

しかし関東圏の〝面白い人〟はそういう意味ではないと知った。

三十分後にやってきたフルート奏者の女性は「今日、満月でしたよ」と恐縮しながら隣の席についた。表情も豊かで、人懐こくて、iPhoneのカバーにいたるまで丁寧な印象だった。そのとき関東の〝面白い人〟は〝気持ちのいいコミュニケーションができる人〟という意味だと知った。

お互いの身の上話や、目の前に並んだウイスキーボトルの色や、マスターの誕生日が近いといった話をした。

「私は幸か不幸か東京で育ったわけだけど──」女性はいった。「東京ってどんなふうに映ってるんです?」

「いまだに旅人の目線で東京をみてますよ。ほら旅先の景色や、出会った人は、ちょっと現実味が薄く感じるでしょう」私はいった。「このお店も、あなたも、そう見えています」

彼女はなぜか嬉しそうにグラスの液体をゆらした。カウンターの奥から、マスターもうなずいているのが見えた。

「東京に来るたびに、ある種の過剰さを感じます」

「過剰?」

「なにもかも過剰で」私はいった。「ちょっとだけ息苦しい」

「ああ、そうですよねえ」彼女は笑った。

「みんな疲れてる気がするんですよ。これは東京だけに限った話じゃないかもしれないですけれど。現代人は大変ですからね」

そこで話題は小鳥がとなりの枝に移るように、この店には他にも面白い常連さんがいるんですよ、という話題に変わった。しかし十分ほどして、また同じ話題にもどった。

「東京は怪物だと思います」私はどこかのタイミングでいった。「いろんな人間の夢や、若さや、人生を喰って生きている。それで、ますます大きく成長する。ずっと前から──そしてこれからも」

店内は静かだった。誰もが何かについて思いを馳せているようだった。私はというと、氷のとけたグラスを手に、いまさらながら、この瞬間、東京にいるんだなという感じがした。

腕時計を見ると、午前零時をすぎていた。

いろんなやつがいた。いろんなことがあった。みんなどこかにいった。でも何かがのこった。

ほとんどの物語が要約するとそうなる。ほとんどの人生にとっても。そこで思った。あいつらも怪物に食われてなければいいのだが、と。

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浅田さん
ありがとうございます。あなたの「スキやサポート」をインクにとかして続きを書きます。約束します。