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ウソをついちゃいけない?― 岸田奈美さんのほろほろ食感


1.わたし、ウソついたの


若い作家、岸田奈美さんのエッセイ集、『飽きっぽいから、愛っぽい』。

中である告白をしていた。

「今まで書いてきた、この連載作を読み返してみた。(中略)

いろんな時期の、いろんな場所の記憶を、思いつくままに書いてきた。

忘れかけていた記憶と、出会い直してきたつもりだった。

今、読み直してみるとよくわかる。どの回にも、ほんの少し、一行か二行か、嘘がある。

言われたことのない言葉。見たことのない表情。」


ええ”ーっ。

作家が、こんな”ほんとのこと”を言って良いん?

そりゃ、作家だものそうかもしれないけど、まずいんじゃない?

正直過ぎて驚いた。


「騙すつもりじゃなかった。

覚えていないことを言い訳に、矛盾がないよう、チョイチョイと書き足した。(中略)

なぜ、そんなことをしたんだろうか。理由はわかりきっている。

わたしが、わたしを好きになるために。そうだ、これは、ほしかった記憶だ。」


ううーん。。なんだか、受け取れないぞ。

岸田奈美さんはかなり凄腕の作家です。ほろほろしちゃう。

で、その真髄は、「100文字で済むことを、2000文字で書く」ぐらいに考えるところ。

そして、誠実であるところ。家族に対する愛は、すんごい。

健気なかのじょをつい、応援したくなる。

その人が、「一行か二行か、嘘がある」と告白した。衝撃的だっ。

世間では、ウソは付いてはいけないことになっているっ!



2.なぜ嘘を書き込んだのか


彼女は、さらにこう書いていた。

「わたしがしなければならなかったのは、わたしを好きになることではなかった。

嫌いなわたしの中にしか起き得ない感情を、わたしの中にしか生まれない言葉で、書くことだった。

どんなにつらくても。難しくても。時間がかかっても。飽きても。褒められなくても。

書こうとする時間が、わたしをなぐさめる。書けないことが、わたしを大丈夫にする。

ようやくたどり着けたここから先に、たぶん、愛がある。」


うーん、よく分からない。

いや、彼女はデコボコした自分を受け取ろうと必死に生きて来たと思う。

中学2年生のときに起業家の父が突然死、高校1年生のときに母が心臓病で車いす生活、弟が生まれつきダウン症。

認知症で荒ぶる祖母と、よく吠えるかわいい犬の梅吉もいる。

彼女ひとりが踏ん張らねばならない。

で、本人にも著しいデコボコがある。

そういう中で強く生きることを強いられて来たと思う。

「どんなにつらくても」と言っているのはそういう意味だろう。


嘘をつこうと思っていた訳ではなく本人は真面目に一生懸命やってきた。

一生懸命やる人は、その結果シャドウに苦しみやすい。影を隠して無理をするから。

また、一生懸命やる人には、応援や崇拝者が出やすい。

ますます、影は奥に隠れ、マグマのように行き場所の無いエネルギーがたまってしまう。いつかそれは、爆発する。。


彼女は、リアルな人間像としての自分を晒してくれている。

自分を崇拝して欲しいのではないのです。

もちろん、本を書くとは、光と影(シャドウ)を同時には表現できません。

でも、彼女は、エネルギー溢れる光を放出する。

彼女はリアルには必ずシャドウを抱えている。

そのシャドウをこうして本の中でも読者に率直さらしている。

もし、光で世界を照らす人であるのなら、天性の嘘つきかもしれない。


微笑ましい。愛に溢れた人だ。

だからといって、恐れや卑しさが無いはずもない。

有名になるにつれ、彼女を崇拝する者も多くなり、なにかのポーズも取らざるをえなくなっているでしょう。

オナラ出ましたとか、ハナ〇ソ掘ってますなんていえないわけです。

でも、かのじょは、こんなふうにあっさり嘘に気が付いたと書く。

「立派な人」という色眼鏡で持ち上げ易い読み手に対して、ちゃんと「人間だもの」を堅持しようとする。

関西人の根性を見せる。

リアルな人間像としての彼女の一面に触れ、わたしはほろほろした。


彼女は、人たちの生命の讃歌を歌う。

彼女は、あるがままに生きる。

どうぞ、わたしも正直にここに書けますように。



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