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『星の王子様』の完璧さ ― 余計なものがひとつもない状態
Up出来ずに保留中の記事がデスクトップに9個も並んでる。
何が気に入らないのかじぶんでも分からない。このまま捨てるしかない。
1つの題は、『長い文。だめ? 』というものです。
わたしは、とにかく文が長いのですが、長くたっていいじゃないかと書きたい。
当然なぜ長文に成ってしまうのかを考えている。
長男だからとか自分語りがしたいだけだとか、いろいろ考えるんだけどたぶんどれも正解ではない。
わたしの胸が、この文が気に入らないと拒否している。
今日、恐ろしい話が飛び込んで来た。
1.星の王子様がスリムなワケ
NHKが番組でサン=テグジュペリはとことん推敲したと紹介していた。
できあがっても、彼は文章をがんがん削って行ったという。
もういいじゃんていう限度が無くて、編集者たちはひどく迷惑した。
彼の信念は、わたしとまったく違ってた。
「完璧とは、『足りないもの』がない状態を指すのではなく、
『余計なもの』がひとつもない状態に行き着いたとき、達成される」
サン=テグジュペリは、「余計なもの」をゼロにすることが僕にとっての「完璧」なんだという。
『人間の土地』の「3章 飛行機」に出て来ると言う。
おお、いったいわたしはどこを読んでいたんだっ。
そして、『星の王子様』をなんべん読んだことか。シンプルなのに、ひどく深く美しい文章なのです。
気に入らないと、わたしは補足しようとしてきました。
説明すればより分かってもらえるだろうという前提があった。
わたしはどんどん足して行く。
足すと、足した文をさらに説明しないとならない。ネズミ算のように膨張して行く。
こうして、読み手はとんでもない量の文章を読ませられていたのです。
森が深くなり、見渡せなくなる。書き手でさえ、戻り道を忘れてしまう。
ああ、、長文になる原因はこれだったのだっ。
何かが「足りない」とわたしは感じたのでした。
「足りないもの」を埋めるためにたくさんの要素をわたしは足して行った。
完璧主義者は、形式で満たそうとするのです。
足せば完璧に近づけるという前提自体を疑えないわたしだった。
考えて見ると、足せば足すほど、関係者の同意を取るのが難しくなるのは当たり前でした。
引っかかりや疑念、反論、言い掛かり、読み違えや誤解の余地が広がる。
そんなのさんざん作った企画書で学んだんじゃなかったのか?
役員には、ぜったいに余計なことを言わない、聞かれた時にだけ答えるが鉄則だった。最低限の必要なことだけを言う。
提案書もシンプルにすることを貫徹させられてきた。
情緒や感性は、たった1か所に一言あるだけで、じゅうぶんに相手は意を汲んでくれたし。
じぶんが10年以上も長文書き続けて来たことを瞬間に走馬灯してしまったのです。
クラクラした。じぶんがおバカすぎる・・。
2.なぜ削るのか
それは、見渡し易くするためなのです。
すっきり受け取って欲しいから、優しい文章で分かり易いように工夫する。
すべてを受け取ってもらって、読み手の判断に潔く委ねる。
否定されようが共感してもらえようが、わたしのリアルを誤解なく受け取ってもらうことが何よりも大切だというスタンスです。
難しい言葉や難解な表現はエゴでしかない。
修飾して誤魔化すのは自信が無いからだ。
じぶんが読み手よりも上にいるわけでもない。
本邦初の見解のわけがない。
だけれども、ぜひに読んで欲しいと提示するのなら、それなりの覚悟がいるということです。
ガリガリ削れる人は、わたしと違って、勇気がありフェアで聡明でした。
そもそも美しさは、シンプルさです。コテコテしたミロのヴィーナスは有り得ない。
ああ、、なんで今まで何十年も気が付か成ったんだろう。
長いか短いかは、勇気と美の話だった。
3.あなただけにしかできない「あなただけの役割」
言い訳させてもらえるなら、わたしにも役割があるということです。
なにかを感じ、それを言葉に表したいとたしかに思ったのです。
それはきっと、他の誰かもモヤモヤして来たことだと思う。それを仲間とシェアしたい。
そして、わたしはじぶんを表現したい。この世に、現わして見たい。
書いたり、描いたり、歌ったり踊ったりして、人はおのれを外在化する。
外に存在させて、ああ、、自分ってこういう人なんだと初めて認識できるのです。
この世に、現わして見たい。そして、仲間と確認したい。
それは、文の長短に関わらず、わたしに埋め込まれていると思うのです。
つまり、わたしだけにしかできない「わたしだけの役割」とは、仲間を代弁するということだと思うのです。
おおよそ、16タイプか20タイプに分けられるパーソナリティごとの悩みがある。
人類の数%づつなので、それぞれは理解されないという無念感を持ちます。
それは、1つのタイプであるわたしも他のそれをほんとには理解できないから当然です。
そのモヤモヤした生きる苦しさを、仲間のために捧げるのです。1点にビームを集中砲火して。
いくらシンプルに削ぎ完璧にしても、95%以上の人たちからは見向きもされないでしょう。
でも、苦しさや悲しさや辛さを代弁する時、そこには個人に閉じないパワーが生み出されるでしょう。
サン=テグジュペリがとことん推敲したのは、いつまでも子どものままの種族に向けてのメッセージだったのだと思います。
かれらに届けたい。その一心を願ったでしょう。とことん、削ぎ落しに拘った。
だからあんなにも美しいのです。
まったくシンプルにそぎ落とされたあのお話は、そうして普遍性を持ったのです。
ほとんどの大人は、内に子どもを抱えたままだったのです。
P.S.
無い無いずくしのかのじょは完璧だと気が付いた。
完璧とは、『足りないもの』がない状態を指すのではなく、『余計なもの』がひとつもない状態だとすれば。
ああ、、確かにあなたはパーフェクトだ。虚勢も張らず誤魔化さない、素直さのひと。家事も苦手で字も読めず、ただ笑いを願う。
詩的にいえば、あなたはビューティフルです。きっと星の王子様もagreeされる。