暮らし日記⑲言葉を探す時間
こんにちは!雑貨屋 あるくらし 店主の絢音です。
雑貨屋 あるくらし は、「小さな発見と実験」をテーマに、暮らしのセレクト雑貨販売とワークショップの主催をしています。現在店舗はなく、イベント出店から活動をスタートさせました。言葉を残すことも大切な活動のひとつで、noteでは、お店の歩みや店主の暮らし日記・勉強メモを掲載しています。
「良い天気~」と気分良く洗濯物を干していた午前、空を見ながら夕方は畑へお世話しに行こうと決めました。家での事務作業を終え、トレーナ―にウルトラライトダウンを羽織って自転車に乗って出かけます。
ポツリ。空は明るいのに急に小雨がぱらつき始め、段々とハンドルを握る手が冷たくなっていきました。「あれ?」
雨が止みふと、信号待ちをしている高校生たちに目をやると、彼女たちはマフラーに手袋、冬の始まりのような通学スタイル。
迂闊でした。夕方以降、気温がグッと下がる予報だったようで、備え万全の彼女たちを後ろに、用意の悪い自分を反省しながら、ぐんぐんと畑を目指して坂道を登ります。
少しずつ、かたく冷たくなってきている空気が鼻を通り、じんわりと痛い。敏感に寒さを感じ取る鼻に、「来た来た」と冬の訪れを感じます。
大きくなってきたカブの芽をいくつか間引き、茎ブロッコリーを摘んで、ずっと成長を見守っていた、まるまるとした大根を抜きます。野菜を収穫する時、これまでのお世話の日々を思うとやっぱり嬉しく、「すごいねぇ」「ありがとねぇ」とひとりごちます。
「今日は鍋にしよう。」エコバックに野菜を摘めて、下り坂の多い帰り道、さらに冷え込む風をあびながら、決意してスーパーを目指しました。
家に着いたときの作業BGMは王道クリスマスヒットメドレー。12月25日までの期間限定の音楽を流しながら、コトコトと鍋の準備をし、こたつでお笑いを見ながら夫と食べます。羽毛布団を肩までしっかりとかぶり、見事に「冬」だったな、と就寝。秋から冬へ、季節の輪郭がじんわりと浮かび上がってくるような1日でした。
今回のテーマは、言葉を探す時間
言葉を書く、という行為が、私にはとても「助かります」。頭で考えていることを、瞬時に話し言葉にしようとすると、つっかえてしまったり、頭が口に追い付かず、思わぬことをいってしまったり。「あの時、なんて答えたかったんだろう?伝えたかった事ってこういう事だよなぁ。」と1人になったタイミングに、頭の中でその時のシチュエーションのリテイクをする事が多いです。二度とは訪れない“その時”の言葉を探します。
自分が納得する適切な言葉を考えるのに、どうしても時間がかかります。
訓練次第で良くなるよ、と言われてしまえばしまいですが、瞬発力を求められるようなシーンに出くわすと、内心ヒヤヒヤとしてしまいます。
会話についていけない時、よく、大縄跳びをしているシーンが浮かびます。
次々と軽快に縄を跳びテンポよく進む列を前に、最初はその景色を眺めながら、後ろの方で縄に入るタイミングを何回もイメージします。いよいよ自分の番が回って来る。入らなければならない事は理解しているのに、想像していた事と目の前の光景のズレに、跳びそこない、幾度も縄を見送る私。焦る気持ちとそんな自分がバレたくないという気持ちで、平然を装おうとします。なんとか、顔だけ「もうすぐ跳ぶから待ってね」というように、にこっとする。そんな、お腹がきゅうっとする場面が浮かびます。
速さを求められる会話や、急に始まる自己紹介等では、何て話そう?と微笑みながら(そして焦る顔が滲みながら)耳を傾け、自分のタイミングをソワソワと見計らい、言葉をぐるぐると考える事が少なくないです。(そして、まとまらない言葉を話して、何話してんだ私。と自分に呆れて終わることも少なくないです。)
話す時と同じよう、私は言葉を書くときも、すぐに、「この表現でいこう」と思う言葉が浮かびません。何回も何回も書き直します。会話であれば、頭の中だけのリテイクで終わったんだろうな、と思う事が良くあります。
書いて、書いた文章を自分で読んで、悩みます。「本当?」自分で書いた言葉なのに、そう疑問が湧く。自分で書いた、つっかえる言葉と出会う度、頭の中で話し合いが始まります。なんていう言葉がぴったりと、しっくりと、自分が考えている事を表現するのか、イメージとズレがないのか、違和感が少ないのか。書いて、読んで、消して、書いて。数日に渡って書く事が多いので、通勤電車の中、トイレ、「必要としている言葉はなんだろう?」と言葉を探します。見つけた言葉を綴って、また読み返して、少しずつ少しずつ納得感のある形に仕上げていきます。まだ推敲したいけど、もう出しても良いかな?という心のせめぎ合いをじりじりと後者が勝って、投稿のボタンをぽちっと押します。注意が散漫な方で思考が瞬時にまとまらない私にとって、書くという行為はやっぱり「助かります」。「話す」事しかない世界だったら、大縄跳びのようにずっと跳びそこない、モノも作れない私は、その世界では自分の思考は存在しなかったように終わっていくかもしれない。言葉を探したその時間が、ゆっくりと考えの塊を掘り起こし、書くことによって「確かに在った」ものとして自分の外に出す事ができます。
言葉に限らず、あらゆる表現に触れると、その表現が生まれるまでの時間を思って、存在に落とし込む事、その存在を通してなんらかのコミュニケーションが取れる事に、すごい、すごいよ!とリスペクトの気持ちが生まれます。励まされたり、自分の力のなさに落ち込んだり、共感して嬉しくなったりもします。一方、まだ「探している時間」の最中で、表には出ていないけど、それぞれの人の中に何かがきっと「在る」と考えると、まだ生み出されていない事は、別に一生、生み出されない事ではないんだと思えて、少しほっとします。
会話の中で「書くようなコミュニケーション」だなぁと嬉しくなる機会があります。テンポ良くはないかもしれないけど、投げかけた言葉に、少し時間が経って、返事をしてくれる。私も、投げてくれた言葉に、「さっきのことなんだけど」と見つけた言葉を話す。
言葉を探してくれていたんだと気づいたり、言葉を探す時間を待ってくれるんだと思うと、なんとも安心します。探したり、待つのは時間がかかる事だから、いつもがいつも、こういった会話はできな事も十分に理解しています。だからこそ、そんな時間を暮らしの中に見つけられると、嬉しいし、「ありがとう」と思います。
探す時間も、待つ時間も、表す時間も、全部が人生ですね。
はじめましての方も引き続き読んでくださっている方も、お読みいただきありがとうございます。今後も焦らずゆっくり続けていこうと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
店主 絢音