マルク・シャガールの絵 ― わたしの中にあるもの
小学5年生の頃、はじめて見たゴッホが強烈でした。
胸倉掴まれた程度は小さくとも、ベートーベェンのピアノソナタ、モーツァルトのレクイエムにも感じました。
それらは、新鮮でしたが、とても”身近な”ものだった。
恋に落ちるような感覚と郷愁があったのです。
長くわたしの中に眠っていた悲しみや切なさ、無念のようなものたちが引き出されたのでしょうか。
けれど、そんなにはっきりとわたしが仕分けできた作品というのは少なくて、なんじゃこれ!と、むしろ最初は反発したものの方が多いかもしれません。
絵に疎いので、わたしが彼について書けるのはとてもわずかなことです。
1.「愛の画家」と呼ばれる人の絵
我が聖典、ウィキペディアによると、シャガールは生涯、妻ベラ・ローゼンフェルトを一途に敬愛したそうです。
1941年、第二次世界大戦の勃発を受け、ナチスの迫害を避けてふたりはアメリカへ亡命します。
その3年後、ベラはアメリカで病死してしまいます。
ベラへの愛や結婚をテーマとした作品を多く製作していることから、「愛の画家」と呼ばれるとある。
彼の絵からは、宗教的な愛、農村の匂いがします。
蒼で描かれている絵も多く、男女がからみあい空を浮遊する。
月や星。イエス。静謐(せいひつ)。
牛、ヤギ、にわとりといった動物が脇を固める。
表現空間が、棟方志功に近いです。
まず、見て分かる、という絵ではないです。
なにやら、もやもや、くねくねとした非日常の時空が描かれ、そこに入っていいのかどうなのかと戸惑う。
2.ワケが分からない曲
ストラビンスキーの『春の祭典』を初めて聴いた時の戸惑いを思い出しました。
なぜ、こんな難解な曲が有名なのかとわたしには不満でした。
ベートーベンのように構造がはっきりし、情熱的な、しかも古典的に安定した曲が好きです。
でも、『春の祭典』は馴染みの構造を許しませんでした。
思ってた春じゃない!
大量の花粉が土石流となって鼻の穴に押し寄せ、巨大な軍隊が無情にわたしの上を行進して行く、狂喜に熱帯雨林が踊る・・みたいな。
で、わたしの左脳(思考)がぎゃーっと文句を言った。
わたしへの何かのキュー(ヒント)が必要でした。
ある時、FMラジオで解説者が、「これは詩です」と言った。
あっと気が付き、すとんと何かが落ちたのを覚えています。
そうか、詩か。。。
詩というなら、そりゃそうだなと、納得してしまいました。
そして、わたしの左脳(分析する)は止まり、右脳(感じる)にすんなり席を渡した。
『春の祭典』、いいじゃん!
以来、熱帯雨林のようなむんむんした熱が湧き出し、そこに綺麗な小川が流れるような導入部がひどくお気に入りとなりました。
聞きたくない不協和音なのに繰り返し聞きたくなる。
時に、彼の急転直下に鳥肌が立つ。。
わたしは、キューをきっかけに理不尽であることそのままが味わえるようになりました。
解釈することをピタリ落としてしまうと、面白かったのです。
何んだろう?なぜ、なんだろ?
3.ワケの分からない絵のままに
シャガールへのわたしのキューとはなんなんだろう。
もちろん、いろんな評論家、美術家の言葉をしらべれば、きっとなにかの秘密を教えてもらるでしょう。
でも、わたしはキューは要らないし、理解不明のままとしています。
他人の言葉を知ってしまうと、わたしの脳はもうそれで済ませてしまうでしょう。
じぶんの深いものに触れれずになる。
それじゃ嫌だ!とわたしはなぜか思う。
シャガールの不思議な時空は、他人を参照することで処理してしまうには、なにかてとも畏れ多いのです。
わたしをシロウトならシロウトのままにして置いた方がいいんじゃないのか?
違和感は違和感そのままにして置いた方が良い!と、どこからか声がするのです。
彼が売れることを考えていたとはとても思えません。
このよく分からない絵は売れそうにないのです。
彼は媚びていなくて、一途に何かに向かっていたと思う。
その彼の願う、”愛”というものを地上に現わすということに専念していたと思います。
売れようが売れまいが、それより先に大事なことが彼にはあったのだと感じます。
4.分からないこと
ベートーベンは、交響曲とピアノ・コンチェルトが好きで、後期は分かりません。
モーツァルトはレクイエムだけが好きです。
実は、わたしはかなり偏って鑑賞してきたのでした。
じぶんの中にあるものをこの世界に投影して好き、嫌いを言ってるでしょう。
でも、好きとか嫌いと単純に言っていますが、好きの意味を考えたことがありません。
そして、じぶん自身の声はそもそも聞こえにくいのです。
それどころか、わたしは検閲者となって”ほんとの声”に反発して行くようです。
喜びと切なさとともに、この世にじぶん自身を認める・・、というようなことはなかなか起こりませんでした。
なんか違和感があるなぁとか、分からないとか、嫌いだという反応が起こるとき、
それはひょっとしてじぶんの声を確認したいというタイミングなのかもしれません。
5.わたしの中にあるもの
不思議なことに、シャガールの絵は、どの絵も彼が画いたと分かるのです。
それはゴッホでもセザンヌでもクリムトにも言えることで、画家特有のトーンとメロディが織りなされている。
絵の底に貫通するがっちりとした不動の構造があって、はやりの絵とは違って、こちらの関心を惹き続けます。
たとえば、シャガールでは、蒼の深み、空の浮遊感、動物たちというフレームが、とても懐かしくて、悲しいトーンを流す。
彼のどの絵にも一貫してその構造があると思います。
もちろん、さんざんいろんな試みをして行き着いたのでしょうが、彼の全じんせいを掛けたテーマがこの構造だったのでしょう。
作家もブログ書きも、それぞれが終生追い求める一貫したテーマをベースに置くと、深さと広がりが出るように思います。
もちろん、一見ふにゃふにゃしたよく分からない蒼な文章かもしれません。
それを嫌う人もいてけっして万人向けとはなりません。
シャガールは、他人の評価以前に、集中し追い求めたいテーマを見つけたのでしょう。
それを手を変え品替えて、いく枚も絵を描いて行った。
何度もなんども描いて見た。
はたして、民主化された今のブログ空間はどうなのかと思うのです。
「いいね」や「すき」といった数を気にするだけならいいのですが、なにかじぶんも右へナラエになっている気もします。
孤立するのをひどく恐れているかもしれない。
なにか同じトーン、同じ匂いになってしまう。。
別に奇をてらう気はないのですが、わたし固有のがっちりした構造がじぶんでも見えないのです。
ブログ空間で書きたいことはありますが、それがわたしの「生涯、追い求めたいテーマ」にピント・フォーカスしているものなのかというとすごく曖昧です。
たぶん、アマチュアにおいても、「生涯、追い求めたいテーマ」に出会うことが大事でしょう。
それは、他人のうまい表現と比べるものでもなく。
もちろん、わたしはシャガールのような孤高に耐えれるとは、じぶん自身を信じていません。
それは、内から突き上げて来る”ほんとの声”を聞けていないからでしょう。
畏れ多いモノだと思います。
6.それを頼りにまた
けっきょく、「いいね」や「すき」の数が100万、1000万、1億になってもあまり意味は無いでしょう。
だから、どうなの?と自問してしまう。
虚栄心は自己満足はしますが、自分が触れたかったこととはやはり違うのです。
「生涯、追い求めたいテーマ」が最初にクリアにならないとたぶん、わたしはエゴと”わたしのほんと”との間をさまようのです。
シャガールはほんとはどうだったんでしょうか。
生活しないといけなくて、お金はどうしたんでしょう?
わたしの読みはおおはずれで、ピカソ並みに最初から売れてお金持ちになってたんでしょうか。
愛の画家はきっちり稼いでた?
このスタイル、あんまり売れないと思うんですが。
他者のマネなんかで時間つぶさずに、自分のスタイル、自分のメロディを練習し続ける。
その”結果”は、プロセスとはまったく異なる事象なのですから、わたしたちは結果を気にしても無駄でしょう。
シャガールのワケの分からない絵を見ながら、そんなことを思いました。
ゴッホもベートーベンもシャガールも、既にわたしの中にあったものでした。
それを頼りにまた、書きたいと思いました。
P.S.
1910年、ストラヴィンスキーは、ペテルブルクで『火の鳥』の仕上げを行っていた際に見た幻影から新しいバレエを着想したそうです。
幻影が何だったのかというと、“輪になって座った長老たちが死ぬまで踊る若い娘を見守る異教の儀式”だった。
おお・・・・。
そもそも、わたしが理解し納得できるようなしろものじゃなかったのです。
最初の違和感は彼の世界が分からなかったからでしょう。
でも、狂喜の表現は、わたしの中に既にあった何かを呼び覚ましてくれたのかと思うんです。
自分の内に無いものに、人は共感はできません。
あなたとわたしの間のことですから。