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なにかひどくちっぽけな存在のこと


1.目に飛び込んで来た


夕食後、Xをつらつら眺めていました。

そしたら、ぽんとこれが目に飛び込んで来た。

白と黒のコントラスに、はっとした。

これって、わたしが今生きている同じ地球のことなん?


ネパール側から写したヒマラヤだと思います。

ひとりの人間が登って行く。後ろを犬が付く。かれらがひどくちっぽけです。

毅然とそびえる山は雪と風で覆われてる。

標高のせいできっと寒い。風もすごそう。空気も薄い?

そんなとこ、登ってきみどうするん?

というわたしの頭の中に起こった声も、すぐに神々しさの前に沈黙した。

白と黒のコントラスがわたしを圧倒している。いったい、何がわたしを惹くんだろ?

向こう側の白は神秘を現わし、こちら側の黒は現世でしょう。

ああ、、彼はわたしだ。

この登って行く人間は、実は、じぶん自身なのだと気が付いた。

見ているわたしが、実は稜線を歩いているのです。

よいしょ、よいしょって地味に登るしかない。

わたしが、大いなる存在の前ではちっぽけだったのです。

普段の生活なら、わたしはじぶんの大きさに気付けません。

やることの意義なり、価値や効率ばかりに充満している。

手際よく、無駄なく、ちゃっちゃと処理することばかりをじぶんに命じている。

なんでも、”わたし”が先に来ています。

わたし、わたし、わたし。じぶん中心の視座が当たり前です。

じぶんの心配ばかりしているけど、それがかえってまずい。



2.ずっと昔のこと、南アルプスを登った


新宿で夜行に乗って、早朝にふもとの駅に着いたのです。

そこから、ふらつくほどに重いリュックを担いで歩き始めた。

1歩、1歩、ゆっくり歩く。

目的地も道順もよく分からないままに。

いや、もちろん、遥か上の頂上を目指してはいるんだけど、なにせ1回も行ったことも、見たことも無い所。

ゆっくり歩く。しかない。

なぜ、紐で足首まで締め上げる靴でないとまずいのかを実感しました。

足首が固定されていないと、よろけたら捻挫してしまうな。そうか、そうなのか。。

ああ、でも、なんて背中が重いんだろう!

ほんとに、こんな重さ担いであそこまで行けるのか?

かなり無理なんじゃない??

着替え、食器や食料や燃料だけじゃないのです。

さあ、登るという直前、とつぜん重さが倍になった。大半が飲み水になった。

山では水はとても貴重で、食べた後の食器を洗うのにも工夫します。

なるべく水を使わないようにきれいに後始末する。

もちろん、コーヒーも入れて飲む。

けど、標高が高いと沸点が低い。

すぐ沸いてしまうので、熱々に出来ません。飲んでもかなり欲求不満になる。ぬるっ。


ああ、なんて重いんだろっ。

ふらふらしながら、少しづつ高度が上がって行く。

1時間も経てば、”わたし”という自意識はいなくなり、かわりに山の気配が入って来ました。

自我が薄れて行くと、なんて解放されるんだろっ。

ああ、、だから、人は山に登りたがるのか。そうなのか?

ああ、なんて重いんだろっ。

急こう配が現れると呪いたくなるぞ。

そうこうするうちに、日々のサラリーマンのあれこれなんか、どうでもよくなる。

それが意外で、驚きだった。

もちろん、先の写真ほどにじぶんが神々しいわけではないのです。

荷物は重く、登りはきつく、これから何時間も這い上がるんだもの。

でも、山という存在をたしかに感じる。

そうか、だから、みんなはせっかくの休日にわざわざこんなところまで来て、たいへんな想いをしてまでも登りたがるのか。

そうなのか。。



3.日々、競って争ってという風がわたしに吹く


わたしは、普段、じぶんが争っているということを意識していません。

一人前の男は負けれない。ばかになんかされたくもないんでしょう。

比較するという雨も降ってるんだけど、これも意識していない。

他人のことなんか、気にしたってしかたがないのに、

あいつは気に入らないとか、じぶんは嫌われていないんだろうかとか思ってしまう。

わたしは、じぶんが他者の評価を気にしているんだということを意識していません。

人の視線を気にしたり、競うということはわたしの中では在ってはならないことだから、

そんなこと恥ずかしいことだから、

じぶんでじぶんの現状を無意識に否定している。と思う。


若かった時、”比べる”なんてばかげたことだ、超越したいっと思った。

ずっとそう思ってきた。

禅ボウズになりたいっ。

が、最近はそうは思いません。

意外なことに、比べるとか、期待するという機能はここでは仕方ないのです。

地上で生きるんだもの。アメーバだって、きっと比較しています。

こっちがいいのか、あっちに進んだ方がいいんだろうか?

これは食べれるんだろうか?とか、きっと感じているでしょう。

もちろん、わたしたちも生き物だから、これは食べれるのかと分析するし、これよりアレの方がうまいとする。

この比較する機能があるから飢えずに生き延び、より良さそうな伴侶を見つけて子孫を残せてきたのです。

だから、他者比較や他者期待を悪者にしても、それはひどく観念的すぎるでしょう。

わたしたちは、生き物である間、とうぜん、他者比較し他者期待をするのです。


犬と神々しい山に登る時以外、そのお役を捨てることはないでしょう。

考えて見ると、この登山者は孤独ではないのです。

ずいぶん遠くから、誰かが彼らを写真に収めている。

比較してしまうわたしを、また誰かが見ている。そういう入れ子の世界でわたしは生きている。

だから、わたしはここに書くし、あなたが見てくれることも意識している。

他者比較をし、他者評価を期待するのは、息をするぐらいに当然なことなのです。

それはこの地上に生きる者として避けることができない前提でしょう。

その前提を受け入れるかどうか、そこがひとの分岐点になる。



4.不思議な事

デイトレーダーしていると、じぶんの失敗を分析するたびに、”無意識”がひょこり出て来ます。

資金が溶けて、最後の崖っぷちに追い込まれています。

でも、なぜ負け続けるんだろ?とても、不思議です。

ここは上がるぞと思って買った株が下がってしまい損失する。

ここは下がるぞと思って空売りした株が上がってしまい損失する。

損失が1週間も連続する。。


株式市場では、株価は上下し、いつもそこから上がるか下がるしかないのです。

小さな子がやったって、50%の勝率になるでしょうに、わたしは負け続けている。

とても、不思議です。

つまり、わざわざ負けるようにまずい時にエントリーしているわたしなのです。

負けたいのか?いいえ、そんなこと絶対にないっ。

逆に張っていたら、今頃、うはうはだったのに、なぜ負け続けるんだろ?

分析して見ると、大きく張って儲けようとしたり、だから大慌てしています。

その欲と恐れがわたしを負けさせていました。が、とても、不思議です。


意外なことに、わたしは”下手”なのではなかった。

その日のトータルでは負けているのだけれど、その日の個別のトレードではたまには、勝っていました。

その勝ったトレードを分析すると、はっきりしていた。

ぜんぜん、構えが違ってた。

よく様子を感じていて、ああ、今入るんだなと”分かった”。

稼ぐぞとか、儲けるぞとかいう主体者感は無くて、ああ、今だなと無理なく”分かった”のでした。

欲に捕らわれていないので、動きがよく見えていたでしょう。

無理に大きく張ることもない。

確度に応じて、投入する株の単位を変えていた。

謙虚目な規模にしてエントリーしていました。

なので、見込みと違ったなら、傷が浅い内にあっさり撤退できていた。

目論見通りなら、利益が伸びるのをじっと待っている。。


うまく行ったトレードでは、わたしに主体者ではなく、市場の動きに身を任せていました。

南アルプスを登り始めた時、”なんて重いんだ”、”ああ、きつっ”という自我がありました。

でも、2時間、3時間、4時間と経つうちに、自我はヘロヘロに消えて行き、山に包まれていったのです。

自我を明け渡し、わたしは山の荘厳さにひれ伏していました。


わたしは、興奮したいのだ、夢中になりたいひとなのです。

ということで、それがギャンブルに成って行くのです。

わたしは、株式で負けれないので、負けを認めない。

資金管理なんていうことは吹っ飛び、張れるだけ張ってしまう。

大きな痛手を負い易いトレードに参戦し続けていました。

負けもあるという事実は認めず、すべて勝つ気でいた。

そんな無理な事。。

相手はそびえたつ巨大な市場という山なのに。。


わたしは、”下手”なのではなかったのです。

ギリギリの崖っぷちに追い込まれた時、見えて来たのはわたしを支配していた無意識でした。

ならば、勝つということは実は、とても簡単なことでした。

もし、人間がどうしても持ってしまう欲と恐れから離れてしまえばいいのです。

仕事なんだから、夢中になる、という興奮を落とせばいい。

もちろん、そんなことは出来ないのだけれど、資金管理を死守しエントリーのタイミングを計れば良い。

上手く行ったトレードの型を再現し続ければいいのです。

自我をはずして、そっと市場を見守る視座をいつも胸に抱けば良いのでした。

話は、とても簡単なのです。



きっと、わたしたちは、とてもシンドイ目にあったり、悔しい目にあったりしないと、普段、無意識にじぶんを支配している構造に気が付けない。

不測の病気や事故、失恋、不仲、失業、不遇。。

それは、不満であり不安なんだけれども、しかし、千載一遇のチャンスでしょう。

千載一遇とは、滅多に訪れそうもないよい機会のこと。

二度と来ないかもしれないほど恵まれた状態だというのです。

誰にとって?

ええ、それは普段、わたしを支配している無意識くんが日の目を見れるのです。

彼は、きっと、無意識でいたかったわけではない。

自我はなにかひどくちっぽけな存在で、実は彼の方が巨大でしょう。

きっと、彼はあなたに気が付いて欲しかったのです。

気が付いたら、あなたはその人知を超えた大いなるメカニズムにひれ伏すことができる。

登る辛さや、市場で負けることは避けれないのですが、

じぶんを縛っていた制約に気付けると、もうそこに縛られなくなるという不思議が起こります。

それは、偉大な気づきの瞬間でしょう。

それってワンダーじゃありません?

わたしは、ひどくちっぽけな存在なんだけれど、そんな瞬間、宇宙大に狂喜乱舞している。

ああ、、生きてて良かったって。

この世界の何かの神秘といっしょに成れるのですから。




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