とてもささやかなこと、を悔いてます
さよならっと退職したら、せいせいするだろうか?
1年経ちましたがすっきりなんかしませんでした。
心が開かれてゆくような感覚は来ません。
働かないこと以外、こころの風景は変わり無いといったら伝わります?
わたしは、途中で通勤電車をふらりと降りてみたかったのです。
ずーっとそう思ってて、でも、40年間一度もそれをしなかった。
たいしたことではないんです。
でも、わたしはやりたかったのにずっとしなかったのです。ほろほろ。
1.やれそうでやれない
わたしは、決めたらたいがいやります。やれます。
けれど、「降りようかな・・」なんていう曖昧な想いは行動に移しにくい。
途中下車は難しかったのです。
新宿に向かう電車は猛烈でした。乗るだけでもたいへんなんです。
降りるのはできても、またぎゅうぎゅうをこじ開けて乗るなんて、気が重い。
嫌な通勤に余計に時間がかることになる。ギリギリまで寝ていたので遅刻するでしょう。
降りたとして、いったいどこに行くん?
行きたいとこなんてなくて、ただ常軌を変えたいというアホみたいな熱でしかないのです。
いや、職場なんて行きたくないっ。
あそこは、わたしを痛めつけ惨めにさせる。
生活費のためっていうけれど、なんてひどい役まわりなんだ。
もちろん、ぐれずに行きましたよ。家族いましたからね。
でも、たまにはふらりと、黄昏たいって思ったんです。
会社の帰りなら、帰宅時間がすこし遅れるだけです。でも、寄り道もしなかった。
実は、休日もできなかった。
気の向くままにふと途中で降りたっていいのに。
でも、いつもわたしはわき目も振らず、ひたすら目的地へ向かいました。
寄り道=無駄なこと、なのです。
外れることが怖かったのかもしれません。
ハズレなければ、予定通りに到着できる。間違いは起こらず安全でしょう。
2.窓の外
数年ごとに勤務地は変わり、赤坂や六本木、川崎、横浜に。
片道1時間半の通勤ってざらでした。たいがいは小田急に乗ってた。
商品企画が続き、始終、部長や役員が圧を掛けました。
ルーティンな手順なんてなくて、いつも綱渡りです。
わたしは電車の吊革つかみながら、流れる窓の外をよく見ていました。
学校へ行く子どもたち、救急車があわただしく着く病院、混みあう市役所、障害者が通う施設。
静かな住宅街と並木、賑やかな商店街とおばちゃん、大使館通り、東京タワー、中華街。。
車窓から見える世界は、人たちが生活していた。
そこに、ふと行ってみたくなるのです。なぜ、じぶんはあそこに居ないんだろ?って。
さよならっーと退職したら、せいせいするん?
いえ、1年経ちましたがすっきりなんかしません。
心がふっと開かれてゆくような感覚は来ません。
世捨て人でも無いので、世間と連動し揺れ動いています。
労働しない以外、なんの変わりも無いといったら伝わりますか?
意外なことに、とても些細なことが気になっています。
わたしは、ふらり降りたいという胸の呼び掛けに一度も答えなかったのです。
大事な何かをさぼってたような気がする。
ああ、、何だろ、これっ!
わたしは安全な車内にじぶんを居させ、外れることを許さなかったんでしょうか。
自由そうな外は、危険だった?人生から外れることは、落伍だと?
3.暖かい所へ
ときどき、NHKの番組『ドキュメント72時間』に浸りたいっていう気分って分かりますか?
ファミレス、空港、居酒屋、花屋、自動販売機の前・・。
一つの現場に3日間(72時間)カメラを据え、
そこで起きるさまざまな人間模様を定点観測するドキュメンタリー番組です。
作製側は、「予定調和」を廃し、カメラの前で起きた「リアル」な出来事をありのままに伝えることを目指しています。
わたしがこれを見たがります。
「予定調和」ばかりをじぶんに課せていたわたしが。
ストーリーも無いし、たいしたことなんて何も起きない番組です。
普通の人しか出て来ません。
でも、見てると、意外な人生をみんなは背負ってる。
ささやかな喜び、触れ合いがそこで起こってる。
もちろん、みんな必死に生活し仕事している。重い病気も抱えてたりする。
いろんなことが起こり、人たちの生には「予定調和」なんてちっとも無い。
と分かると、わたしはほっとする。
そこに、松崎ナオさんの「川べりの家」が流れて来ます。
曲はこう始まります。
「大人になってゆくほど
涙がよく出てしまうのは
1人で生きて行けるからだと
信じて止まない」
寂しい時、いつも無性に聴きたくになると誰か言ってた。
「歌は水に溶けてゆき そこだけ水色」って言われると、もうほろほろに。
この曲が流れてくると、みんないい顔していることに気づきます。
そして、ああ、、番組はもう終わってしまうのかとじぶんが残念がってるのを知ります。
幸せを守るのではなく分けてあげる、という歌詞がいいです。
そうやって生きてる人はどんな境遇でも輝いてるのです。
何も無い、退屈なじんせいなのに。
ケガばかりしていて、あちこちぶつかってばかり。出世もお金もなさげです。
で、わたしの胸がせり上がって来て涙が出そうになるんです。
嬉しいんだろか?いや、悲しいん?
きっと安全を強いて来たわたしのこころが、人たちに癒やされて行くんです。
4.セロトニン
電車は途中で降りたことはなかったし、駅の周辺を探索したこともなかったのです。
赤坂、六本木、川崎、横浜。。
通ったけど、オフィスのあるビルと自宅との往復ばかりでした。
どんなに派手な場所でもオフィス以外には行かなかった。
いつもいつも思うんです。
同僚たちのようになぜ楽しまないんだろうって。
みんなは、美味しいスバゲッティ屋さん、飲み屋、中華屋、なんでも興味津々で開拓して行きました。
無駄なことが嫌いなんだろうか?
そんなこと無い。こうして書いていることなんか、最たる無駄かもしれない。
この人間は、目的的に生きてるわけでもないのです。
でも、じぶんでは行動を変えて見る勇気が持てなかったんでしょうか。
そう、わたしはひどい怖がりかもしれない。じぶんだけに閉じ易いんです。
ずいぶん昔、テレビを見ていたら、南米の人が外出恐怖症だった。
脳内の伝達物質の1つ、セロトニンの分泌量が普通の人より少なかったのです。
セロトニンは脳の興奮を抑え、心身をリラックスさせます。
彼は、知らない所に置かれると、恐怖なんだという。買い物もできなかった。
どんなに安全だと分かっていても、そこに居るのが不安だというのです。
わたしも小さな頃から、すこし分かる。すぐに母の元に帰りたかった。
夏が来てお祭りで人混みに居ると、ひどく落ち着きませんでした。
パニック発作を何度も経験すると、再び発作が起こるのではないか、次に発作が起こったら気がおかしくなってしまうのではないかという不安が頭をよぎるそうです。
これは「予期不安」と呼ばれる症状で、仕事や学業に支障を来たす。
そして、予期不安に伴い、会社などの公共の場で発作が起こらないか不安になり、大勢の人が集まる場所を避けるようになる。
で、人前に出るのを嫌って自宅に引きこもるなど社会生活に支障がでることがあると。。
わたしのように通勤はわき目も振らずにただ行き来する者、登校拒否になる子供、引きこもる大人・・とさまざまに行動が分かれるのでしょう。
たぶん、セロトニンの量が多少足りないのか、すごく足りないのかの違いしかない。
何かが怖いのです。治療は、脳内のセロトニンの量をコントロールします。
人間の中でも、ネズミさん並みに欠乏している種族がいるのかもしれません。
閉じこもると暗いけれど、巣の中なら外敵に食われることはなく安全です。
セロトニンを少なくして派手に外を出歩かないようにしているでしょう。
だから、これが少ないというのも、何かの理由、何かの合理性があるのかもしれない。
わたしの後ろに居るひとたちは、わたしを内向的にさせたかったのかもしれない。
5.誰だって会社は嫌いだ
わたしは、じぶんでもじぶんをつまらない男だなって思います。
道草はせず、同じ所を行き来したがる。
ウインドウショッピングなんて想像を絶するほどに興味がありません。
だから、わたしの祖先はネズミさんだったんだと確信している。
ただ、未知な場所でもそれがミッション張られていると、気にならない。
たとえば、出張の命が下ればどこだって行く。ぜんぜん躊躇が無い。
だから、先の南米の人とは本質的には何か違う。セロトニンのせいにしてはいけないのかも。
目的がはっきりしないと行動できないのかもしれない。
通勤電車をふと降りたくなる。
プレッシャーで壊れそうなじぶんをなんとか救いたかったんだろうか?
でも、降りてもけっきょく何も変わらないと諦め、しなかったんだろうか?
真面目に言われたことだけしていれば、仕事は失わずに済むからと納得してたんだろうか?
でも、なぜ、降りなかったのかの説明には成っていないような気がするんです。
なぜ、「予定調和」を崩せなかったんだろう?
あなたもきっと早く仕事なんか辞めたい、通勤地獄を脱出したいって思うでしょう。
あなたにも何かの恐怖があるのかもしれない。
でも、苦しみがあるから辛いのではないのです。
辛さがあっても、ふと違うことも出来るのに、それを許さないことが根っこにある。
その息苦しさがわたしを苦しめていたんだと思う。
1つの刺激が来たからといって、それだけに付き合う必要は無いのです。
それだけを重く捉え続けろなんて誰も言ってない。
ふと、声のする方へ向かってみる。
そのふとした1歩を踏まない限り、
早く仕事を辞め仮に通勤地獄を脱出したからといって、しあわせに満ちるなんてない。
勉強できるようになれば、一生懸命に働けば、しあわせになれる?
そんなこと無いから、ときどき途中下車したかったんです。
恐れを持つって、生き物としては当然です。安心、安全を求めるというのもしごくまっとうです。
だから、安全神話は捨てれなかった。
でも、それが行き過ぎると神経症です。
喜ぶということをすべて犠牲にして、正義や効率に身を跪かせてしまう。
いったい、これは誰の生なんだろう?って、今、思います。
それは、生が翳って来たから、なおのことふさわしい問いなのかもしれません。
P.S.
人の人生そのものが全てドラマなんだ。
わたしたちは、生きる事は世界で一つしかないドラマの主人公を演じているという。
人たちが、松崎ナオさんの「川べりの家」に書き込んでました。
「番組を見ていて、この曲が流れてくるとあ~もう終わりなのかと寂しくなりますね~
でもこの曲を聞いてると、明日も頑張ろうという気持ちになります」
「パニック障害患者です。
いいですよね毎日帰宅後この曲を何度も聴き、涙して1日が終わっています。
明日もガンバろうって思うまで何度も···」