ああ”-、じぶんがめんどうくさい! ― 闇の子
ときどき、じぶんがいらっとしたことが分かる。
しばらく経つと、反省する。ああ、、あれは邪悪なこころだった・・・。
いったん、わたしは”良い子”になる。
やがて、またまた悪い子が出て来てしまう。ああ”-、じぶんがめんどうくさい!
なぜ、そんなにアホなのかというと、じぶんにダークサイドをあることを禁じているんだと思う。
良い子自体が、全体の裁判官になってる。
存在が認められていない悪い子は、いや、オレはここに確かにいるんだ!と反旗をたびたび翻す、みたいな。
たぶん、そんな構造が出来ている。
でも、悪い子をすべて受容しちゃったら、わたしはどうなるんだろうか?
野放しにすると、かなり極悪人になりそうだ。
ほんとに、いいの??
じぶんの中に闇あることを単に認めるだけではチェンジしないのです。
わたしだって、こう書いている程度には、じぶんの中に闇がいるのを知っているんですから。
あなたも、面倒なひと?
1.面と向かう、こんなワークショップがある
2分間、他者とただ向かい合って黙ってるという演習の話があります。
見知らぬ者どうしが集まった場で、”さあ、みなさん、隣の人と黙って向き合っていてください”といきなり言われる。
むむむむむ・・
そわそわしたりするという”不思議なふるまい”が起こった。
非常に落ち着かなかったとかれらは言いました。(わたしももきっとそうなる)
次に、なぜ居心地が悪くなったのかというということを参加者は掘って行った。
自分の中のまずい点が知られてしまうことを参加者たちは恐れていた。
それを隠そうとしたのは他者に対してでしたが、参加者みなで分析してゆくと、実は、もっとも隠したかったのは自分自身に対してだったと気が付いた・・。
この演習には後日談があって主催者はこう教えてくれました。
一連のワークショップを経て、参加者たちは自分のダークサイド、シャドウと親しむようになったといいます。
自分のあらゆる面を受け入れていったという。
彼らはもう、独りで「自分とともに居てくれ」と言われれば、ためらいなくそうしていられるようになった。
多くの参加者が、「頭の中でずっと続いていた声」が突然消えたと言いました。
「まるでつけっぱなしだったことに気づいてもいなかったラジオが急に消えたみたいだ」、と。
そして、そこには空間と自由と内なる平和の感覚があったと。
新興主教並みにかなりすごい効果でしょ?
自分の中の何かが片付いて、自分の全ての部分を丸ごと受け入れられるようになったという話なんです。
自分の中に暗部もあると受け入れ、「もう隠しようも無いこと」を味わった。
それをとことん味合わせるワークショップだった・・。
ほとんどの参加者にとって、こんなに内的な平和と自由を感じるのは人生で初めての経験だった、という。
暗部を味わうって、こんなにすごいチェンジを人格に引き起こしうるんですかね?
2.ユングのこと
一時期わたしはユングにはまって、いわゆるシャドーを調べました。
じぶんにも、どうやら”影”がありそうだと気になりだしたんでしょう。
彼は、シャドー(影)とは個人の意識によって生きられなかった半面だといいます。
その人が”認容しがたい心的内容”を意味する、と。
光があたってできる影のように、その人の心の影の部分を指す。
影が物に陰影を与えるのと同じように、影はある人の暗く否定的な側面を示すと同時にその人に深みと奥行きを与える。
どんなに明るい人でも、どこかに暗い部分は持っている。
ユングは、影を”悪い”、”いけない”部分とはとらえていませんでした。
自分の中の影に気づき、その影と対話することは、人生を豊かにする上で大切なことですとユングはいう。
それは多くのクライアントを治療する中で導き出した精神科医としての、彼の結論だった。
かげ、かげ、かげ・・・。
影が、その人の表の心とは対立するものだとしたら、陰陽の統合はそうたやすいものではないでしょう。
実際、わたしは、”あってはならない”影を自分自身のものとは感じていません。
そして、わたしは注意を外に向けてしまう。
他者にその要素をみる「投影」という機制が働くことが多いのだそうです。
ネットで調べてみると、影の投影が考えられるときとして以下の例が挙げられていました。
どうも虫の好かないと思う人がいる
ある人の悪口を盛んに言っているとき
影には、「個人的無意識」の領域の影と「普遍的無意識」の領域の影とがあるという。
個人的無意識の影は、ある個人が自我を確立していく中で出来上がっていく影です。
たとえば、人にやさしくあろうと努力してきた人に潜む攻撃性や残忍な部分などが挙げられていました。
普遍的無意識の影は、多くの人々に共通に「悪」としてとらえられてきたもの。
この元型のイメージとして表現されたものには、昔話や民話にでてくる悪魔や鬼や化物がある。
ユングはカウンセリングをしながら、回復する患者とそうはならない患者とを観察していったのでした。
シャドウにまで、そこまで深く入らないと人は再統合されないということで、彼はシャドウに特別に関心を抱いたわけです。
今や、スマホをくくり続け、わたしたちは「意識できる部分」を増すことにばかり熱心です。
外の情報をどん欲に取り込み続けている。暗部に目が行かず、光ばかりを追う。
かえって影の闇も濃くなった時代かもしれない。
わたしも、じぶんの中に暗部があることは知っているんですが、それは知っているというだけです。
わたしは依然として、それは恥ずべき子で、居てはいけない子。
その存在を認めてはいなくて、どこまでも他人事、にしている。と思う。
見知らぬ人と2分間、黙って座っていられない人は、自分の暗部を受け入れてはいないのですと、先の講習会の人はいいました。
いやいや、見知らぬ他人と黙って面と向かうなんて、わたしゃ、絶対無理っ。
いや、統合化された”魅力的な”人物になれるかもしれない?影がいぶし銀のおじさんになれる?
ああ、、わたしはわがまま放題になっちゃう??
3.さらに講習会の話
後日、参加者たちはもう一度集まって、同じ相手とペアになったのです。
独りでいると同時に相手とともにいるようにと、指示されました。
そわそわしたりするという”不思議なふるまい”はもう出てこなかった。
2分後、それがどんな体験だったのかと振り返ってもらった。
みな、1回目とはまったく違うものだったといいました。
居心地が良かった。
「自分が自分であると同時に、相手とともにいるという感覚」もあった。
「時間の感覚」も変わっていたといいます。今ここにいるという感覚だったといいます。時間が止まっていたと。
ペアとなった相手にも関心を抱いていながらも、自分の居場所にいるんだという、くつろいだ感覚だったと言った。
その感覚は、ワークショップでの感動が終わって日常に戻った後もずっと続いたそうです。
参加者にとって新しい生き方として定着した?
この話を紹介された方は、理想とか思い込み・葛藤の中に居る人たちは、嫌な思い込みを自分から隠そうとしてしまうといいます。
ほんとは自分のためにならないのにそうしてしまうと。
でも、ほんとの構造が分かって来ると根本が変化してしまう。
自分の志や願いというものにフォーカスした生き方に変わりますと。
ある本の中で紹介されてただけで、その講師の名もわかりません。
そんなすごい講習会って世の中にはあるんだ。。
4.ダークサイドの話をしてもいいよ
クリント・イーストウッドがそんなことをぽろり言ったのです。
イケメンのガンマンがいつの間にか名監督になってたのですが、彼はそんなことを言った。
講習会に参加して、「自分が自分であると同時に、相手とともにいるという感覚」もあったという人たちのその後が気になります。
やっぱり、日々の中でまた、元に戻って行ったのかな?
いや、クリアに体験したのだったとしたら、もう戻らないのか??
でも、たぶん、そんな霊験あらたかなワークショップなのだとしたら、もっと世間に広がっているとも思う。
その講師の持つ何か、たまたま参加した人たちが組み上げた要素・・・。
記述されていない何かがその場に重なっていたんじゃないかと思うんです。
それは嘘ではないのだけれど、必要条件しか言ってなくて、十分条件は明かされていない。
まあ、明かしてしまったら、講師の方は商売あがったりになるでしょうし。
でも、今、その参加者たちは「ダークサイドの話をしてもいいよ」とまでは言わないと思う。
クリント・イーストウッドが最晩年に輝きを見せたのは、自身、闇をさまざまに味わったからだと思うのです。
わたしの中に居る闇の子を単に認知するだけでなくて、わたしたち、人間のすべてに貫徹する様を諦めと悲しみとで抱きかかえてしまった・・・みたいな。
「ダークサイドの話をしてもいいよ」とまで言う人は、かなり”大物”になっちゃうんですかね。
わたしは、ここまで書いても、やっぱり悪い子をすっと受け入れることが、怖いのです。
でも、良い年したおじさんがいつまでも”面倒くさい”なんて、かなり恥ずかしい・・。
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