その多面体は多層構造を有する
他人を理解することは不可能だと思う。
デパートの最上階にある喫茶に来ている。店の前に貼り出されたストロベリータルトの写真が美味しそうで入ったのだが、ケーキは全て品切れで仕方なしにハニートーストを頼む。店の前に品切れと書いてくれ、と少し苛立つ。
隣の空席に、初老の女性がひとり案内される。女性はカレーを注文する。私はそういうとき、少し嫌な予感を働かせてしまう。私は昔から人の咀嚼音に過敏である。特に、口を開けてクチャクチャと音を鳴らして食べる人間は軽蔑している。
個人的統計によれば、歳を重ねるほどに咀嚼音は激しさを増し、やがては川沿いや高架下にダイニングテーブルを置いて米を頬張らなければならないほどになる。
男女問わず、年を召されている方は咀嚼音が大きいように思う。隣の女性はどうだろうか。不安だ。
とってもお上品な食べ方!咀嚼音はおろか、全体的に静かな所作でスプーンを皿に置くときでさえそっと置く。素晴らしい。なんて素敵な女性だろうか。この淑女に尊敬の念を抱いた。
品の良さはどうして身につくのだろうというテーマで書こうと思い立ち、ノートPCを開く。しばらくカタカタと打ち込んでいると、どこからか不穏なやりとりが聞こえてくる。
「ケーキないんですか!? 表に書いてないじゃないの!」
明らかに怒気をはらんだ声に対して、店員が必死に謝っている。妙に店員の声が近いな、と思って顔を上げる。すぐ隣の、あの淑女の席だ。
「ケーキがないって知ってたら、私はこのお店にしなかったんですよ!?」
淑女の声があまりに小さくて、私は遠近を捉え違えていたらしい。
「食後に、コーヒーと一緒にケーキを食べるのが良かったの!コーヒーだけ出されても仕方ないの!」
そんなに怒ることなのだろうか。
「はい、はい、大変申し訳ございません」
そんなに謝ることなのだろうか。
あまりにも声量の控えめなクレーム案件が目の前で繰り広げられているが、私のほかに客は誰も気付いていない。しばらく問答を続けていると店長がやってきて、すでに出してしまっているコーヒーは代金を請求しないということで落着する。
一通りのやりとりを終えて、店長がコーヒーを下げようと手を伸ばす。
「いえ、それはもったいないので飲みます」
人間は多面体であると思う。
面の数はコミュニティの数に相当することもあれば、対人関係の数に相当することもあるだろう。すべての人間が多種多様な側面を持っている。そこに知性は関係ない。
そして、その多面体は多層構造を有する。内部にまた別の層が存在していて、外面よりまた一つ中心に近しい。
その中心は欲望で、層の数はそのまま欲望の大きさをさす。淑女の層はよほど薄かったのだろう。
私の層は厚い。