境目としての上野(散歩記録)


神奈川の人間にはいまいちわからないが、上野は東北からやってくる人たちの玄関口である。

「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」(石川啄木)


上野駅を挟んで東西でかなりの標高差をみることができる。

こういう山裾のようなところには寺院仏閣が多い。神様(のような存在)のいる山と、俗の人間の住む土地の境目。

今日はエスニシティとしての側面をみてきた。

わかりやすいのはアメ横とアメ横センタービルである。中国系が最も多く、ビルの地下には中華スーパーがある。あのなんともいえない香辛料の香り。他所の中華スーパーは訪ねたことがあるが、ここはさらに強烈だった。

これは入口なので大したことないが、奥へ進むとどこの何肉かわからないものがある。そもそも客も店員も中国語で話しているので私はとても買い物などできなかった。

東上野へ行くと、コリアンタウンのブロックがある。突然現れるので驚くがこちらは日本客にも親しげであった。

そもそも上野は新宿などと同じく、第二次世界大戦の影響で戦後はまっさらな更地であり、生活のための闇市ができていた。当時は警察の取締よりも生活の維持が必死の混沌の時代。

現在のアメ横には、関西から来た第三外国人(要するに戦中強制的に日本に連れてこられた人たちで、GHQのもとでは日本の法律の外におかれてある程度優遇されていた)としての朝鮮人や、売春婦たちが集中していた。彼らは石鹸を売っていたため、仲御徒町の線路沿いは石鹸街と呼ばれていた。
続いて近藤マーケット(復員軍人や中国からの引揚者)がやってくる。彼らは朝鮮人たちを追い出し、朝鮮人たちは上記の東上野に移ったのだ。

このまちのごちゃごちゃは混沌のなかからうまれたのだ。

ここで「純喫茶 丘」でパフェを頂いた。甘くて甘くて食べきるのに必死になった。オレンジが入っていて美味しい。

写真縦にならないかな…


続いて御徒町へ向かう。
御徒町は日本一のジュエリータウンである。アメ横の途切れたところすぐ、目の前にジュエリーの看板が並ぶ。

以下に御徒町のホームページに記載されたものを貼り付ける。

御徒町付近は、上野寛永寺、浅草寺をはじめとし、数え切れないほどの寺社があったため、仏具や銀器の飾り職人も多く集まってきました。また、台東区には古くは浅草、吉原、柳橋、黒門町、湯島、根津など、域街、色街が多くあり、かんざし、帯留めなどの小物を納めるビジネスの拠点として便利だったことも理由のひとつにあげられます。明治の中頃になると、指輪を製作、加工する業者が増えました。やがて型を使用した量産技術が生まれ、宝飾品の街・御徒町のイメージをますます高めていきました。
第二次大戦後には、上野で米軍の兵士が時計やアクセサリーなどを売買しはじめました。この青空マーケットがやがてアメ横の母体になりました。上野や御徒町はアメ横のバックヤードとして修理と仲買機能を果たすとともに、戦後いち早く1964年(昭和39年)の春から時計・宝飾業者同士の交換会である「市」も行われるようになり、宝飾品取引の中心地としての地位を確立しました。また、1956年(昭和31年)に時計関連卸11社で結成した「仲御徒町問屋連盟」もきっかけのひとつです。


この当たりは地図を確認すると、通りの名前に「ダイヤモンドアベニュー」「ひすいアベニュー」「ルビーストリート」なんかがある。
ところでこの地での宝石業にはインド人が関わっている。ジャイナ教の信者たちは非常に厳しい戒律を守っており、商業しかできない。「嘘をついてはいけない」という戒律を守る彼らへの信用から、宝石商に就いているのだ。
詳しくは、飯島芽美(2018)「東京都台東区御徒町のインド人宝石商にみる徒弟制 ~トランスナショナルな継承~」がわかりやすい。ちなみにこの論文、卒論のようで大変に驚いているというかこのレベルまで自分は到達できるだろうか…本当にすごい。

どうでも良い話になるが、両親の婚約指輪か結婚指輪か知りませんがここで購入したそうな。


そのまま秋葉原~飯田橋~早稲田で歩いて帰ってきた。パフェを消化できてるといいな。

次は上野の北側、鶯谷と三河島へ行きたい。エスニシティには風俗街がつきもの。もうひとつのコリアンタウンも覗きたい。

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