初めて精神科に行ったときの話

私は人生で三度、精神科に行ったことがある。
いずれも違う時期。
ちゃんと通ったのは三度目だけで、一度目と二度目は初診だけで終わった。
今回はそんな一度目の、
初めて精神科に行ったときの話。

それは高校生のときだったが、
精神科に行くことになった背景も書きたいので、
私のちょっと異常な(?)高校生活というか、
歪んだ青春というか、武勇伝(笑)も語りたい。

私は高校二年生だった。
当時は大学受験のことで頭が一杯で、
受験勉強を頑張っていたが睡眠障害に苦しんだ。
忙しくて眠れないのではなく、
夜寝ようとしても眠りにつけないのだ。

ちなみに受験勉強が苦痛だったのではない。
むしろ楽しかった。
勉強じたいは全然好きではないが、
母の意向もあり私は東大に行きたかった。
(詳しい理由は後述するけど、「行けそうだった」というのが一番大きい。全然しょうもない。ゲーム中にシュートのチャンスが巡ってきたら「ここだけは!決めさせて!」となるのと同じ動物的心理。
先に結果を言うと無事に受かった。私はエリートだ。でもそれで私を判断しないでほしい。笑)

私にとって苦痛だったのは受験勉強ではない。
「受験勉強がしたいのに他のこともしなければならない状況」が苦痛だった。
具体的にいえば、

  • 学校で受験と関係ない科目の授業を聞くこと(根本的に勉強がきらいなので)

  • 部活(スポーツ系だったので厳しめ)

  • 風呂や掃除など身辺のこと

  • 無駄っぽい時間全て。待ち時間、娯楽など。

特に部活は、人間関係もあまり良くなく、
互いに監視し、サボることを許さない雰囲気。
平日の放課後も土日も、休むことは許されない。
部活じたいは嫌いというほどではないが、
その間、受験勉強ができないのがもどかしい。
だったら、やめればいいのだが、
私の高校では全員が部活に入ってることが当然で、
全てのコミュニティが部活単位であり、
部活をやめるということは考えられなかった。
とにかく部活をサボりたくて、
でも理由なくサボったら大変なことになる(要するに、ハブられる)ので、怪我をしたかった。
その頃、高校の男性教師が、
騒いでいる生徒にブチギレて、拳を壁に打ちつけ、
そのまま利き手の骨を怪我して休職した。
私はそれを聴いて、(ほお。)と思いつき、
ほぼ、同じようなことを、
周りに人がいないとき、校舎の壁でやって、
(利き手は受験勉強に影響するので、利き手でないほうの手。)
でも、変にためらって手を開いてしまって、親指を突きゆびした。(アホすぎる)
もちろん骨折には至らず、部活はその日しかサボれなかった。
ちなみに、その親指は今でも寒くなると痛む。

バカすぎる武勇伝を一つ紹介したが、
その後も、
私は部活を長期間サボることを諦めきれず、
「2階の窓から飛び降りたら足を骨折するかな」
と考えて、何度か飛び降りようとし窓に登った。
でも臆病な私は、2階からすら怖くて飛び降りることができなかった。
今思えば、そんなことをしたら一生残るような障害を負う可能性もあったし、本当に愚かだったと思うが、当時はそんなリスクさえ頭になかった。
でも、信じてもらえないかもしれないが、
本当に部活がいやだったわけではなく、
そのせいで受験勉強できないのが嫌だったのだ。

睡眠障害も、それ自体に困っていたというよりは、
その原因が分かれば、もっと質の良い睡眠が取れ
昼間ももっと集中できるだろう、と考えた。

今思えば、
拳をぶつけるとか、飛び降りようか迷うとか、
そんな自傷を厭わない思考がすでに病的であり、
健全なプレッシャーというレベルを逸脱した、強迫観念に駆られていたと感じる。

でも、当時はそのようには考えず、
ただ睡眠障害を治すために、精神科に行った。

このときの話は本当に、思い出すたびに苦々しい。

未成年なので、母と同伴で行ったのだが、
私の母はまあ、かなり過干渉タイプの親である。
診察の間、私にはほとんど話させず、
ひたすら母が喋り続け、
医者が、バカにした顔でそれを聞いていた。
というのも母の話は症状や病気の主訴ではなく、
ひたすら娘の自慢話と自分の苦労話が続いたので。

母の訴えには、ところどころ(というかほとんど)私の解釈と違う部分があり、
私は訂正したかったが、
当時は精神科が初めてで、精神科医を崇拝しすぎていたふしがあり、
「患者(娘)を放置して話し続ける同伴者(母)」
の異常性に、言わなくても医者が気づいて、
私に話を振ってくれるか、母を諭してくれるだろうと勝手に思っていた。
母は医者相手に一人で話し続け、最終的には
「娘に私の言うことを聞くように言ってください」
「私が言っても聞かないので、
先生からガツンと言ってやってください!」
というような、
学校の三者面談でのセリフのような言葉を放った。

私はこのあたりで、医者が、
「おかしいのはあなたですよお母さん」
みたいなことを言ってくれると、
本当にピュアに信じていた。(ドラマの影響?)

ところが医者は、苦笑いの後、
「娘さんは従順な子供」と皮肉のようにいった。
それは明らかに
「年齢の割に幼稚すぎる」という嫌味だったが、
母は普通に喜んでしまい、意味がなかった。
そのあと、医者は私にいくつか質問し、
(その質問も、私には本当にどうでもいい、
MBTIの診断テストみたいな内容だった。)
それが終わると、
「娘さんには年相応の母性がない」
と母に言った。
(ただの悪口…?)とそれにも腹が立ったが、
医者がひたすら母と目線を合わせて話すこと、
母の過干渉を少しもたしなめてくれないことに失望した。
今思えば、私が自分から一言、
「ねえ先生、うちの母は過干渉ですよね?」
とでも言えば、
医者は苦笑いしつつ「そうですね」と言ってくれたかもしれないが、当時の私は失望して黙っていた。

その後、睡眠薬を出され、診察は終了。
帰宅後、その睡眠薬を飲んで寝ようとしたら、
激しい頭痛と倦怠感に襲われ、体調不良になった。
翌日、体中に赤い蕁麻疹ができ、
母がちょっと怪しい植物由来の薬を塗ってくれたが、全く治らずにむしろ、
さらに翌日には赤い蕁麻疹が黒に変わり、
体中に痣ができたような酷い見た目になった。

そのときアホな私は睡眠薬のせいだと思わず、
食べ物アレルギーか、変なウイルスだと考えた。
慌てた母が病院に連れて行き、
診察のときに「薬をのんでいないか?」きかれ、
母は精神科に行ったことを隠したかったらしく、ないと言ったのだが、
精神科医以外の医者に嘘をつくことに抵抗があった私は、覚えていた薬の名前を普通に言い、
「おそらくそれが原因です」といわれた。
そのときに、母がつけてくれた、
植物由来の液体の話もしたら、
「それが悪化させた」と断言された。
ちなみにこのとき、母は隣にいたのだが、
この医者の台詞は全く聞こえていなかったのか、
家に帰宅後、勢いよく睡眠薬を廃棄したものの、
また例の液体を塗ろうとしてきた。
私は驚いて、
「それで悪化したって言われたじゃん」
と抗ったのだが、それで母は非常に怒ってしまい
「そんなわけない」と否定し、
しばらく私との口論の後、
「わかったよ。捨てればいいんでしょ。
全部これのせいなんでしょ」
とヒス構文で激怒した後、液体も箱ごと捨てた。

その後、蕁麻疹はすぐに治り、
精神科は本当にただの嫌な思い出として、
私の記憶に刻まれることになった。

母の悪口のようになってしまったが、
私は母のことが好きだし感謝もしている。
同じようなふるまいをする親の多くは、
だいぶ問題を抱えているように思うが、
私の母の場合は私に愛をくれ、そのやり方が、
過干渉的なふるまいだったり、
ちょっと怪しい医療行為だったりしただけなので、
私の人生にそれほど悪影響を及ぼしたわけではなく、もらった物のほうが圧倒的に多い。
ただその頃は、あまりにもプレッシャーがあり、
東大に落ちたらどうやって死ぬのが楽か、とまで考えていた。
親が高学歴でもそれはそれでプレッシャーがあると思うが、私の場合は両親や親戚はほとんどが高卒であり、高学歴な人はいないし収入もそれほどない。
それだけに、エリートを目指す私への視線は冷たく
また、親戚全体に男尊女卑の風潮があったので、
莫大な学費をつぎ込んで受験勉強に邁進する私への風当たりが強く、
落ちたら嘲笑されるのも腹が立つし、
「見返してやる!」みたいな気持ちが強かった。
母は個人貯金を全て遣って私を塾に通わせてくれたので、そのぶんのプレッシャーも凄まじかった。
母がいなければ、父はかなりの男尊女卑であり、反知性主義でもあり、単純にケチでもあるので、
私は絶対に高度な教育を受けられなかったと思う。
母は私が卓越した子供だと信じてくれ、
その過剰な期待が私を壊しかけるときもあったが、
期待されずに育つよりは余程よかった。

当時は、プレッシャーをプレッシャーとも思わず、
合格後は、プレッシャーを母のせいだと思ったが、
今は私に冷ややかな視線を向け、失敗を願っている態度を隠さなかった人たちのせいだと思う。

何はともあれ私の高校時代は、
マシーンのような受験勉強(私はこれを勉強とは思ってない。学問ではなくて、ただの対策だから。スポーツに近いと思う。)と、
窓から飛び降りるか?と逡巡するほどの不健全な強迫観念だけで終わってしまったが、
喉元過ぎれば熱さ忘れるというか、今振り返ると
むしろ人生で一番楽しかった時期のように感じられる。

何はともあれ、
この初めての精神科の経験は間違いなく、
二度目、三度目の精神科に活かされることになる。
それからは、
精神科には一人で行き(成人したからだけど)
睡眠薬にしろ何にしろ、薬は貰わないことにしている。
あと、医者は合う人が見つかるまで「チェンジ!」である。ドクターショッピングは必須だ。

私は、ネガティブな体験から、
むりやりポジティブな教訓を生み出すことは好きではないが、
この高校時代の体験から学んだことが一応ある。
当時、私はやたらと追い詰められ、
数分遅刻した友達を待っているちょっとした時間ですら、大変な無駄に思えて苛々した。
そんなカリカリしている自分がとても嫌で、
余暇を楽しめないことが、一番不幸に感じられた。
だから受験が終わったら、そういう切羽詰まった状況にならない仕事につきたいと思っていた。
でも今になって分かるのが、
切羽詰まった状況にならない仕事というのは、世の中にそんなになく、人生のどの時期においても、猫の手も借りたいほど忙しい状況は訪れる。
カリカリしないために必要なのは、そういう状況を避けることではなく、どんな状況にあってもカリカリせずのんびりできる心。
いくら忙しいからといって、ほんの数分、ほんの数時間が何?と思えるのは、気の持ちようなのだ。
「余暇を楽しめるかどうか」は、
状況の余裕さではなく、
「余暇を楽しもうと決められるかどうか」
で決まる。
楽しむぞ、と決めてしまえば、
状況がヤバくても楽しむことは可能だし、
楽しむぞ、と決められない、
わざと自分を追い詰めているようなメンタルでは
いくつ山を越えても永遠に心の平穏は訪れない。

ストイックさは自分を幸せにしない。
少なくとも私にとってはそう。

それが分かってからは、
だいぶ自分に甘いが、それでいいと思えるし、
毎日が刺激的ではないが、まあ幸せだと感じる。

今はとにかく人間らしい私だが、
マシーン時代の武勇伝にはもっと面白いものがたくさんあり、本当はここに書き連ねて自慢したい。
しかしそれは現実世界でも頻繁に自慢しているもので、あまり書いてしまうと、友達に身バレしてしまいそう…
だから書くことができなくて、ちょっと残念。

もしこれを読んでいる高校生以下の人がいたら、
どうか真似はしないでください(するわけないか)

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