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暮らし日記23 浮かんだことをそのまま留める

こんにちは!雑貨屋 あるくらし 店主の絢音です。
雑貨屋 あるくらし は、「小さな発見と実験」をテーマに、暮らしのセレクト雑貨の販売とワークショップの主催をしています。現在店舗はなく、イベント出店から活動をスタートさせました。noteでは、お店の歩みや店主の暮らし日記・勉強メモを掲載しています。

寒暖差で緩む鼻をチューンとかんで、寒い寒いと暖房をつけ、湯たんぽに腹巻を引っ張り出す冬本番。寒い日の曇り空は鈍く薄暗く、知らずにどんよりとした気持ちになりますが、晴れた時は、ツンッとした透明感が美しく、背筋が伸びる気持ちになります。そんな凛とした天気が良い日、不意に思い出したことがありました。
恐らく小学生の頃、幼馴染の友人が話してくれた言葉と景色の事です。帰り道だったか、私か彼女の家の近くで遊んでた時か、彼女がふと「空が青くて山の輪郭がはっきり見える時、くっきりしすぎて山が偽物のように見えるよね。今日は嘘っぽいね。」そんなニュアンスのような発見を教えてくれました。言われてみれば確かに、限りなく本物に見える正確な絵が、景色に差し替えられているように思えるかもしれない。「本当だね」と話し、一緒に空と山の境界線を、ついでに建物と空の境界線もじぃっと見つめ、何が本物なのかこんがらがる、不思議な気持ちを味わいました。
20年くらい前の事で、夢だったのかな?とも思う、おぼろげな記憶が、今でも再生される。青空と並ぶ日常の風景を見つめ、偽物のようだね。と表現した、友人の当時の着眼点に感心しながら、「良い発見を教えてくれたな。」と、景色を見上げます。買い物に向かう自転車で視界に入る家やビル、電車を待つ駅のホームから見える山。ふとした瞬間、彼女の発見が、今も私の生活を面白くしてくれています。

今回のテーマは、浮かんだことをそのまま留める

天気の良い寒い日、坂を上って向かう畑への道。小学生の頃の友人の発言がふと蘇りました。

文章を読む事が、好きです。そう言い始めたのは20代後半になってから、比較的最近なんです。受験勉強と、課題図書くらいでしか文章を読んでこなかった学生時代。国語の成績が相対的にあまり良くなく、なんとか必要な点は取れるけど、不得意だな。読む事がきっと下手なんだ。という感覚だけがありました。自ら本を買い始めたのは大学生の頃。往復3時間以上かかる通学電車。時間つぶしにと、大学に併設されている小さな本屋さんで手にした1冊の本がきっかけでした。「思い出の味を探す」というテーマに惹かれ、通学電車で読んだその本。ずっと憧れていた京都が舞台で、食を中心に繰り広げられる、オムニバス形式のヒューマンストーリーは、当時の私に大ヒット。和歌山の田舎から大阪の大学に通い、定期券を駆使して京都へも片道三時間半。若さを全開に、日帰りで遊びに行く事も増えていた頃でした。本に描かれている場所が身近に感じられること、料理が得意な祖母にも本を貸し、一緒に感想を言っては2人でお腹がすくね。いつか京都で一緒にご飯を食べようね。と話すことも愛しい時間でした。(その後就職し、母と祖母と3人でこの時の本の思い出話をしながら、京都でご飯を食べました。)
そんな読書の駆け出し時代から、一層に本を読むようになったのは25歳以降です。生活の基盤が田舎だったそれまでの暮らし。駅やショッピングセンターに併設されている本屋さんくらいでしか本を手にしたことがありませんでした。大阪へと引っ越し、とある機会で知り合った友人達が、本やサブカルチャーに明るく、その縁のおかけで、“世の中には、こんなにも魅力的な本や本屋さんがあるのか!”とビックリしました。世界が開けた喜びで、気になる本を手に取り、気になる本屋さんに足を運ぶ事が、生活の一部に加わりました。手に取った本の巻末にある参考文献、本を紹介するポッドキャスト(ホントのコイズミさん/真夜中の読書会~おしゃべりな図書室~を良く拝聴しています。)、その時々の自分の気分をピタリと当てたような表紙やタイトルに惹きつけられ手にする本。手に取るまでの起点も様々になっていきました。書かれていた文章に影響され、その日のご飯の内容が決まったり。普段の暮らしと別世界の出来事が脳内で混ざり合い、ふと自分の価値観に気づいたり、過去の出来事が蘇り、当時の解釈が変化したり。「本」は見つけるまでも、読み進める途中も、その後の暮らしも、それまでの暮らしにはなかった、小さな変化を確実に起こしてくれています。

これまで多くの文章から、ずいぶんと生活の面白み、気づき、機会を貰ってきました。本はもちろんですが、ネットで見かけたちょっとした記事やSNSの言葉。小学生の頃の友人との何気ない会話。誰かが紡いだ「言葉」は、そこで留まらず、誰かの暮らしに続いていく。そんな言葉の力を感じてきました。
私が、noteをスタートさせたのは、「あるくらし」としても、何気ない暮らしの視点を共有して、もしそれで、どこかの誰かの暮らしに、何かちょっと変化を起こす事ができれば嬉しい。「あるくらし」の活動のひとつとして、「書く事」に挑戦してみたいと思ったからでした。
そうして「文章を書く」という事を不定期ですが、noteやフリーペーパーを通して2年ちょっと続けてきて、自分自身にビックリした事がありました。
自分の考えや自分が見た景色、自分が感じた感覚の言葉を探し、表現する事を、「純粋に楽しい。」と思えている事です。読む事だけじゃなくて、私は文章を書く事も好きなんだ。これは自分には意外な、そして嬉しい発見でした。「誰かの暮らしのちょっとした機会に」という目標を持ってスタートとした、あるくらし の活動のひとつとしての「書く事」でしたが、次第にその書くという行為自体も好きになっていて、だからこそ、「続けたい事」になっていたんだなと思ったんです。

何気なく写真を撮りたくなる畑。
この時期に咲くイチゴの花は春に向けて養分を蓄えるために摘んでしまいます。

ただ、「好き」という気持ちだけで、すらすらとは書けるわけではないし、まとめるのにも時間が掛かります。書き続けるためにも、もっと「書く事」に向き合っていきたい。そこで、まず試験的にトライしている事が「浮かんだことをそのまま書き留める」という事です。
どういう事かというと、頭で浮かんだことを、頭で綺麗な言葉に処理をしないで、まずは書きだし、修正は「書き起こされた文字」を見つめて向き合う。という方法です。「思った事を、まずは吐き出す」という作業は、良く耳にするし、それくらいできているんじゃないか?と思っていたのですが、この記事を書いている途中に読んでいた「思考の整理学」という本を頭に漂わせる中で、あれ?と気づきます。「自分はいままで、実は頭に浮かんだ事をさらに“頭で”考え、整えた「綺麗な状態の言葉」を文字として書いていたのかもしれない。」
「浮かんだことを書きだす」はまとめようとはせずに粗く出して、頭を一旦クリアにした状態で、目で文字を見つめ、「推敲」という作業を加えていくという事なのか、と思えたんです。これは大きな気づきでした。
思い返すと、自分が作った文章を前に、恰好悪い表現が並ぶと「なんでこんな陳腐な言葉しか浮かばないんだろう…相変わらず国語力ないなぁ…」と恥ずかしくなっていました。だからこそ、一生懸命まずは頭で考えて言葉を出してたんだなと気づきます。「綺麗にしてから」を頭の段階ではまず脇におき、本当にただ思った事(すごい/分からん/めっちゃ。等も頻発!)を文字として書き出す。そういう事を始めると、書く事へのハードルが少し低くなり、頭をすっきりさせてから推敲するのも良いもんだなとも気づきます。

そんなこんなで、今週は「浮かんだことをそのまま留める」が合言葉になっていた1週間でした。(まだまだ試験段階で、そうはいってもある程度綺麗にした方が、書きやすい…となるかもしれないけど!)

kofuku book&daily storeさんでクリスマスイブに見つけた本。
今年に入ってこちらのレシピ本で料理を作る日々が本当に楽しい(そして美味しい!)。

2025年に入って、文章を書く事が好きなんだと認めたように、料理を作る事も大好きだ!と素直に思うようになりました。ただただ作りたいから、いろんなものを夢中で作る。みたいな時間を、多く取れるようになったんです。少し肩の力が抜けたなぁと思います。好きと言い切るために、必要以上に課題感を感じながら、何かを証明するためのように取り組む時間が減り、今はもう少しナチュラルに、ただ単純に好きだから、ただ手が動く。のような事が少しずつ増えてきました。
生活をしていてふと「幸せだなぁ。」と思います。あと数日で30歳になる1月の下旬。まだまだ分からない事だらけだけど、自分に対して良い変化を感じています。

はじめましての方も引き続き読んでくださっている方も、お付き合いいただきありがとうございます。今後も焦らずゆっくり続けていこうと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

店主 絢音

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