D男の涙がポロポロと零れ落ちてゆく時に


 馬は走る。
 花は咲く。
 人は書く。 自分自身になりたいが為に。 ( 夏目漱石 )

漱石せんせい、そう言った。

でも、自己を表現するだけでは自分自身にはなれなかった。そこに”あなた”が居てくれないと。

これ、とても切ない条件だと思うんです。


1.D男、ふたたび

玄関のインターフォンがピンポーンと鳴り、「僕です」という。

背中にリュックを背負い、大きなキャリーバックをごろごろ転がして来た。

おしゃれな彼。

お金が無くとも、服装と靴、ベルトは母親の言いつけ通りにいつもぴっかぴかっ。

3年前に、わたしたちにお金ちょうだいと言い断られたんだけど、またまたやって来た。

もう会うことも無いだろうと思っていた彼は、もう35歳に。

相変わらず色白でぽっちゃりしている。

背は高く、きょろきょろするので挙動不審者のようにみえる。何から逃げようとしてるんだろう。

「おお、D男か。まあ、入れよ」と家に入れました。どうした?とわたしは早速聞いた。


会社でいじめに会い、いつも転職を余儀なくされる彼です。

前回も心病んで1年間休業しお金に困った。(でも、靴はピカピカを買いたがる)

親? いいえ、彼の親は、「お前はもう実家を出たんだから一切世話はしない、自分で生活しろ」とリアルに冷たい。

彼は自分を助けそうな所を見つけては頼ろうとした。

いくらなんでもわたしのような他人が彼の生活を支援することには限界がある。

今回もまた困ってるんだろうな・・。

聞くと、「就職できました、今度は製品の品質審査係をやってます」という。

おお、、良かった。。けど・・・


2.豆知識

彼は小さい頃からヘンだったのです。

やたらと多動で、目もこちらに合わせない。人の話がきけない。

彼の母親によると、診断結果はASD(自閉症)でした。

自閉スペクトラム症は、対人関係が苦手でこだわりの特性がきわめて強いと言われます。

わたしだって、知識としては”自閉症”は知っている。

でも、実感として、D男そのものと、自閉症者とが一致しない。D男はD男で、自閉症者は自閉症者で、みたいな感じです。

対人関係では、自閉症者にはこんな特徴があると、本には書かれてる。

・友だちの表情や話し方、視線などから相手の気持ちを捕まえることができない
・その場の空気やグループだけのルールがわからない
・ひとりでいたがる反面、急に他者に関わろうとする

ぴったり自閉症のD男です。

相手の思いや気持ちをくみ取りながらコミュニケーションをするのが苦手なため、何かとトラブルが起きやすい。

歴代の会社の上司や同僚に嫌われてきた要因が彼には満載なわけです。

ねっ、D男=自閉症者でしょ?

でも、自閉症のD男=自閉症者じゃない。なにか、リアルと概念との間がしっくり来ない・・。


こだわりの強さも、対人関係に支障をきたしてきました。

・自分の興味・関心のあることはしゃべり続けるのに、相手の話は聞かないので嫌がられる
・本人は思ったことを伝えているだけなのに率直すぎてケンカになる
・表面的なコミュニケーションはできるが、踏み込んだ関係性まで至らない。

彼は同年代との繋がりが作れません。温和な年配者とは比較的安心していれる。

ということで、出張を兼ねて彼ははるばるやって来た。

今回も何か困りごとがあるはずなのです。ぜったい!

聞いても、もぞもぞするばかりでなかなか要領を得ない。ううーん。。。

だんだん聞いて行くと、仕事を辞めようかな、という。

おお、、もうか!今度は、どうしたっ!


2.彼に生じた変化

自分のところに来る予定の派遣の人が、旧帝大を出た人だという。しかも、女性なんだと。

えっ、そんなことで辞めたくなったん?!

高卒の彼は自分の学歴に引け目がある。しかも、父親譲りに女にはなめられてはいけないと強く思ってる。(父親もひどく見栄張り)

バカにされたくないという、尊大なる自我がもうれつに嫌がる。

おお、派遣の人ときみはいったい何を張り合うというのか?

まったくどうでもいいことにキミは悩んでる。わたしは、こんこんと見当違いであることを諭した。


ちっとも変わらない彼?いいえ、3年経って彼には大きな変化がありました。

まず自分の気持ちを少しは言えるようになった。すごいっ。視線も逸らそうとしなくなった。

「きみが成長して、すごく嬉しい」とわたしはいった。

そしたら、彼は何を思い出したのか、目から涙が。

泣きだしたらもう止めれなかった。

ぽろぽろ、ぽろぽろとこぼれて行く。

彼は必死に止めようとして、かえって嗚咽に近い状態に。

はじめて喜怒哀楽した彼。”にんげん”らしい彼を見たのです。


でも、基本、自閉症。

なんで、こっちに来たのかと聞いて見ると、急にこちらの現場の調査に行けということになったと話し出しました。

そんなの僕の仕事じゃない!と上司に言ったのだそうです。なんで、僕が・・とブツブツ。

でも、けっきょく、言い含められたんでしょう。嫌々、出張することに。

そうだ!おっちゃんの所に寄ろう!


自閉症者は、いくら現場や仲間が困っていようと急な変化は断じて嫌なんです。

彼らは、我がままなのではなくて、変化を非常に恐れる。

ただ、職場のみんなは、そんな心理許容できないでしょう。


すぐ帰るのかと聞くと、なんと!2週間ほど休みをもらって来たといいます。

ええ”-っ!!、、ここに2週間も泊まる気?

どの職場でも2週間も勝手には休ませてはくれません。有休も使い果たす。2週間も泊まる?

聞くと、その旧帝大女子のことが重くて、もう会社を辞めたくなったという先の話なのでした。

辞める気だったんですね。

おいおい・・。ほんとにそれだけで辞めたくなったのか??

おっちゃんはそんな理由をとても信じれない!


3.ファミレスにて

一晩泊まって、話を聞いてゆくうちに彼はだんだん元気になってゆきました。

実際、旧帝大女子が問題だったわけではなかったようです。

上司や同僚とも素に話せない。誰ともずっと話していないといいます。

立ち寄る店でもスーパーでも食堂でも会話がない。友だちもいないし、もちろん恋人も。

ずっと誰にも聞いてもらえない日々が辛かったといいました。

仕事にはつけたものの、ますます孤立していったんでしょうか。

聞いてもらえる相手が居ない世界で、窒息しかかっていた?


翌日、2週間もホテルのように過ごされても困るので、食事を兼ねて駅まで送って行くよ強引に連れ出した。

彼はえっと言った。まさかさっさと追い出されるとは想像もしていなかったのです。

いえいえ、わたしゃあなたのホテルじゃない。

彼は、しぶしぶまた重いキャリーバックを引き、リュックを背負いました。


ファミレスに着き、なんでも好きなだけ食べてよとわたしは言った。

わたしはサイドメニューとしてイカのゲソのてんぷらもたのんだ。

これも食べてよと差し出すと、「僕は生のイカをさばいたものしか食べないんです」という。

昔よく父が港に連れて行ってくれた、あれは美味しいですと自慢が始まった。

もう普通の店で出るイカはまずくて食べれませんと、嫌味なくいう。おお・・・・


わたしたちは既に食べ終わり、ゆっくり愛おしそうに食べる彼がおわるのを待っていました。

彼は自分の頼んだメインを食べ終わりました。

と、彼はメニューをまためくりはじめた。

ルンルンってな感じで、今度は抹茶パフェを注文した。おお・・・・・。

抹茶パフェが来ると、これまた、愛おしそうにスプーンを操りながらゆっくり食べる・・・。わたしたちはひたすら待つ。あああ・・・・・。


彼は、つくづくrule-basedなんです。

タコのゲソくんを頼んだわたしの気持ち、待たされているわたしの気持ちには気が付けない。

遠慮なく好きなだけ食べていいよというルールを支払いするであろうわたしが与えたら、そのまま履行していいんだと思ってしまう。

ああ・・・これでは融通利かないっていうことだから、職場で、とってももめますって。

そして、、孤立がピークに達し、ここに来たのかい?



4.医療少年院の子どもたち

そもそも、他者の気持ちや表情というものはルール・ベースではすべてを記述できません。

でも、彼だって上司や同僚との葛藤にいつも困るから、相手の気持ちは分からないなりに、ルールをいつも自分に付けている。

彼は、こういう場合はこう返事をするとか、こういう場合はこうしてはならないというルールでしか、他者と接しられないわけです。

しかも、「不完全なルールブック」を携えて生きないといけない。

他者には無意識に出来ることです。誰もそんなルールブックが彼の内にあるなんて想像もつかない。


かのじょは、15年間ほど、医療少年院でボランティア活動をしていました。

ふつうの少年院と違って、精神面で問題ありと診断された受刑者が特別に収監されます。

ひじょうに知能が高いのにまったく感情面が遅滞しているような少年たちとか。

その少年たちに社会復帰に向けた”教育”をするのです。

彼らも他者の感情を読み取れないから、教官はルール・ベースを教える。

人の目を凝視しない、目があったら挨拶するとかいう、ほんとに悲しいほどに当たり前のことを繰り返し教える。


彼らはみんな”普通の子”同じよと、かのじょはいいます。とても重罪を犯したとは思えないくらいに。

子どもたちは、毎週かのじょが来てくれることをとても楽しみにしていました。(そもそもそこで異性を見ることはありませんから)

やがて、秋になると”文化祭”がある。

かのじょが行くと、教官たちの目を盗んで、整列していた子たちは一生懸命手を振って来る。

ほんと、普通の子。かわいい。

でも、他者の気持ちを受け取る器がないばかりに、言い争ったり、嫌がらせを受けたりし、あるときカッとなってしまったでしょう。

あるいは、孤独な彼らを利用して、仲間のフリして犯罪の手先として捨て駒にした者がいた。。

「どの子も良い子なのに・・」とかのじょはいいます。

でも、ルール・ベースを教えるしかないけど、その限界もはっきりしてるわとも言いました。



5.かれの興味あるもの

駅まで車で送りながら、D男は知っていることをとめどなく話しました。

あれはこうだ、これはこうだという情報を再生した。いっぱい。

彼は自慢したいのかもしれないし、ただ聞いて欲しいのかもしれないけど、非常に細かな事実情報を次々と羅列して行った。

そこに彼の想いや感情、願いは無いのです。

ただ、知ってることを話し続けるスピーカーのようでした。

聞いているこちらがどのような感情になっているかは気が付きません。

でも、たぶん、彼は良かれと思って”お礼”の気持ちで話したのかもしれないし、ただ饒舌になったのかもしれません。

わたしからすれば、一方的に話され、わたしの気持ちを無視されています。

同僚からは、「そんな細かな話はいい」とよく中断させられるといいます。

そんな時自分はすごく欲求不満になると彼は言う。

ああ、、D男はぴったり自閉症カテゴリーにいる。

こちらのルールが、キミのルールブックには書かれていなかった。

聞いてあげたいのだけれど、辛くって聞き続けれない。

わたしはただ、きみのその涙のわけを知りたいだけなんだ。



6.”あなた”の居ない世界で生きる子

大多数が持っている力を授けられなかったばかりに、彼は異星人の星で生きないといけなくなった。

もっと知能がはく奪されて来たのだったなら、良かったかもしれない。

障害者年金を与えられ、この惑星にあるどこかの施設でクルクル回り、笑い、叫んでいることもできた。

でも、彼は、健常者と障害者の中間にいるばっかりに、ひとりポツンと生き、そして稼がないとならない。


夜も深まったころ、D男はさらっといいました。

「もしすぐに死ぬというのなら、僕ちっとも構いません」と。

なんの怒りも絶望もなく、大変なことをサラリ言った。

ああ、、これなのか。彼のほんとの風景に触れ気がしました。


馬は走り、花は咲き、人は書くのです。

彼も自分自身になりたいが為に話したい。でも、聞いてくれる”あなた”がいない。

誰とも繋がれず、転職を繰り返す彼。

自己を表現しても受け取ってもらえない定めの子。だから、笑わない子。

その彼がわたしの前で泣いたのでした。

ぽろぽろ涙こぼしては掌でそれをぬぐい続けたのです。

ああ、、切ない。


わたしは、また、彼そのものを受容することが本能的にできません。

どんなにADSや彼の生い立ちを知っていても、彼という存在はあまりに無機的すぎる。

でも、泣いたんだぜ? ・・・・・わたしはひどく動揺してゆく。

あなたは関係無いから「自閉症者」というラベルで処理できるでしょうが、わたしは微妙に無関係ではないから、知識やラベルで済まないのでしょう。

貼るラベルを手に持ったまま、切なさと拒否感の間をうろうろするばかり。

いつまで経っても彼にペタンと貼って決着することが叶わない。


書いていて、あって気が付いたことがあります。

漱石せんせいがこのわたしの文を見たら、きっと悲しい想いを持ったであろうと。

わたしの上には、はるか天蓋の高みまで才能が多層にそびえていて、

見上げることの叶わないわたしはかなり下の層に終生いるのでした。

わたしも、自分自身に成るという文章世界で孤立しさまよっている〇〇症者なんだなぁと(そんな病名は未だ発見されていませんがあるはず)。


D男とわたしはドングリの背比べでしょう。

そして、ドングリたちは自ら望んでこの生を選んだワケでもないのです。

悩み、怒り、恨み、見栄を張りたがるドングリたち。

彼はわたしとはそれらの感情が生成される理由は違うのだけれど、供に繋がってる。種という連続体としての仲間なのです。

なぜ彼はわっと泣き出したんでしょう。

ほんとは、何があったんだろう。。

いまだに、わたしには判然としないのです。


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