「でも、わたしはこれが好きっ!」という ― 人は”自分”に会いたくて表現する
1.誰がなんと言おうと
へこむ時は、うーんと他者が書いたものを読むと良い、というどこかの誰かが言ってくれたアドバイスに従い、昨日は読んでました。ある人が、だいたいこんなこと言ってた。
X(twitter)にも画いた絵を上げていってる。
自分では頑張った、良く出来たーと思った作品だった。なのに、イイネがまったく少ない。へこむ・・。
ああ、とんでもなくダメなものをあげてしまったんじゃないか、と恥ずかしくも思う。
出来たー!という誇らしい気持ちが、ずたずたになる。
誰も見向きもしない醜い子を作っていただけじゃないのか。。
でもと、しばらくしてから、絵をプリントして自分の部屋に飾って見た。
そして、思った。
「ああ、でも、わたしはこれが好きっ!」
誰がなんと言おうと、産みの母は我が子の顔を認めたというのです。
他者評価が欲しくてこの子を産んだのでは無かったのでした。
その方にとって、すべての起点に戻れた瞬間だったと思います。
2.怪物はわざわざ言って来る
ブログで発信する人の多くは、自分のこころの中で暴れる”怪物”に悩まされていると思います。
わたしは10数年、やられっぱなし。
きみの記事は否定されてるんだよと、わたし自身でもあるその怪物はわざわざ言って来ます。
彼がやって来るのは、決まって、”思いのほか”イイネの数が少ない時でした。
じぶんでは良い記事が書けたーって喜んで発信してた。
わたしの評価と世間?の評価とが大きく異なり、わたしは動揺しました。
自分の記事の良さは、イイネやスキの数で判断するしかないんでしょうか?
いいや、それは違う!いうことは分かっています。
直感的には分かってはいるんだけれど、数が気になる・・。
何でじぶんの記事の質を測ればいいんだろう?と自問すると、次の質問が浮き上がる。
いや、そもそも良い記事ってなんだ??
誰にとっての”良い”なんだ?
何のために書いているんだっけ?
この自問自答が500回、1000回と繰り返され、そのたびにへこんできました。
もやもやが繰り返され、もう辞めちゃおうってよく思う・・。
たぶん、書くということの前提、何をわたしは求めていたのかという点に尽きるのでしょう。
ほんとにイイネの数を欲しかったならそれはそれでいいのです。
でも、数を気にする割に、イイネをもらうテクニックなんて話はとことん無視している。
じぶんがほんとは何を求めているのかという、そこがはっきりせずフラフラしてる。
家から出て野原でフラフラしてるものだから、空から飛んできた怪物にいとも簡単にぱくって食べられちゃう。
3.そうじゃない
人気取りがしたくて、褒めて欲しくて、ただそれだけのために書いて来たんだろうか?
そうじゃない!とわたしの心は言います。
もし、1億2000万人の1%がわたしにイイネをしてくれても、わたしは満たされないと感じます。
120万人のイイネでも満たされない??ええ。
認知が欲しいんだろ?というのは怪物がいつも攻めてくる弱点ですが、それは表面的な攻防の前線でしかないように思うのです。
怪物は「ほら誰もイイネしないのは、つまらないことしか書けないからだぜ」と言うのですが、他者認知がもらえないといったい何がマズイのでしょう?
ほんとの防衛ラインは、わたしのこころの奥に敷いた”孤独”ということだと思います。
わたしが何のために発信するかといえば、それは誰かとこころ繋ぐためでしょう。
わたしはここに居るよーって言って、そうかーって返して欲しい。
「誰か」とはいったい誰のことなんでしょう?
4.孤独?
わたしには大切な家族が居て、わたしはかれらを尊敬しています。
でも、だからといって、「わたしは孤独ではありません」とは言えないのです。
その感覚は小さい時から、当たり前のように在るものだから、「わたしは孤独だ」とはわざわざ言わない。
言わないので、普段じぶんでもとりたてて気にしません。
でも、わたしが動揺するのは、わたしがしっかり手を握って掴んでおく”根っこ”が無いからです。
どしんと不動のものが無い時。
毎回、怪物に木っ端みじんに粉砕されても、またよろよろと書き始めるじぶんを見ると、単に評価が欲しいのではないのです。
繋がりたいのです。
でも、自慢の記事を出しても、他者はスルーする。
ああ、、わたしは独りぼっちだと、銀河系のどこか果てしなく遠い惑星にたったひとり取り残されたままの気になります。
漠然とした誰か、多数の誰かにイイネをしてもらっても、わたしは孤独ということからは逃れられないでしょう。
120万人にイイネされても満たされないだろうと感ずるのは、わたしがほんとに繋がりたかった相手ではないからです。
孤独だなって寂しさをわたしが想うのは、ほんとのじぶん自身に会っていないからです。
4.外在化
冒頭にざっくり引用させてもらった方ですが、「ああ、でも、わたしはこれが好きっ!」と言ったのは、ほんとの自分に再会したからでしょう。
自分の中に在ったのに、外の評判ばかり気にしているうちに見失ってしまった”ほんとのわたし”にようやく触れた。
だから、喜びが突き上げてきたのだと思います。
”孤独”だとわたしのようにずっと底流にメロディが流れてしまう人は、外に探しては満たされないのです。
わたしたちは、内に見つけないといけないのだと思う。
そして、見つけたものを、絵なり文章なり彫刻や歌にして、自分の外に出すのです。
外に置いて見て、初めてわたしたちは自分を知る。
何の為に書くのかというと、わたしはわたし自身を確認したいのです。
外在化すれば、やっと安心できる。
絵ならそれは見れば分かります。すぐに安堵できます。
でも、文章は見ても、「ああ、たしかにこれが我が子だ」とは一発では分からない。
じぶんでもうまく文章に出来たかも自信が無くなったところに、怪物が余計なことを言って来る。
ほらほら、おまえの文章は人気ないぜ、誰も見向きもしないよと。
そうすると、せっかく外在化したのに、わたしの内に向こうとしていた視線が、外にさ迷って行く。
創造とかCreativeと言われるのですが、自分の中に無かったものは生み出せません。
村上春樹は、地下2階まで降りて行ってそこにあるものを地上にもってくると言います。
地下2階の深層で見たものを自分は再現しているだけですと、真剣に言っている。
そして、彼が地下2階に行けるのは、他人の評価を諦め、自分に集中できるからです。
自分の作品についてほとんど彼が語りたがらないのは、作品は出版されたら評価するのは読者だと理解しているからです。
彼は、お金を出してまで自分の作品を買ってくれる読者に対して、誠実に自分を差し出す。
もちろん、彼も書きながら驚いたり喜んでいるといいます。
地下2階に居た我が子に再会できたからでしょう。
喜びが無いと続けられません。
怪物が現れても再び書き出して来たのは、「ああ、やっと書けた」と毎回嬉しいからでした。
その喜びとは、自分自身に再会することでもたらされたでしょう。
きっと、わたしが嬉しい時、わたしは我が子の顔をみていたのです。
いつも、その子は内に寂しくしています。
その子に会うには、視線を外ではなく、グルリ内に向け降りて行かなくてはならない。
他者の評価はもちろんありがたいですが、それ自体はじぶんではどうこう出来ないのです。
ここまで書いて来て、やっとわたしは安堵しました。
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