見出し画像

【ショートフィルム】I'M HERE by Spike Jonze

仕事机の背面に置いてある大きな本棚の奥から2010年に発表されたスパイク・ジョーンズ「I’M HERE」というショートフィルム(DVD)とその世界観を構成する大型写真集&CDのセットが出てきました。

残念ながらもう現在は販売されていないのですが新古品をアマゾンで買えるようです。
すごく大好きなショートフィルムで大好きな監督さんなので今回は「I'M HERE」について綴りたいと思います。



スパイク・ジョーンズについて

スパイク・ジョーンズと言えば映画「マルコヴィッチの穴」「かいじゅうたちのいるところ」の監督さんですが、なんといっても多くのミュージシャンのミュージックビデオをディレクションしたことで知られています。
有名なのは全編巻き戻し再生して構成されている下記とか

クリストファー・ウォーケンが踊りまくるファットボーイ・スリムの下記とか

とにかく発想がぶっ飛んでる人で根っからのクリエイター気質の人なんですよね。
「her/世界でひとつの彼女」以来あまり新作のことを聞かないんですが今年、ブラピとホアキン・フェニックス出演のネトフリのドラマシリーズを作ろうとしていたようです。しかしながらプロジェクト自体10月に中止が発表されました。
これは私のイメージでしかないんだけど、、、スパイク・ジョーンズは長編ってあんまり向いてない気がする。「かいじゅうたちのいるところ」では多くの制約がある中ですごくストレスフルだったと語っていたし、彼のぶっ飛んだアイデアをちゃんと形にするには長編映画じゃないよね。大勢のクリエイターとやり取りして調整しながら作る長編監督よりも今回の「I'M HERE」のようなショートフィルムの方が彼の芸術性を引き出しているように思います。
でも大手映画スタジオ、はたまたネトフリのようなプラットホームで長編やドラマを作らないとお仕事にならない、ショートフィルムはなかなかお金になりにくいんですよね。
これからもっと彼の作品見たいんですけどねー。きっと映像のアイデアはあると思うのでいい出資先に出会えるといいですね。

「I'M HERE」について

「I'M HERE」は2010年に発表された32分のSF恋愛もののショートフィルムです。スパイク・ジョーンズ監督によると、足かけ5年にわたる大プロジェクト映画「かいじゅうたちのいるところ」の編集作業に追われている中、Absolute社(ウォッカで有名)出資でショートフィルム依頼があったそうです。何の制約もなく自由に作りたいものを作ってよいと言われた監督は、温めていたアイデアをカタチにすることを決意しました。
最初は二台のロボットが恋に落ち男の子ロボットが女の子ロボットに自分のすべてのパーツをあげてしまうといういたってシンプルな内容でした。
制作が決定してから、少数のクリエイターや役者たちから沢山のアイデアを貰い、それを加え一本の作品に仕上げていってます。

主演はアンドリュー・ガーフィールド(スパイダーマン、ハクソー・リッジ)、シエンナ・ギロリ―(バイオハザード2のジル・バレンタイン役)です。

wikiによると物語はシェル・シルヴァスタインの絵本「おおきな木」が基になっており、主人公の名前シェルドンはシルヴァスタインにちなんでいるそうです。

予告編を見ての通り、出てくるロボットは形はとてもレトロなんですが、人間と同じように働いたり乗り物に乗ったりします。そしてはしゃいだり笑ったり恋をします。
絵本と同じように非常に奥行きのある感情を、エモーショナルな音楽と映像、少ないセリフ、そしてロボットの目の表情で表現しています。
とにかく全体の世界感がとても良くて、正直私はあまり恋愛映画を観ないのですが、この映画は何度も観たくなる、そしてそのたびに泣いてしまう感動作品なのです。


あらすじと感想(ネタバレあり)

注:一番下にフルムービー貼っておきます。英語ですが、セリフ少なめなので英語がわからなくても楽しめると思います。下記に書いたあらすじと感想を読むのはフルムービー見てからの方がいいかもしれないです。

(あらすじ)
ロボットのシェルドンは図書館で働いていて代り映えのしない毎日をおくっていました。
ある日、フランチェスカというロボットに出会います。フランチェスカは良く笑い、はしゃぎ、今この瞬間を友だちのロボットや人間と一緒に楽しんでいます。真面目なシェルドンは自分にないものを持つフランチェスカに次第に惹かれていきます。
シェルドンの日々は恋に落ちてからキラキラと輝きだし、退屈だった図書館での仕事も楽しく感じるようになりました。
フランチェスカは「どんな夢を見るの?」とシェルドンに聞きます。
「僕たちロボットは夢なんて見ないよ」とシェルドンが答えると
「見たことにするのよ。私昨日怖い夢を見たの」とフランチェスカが話し始めました。
フランチェスカはイマジネーションがあって生き生きして(おそらくシェルドンやロボットが理想とする)人間のような感情が豊かな素敵な存在なのでした。

ある日、シェルドンはフランチェスカに誘われて初めてクラブに行きました。
そこですてきな音楽を聴いて初めて踊りました。一心不乱に踊っているとフランチェスカがいなくなってしまいました。やっと見つけたフランチェスカには片腕がありませんでした。クラブの雑踏の中で腕を折られてしまったのです。
シェルドンはフランシェスカを静かな非常階段まで連れていき、自分の片腕を外し、フランチェスカに失った腕の代わりに付けてあげます。

また別のある日、帰りの遅いフランチェスカをシェルドンは部屋で待っていると、片足を失ったフランチェスカがドアの向こうに倒れているのを見つけました。
以前と同じように自分の片足を差し出そうとするシェルドンにフランチェスカは「やめて」といいますがシェルドンはこう言います。
「僕は夢を見たんだ。君が足をなくして世界中のみんなが君に足をあげようとしたんだけどどうしても僕のをあげたかった。そして君は僕のを選んだんだ。それが嬉しかった。今までの夢の中で一番うれしかったんだよ」
片足をあげたシェルドンは次の日から松葉づえで出勤しました。

はたまたある日、いつものように仕事を終えたシェルドン。車で迎えに来るはずのフランチェスカが夜になっても来ません。
一人家に帰ると電話が鳴っていました。
電話は病院からでした。
シェルドンが病院に到着するとフランチェスカは心臓を失い瀕死の状態でした。
ガラスの向こうでシェルドンと医者が何かを話し合っています。
そしてシェルドンはフランチェスカと同じ手術台に上がるのでした。。。。

(感想)
なんだかこうして簡単に文章にしてしまうとチープに感じてしまうかもしれませんが、もうね、最後の病院のシーンは号泣です。

お話のモチーフであるシェル・シルヴァスタインの絵本「おおきな木」ではリンゴの木が大好きな少年の為に、自分が持っているものを全て与えてあげます。そしてそれが木にとって幸せなのでした。
一見すると困った時だけ木のそばにやってくる少年ってなんてやつなんだろうって思うんですけど、少年は青年になり老人になるまで人生の中で弱さをさらけ出せるのは木のそばだけだったのかもしれないです。そして何もかもなくなった少年だった老人が最後に休める場所が木のそばだったというのは両方が幸せになったエンディングなのだと(私は)解釈しました。

この「おおきな木」と同じ解釈だとすると、「I'M HERE」も二人が最後幸せならこれでいいのかなと思いました。
フランチェスカの不注意極まりない行動、シェルドンの愛する人(ロボット)の為の献身、どれもすごく人間臭いのに実は現実ではそんなに人間臭い人っていません。
こういうお話に感動してしまうのって、私を含め現代の人って感情やら行動をすごく抑え込んで生きてるのかもしれないなって思いました。

監督が言っていましたが、設定は先立つものがなくてもいくらでも楽しむことができるLAに暮らす20代の若者だそうです。夜中の二時にどこかの駐車場でたむろしたり、ろくに家具もそろってない誰かの家に皆で押しかけたりする友だちと自分の小さな世界が無数に集まるLAを今作の舞台にしたとのこと。
うん、うんすごくよくわかる。インターネットなんてない時代、お金はなくても時間だけはたっぷりあった若い時、友だちと他愛のない話をしたり外でぶらぶらしたり、でもそれが本当に楽しかった。
(多分今の若者との感覚とはちょっと異なると思うけど)たぶんすごくよくわかるのは私がスパイク・ジョーンズと同世代だからかもしれないです。

今の若い人たちにはこのストーリー、どう映るんだろう、こういう愛の形ってどう思うのでしょうか?
少し気になるところですね。

ではまた。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?