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森見登美彦のマジックとリアル




1 はじめに

 森見登美彦という小説家をご存知でしょうか。小説を読んでいなくても、アニメを見たことがあるという方がいらっしゃるかもしれません。
 森見登美彦さんは2003年、京都大学の大学院生時代に書いた小説『太陽の塔』で日本ファンタジーノベル大賞を受賞、小説家デビューを果たしました。
 冒頭にも述べた通り、彼の小説にはアニメ化されている作品も多く、その点でエンタメ小説界の大変重要な存在だと言えるでしょう。基本的にはどの作品にもファンタジー要素が盛り込まれており、ストーリー性はもちろん、登場人物の会話や行動、さらに地の文の語りまで面白いという魅力溢れる小説家です。
 今まで小説を読んだことがない方にもおすすめの小説家ですので、今回は森見登美彦さんの小説が持つ魅力について書こうと思います。

2 森見登美彦のマジックとリアル

(1) マジック・リアリズム

 突然ですが、皆さんは「マジック・リアリズム」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。文学の技巧の一つで、大変興味深い表現方法ですのでここで紹介させていただきます。しかしながら、私の説明では説明が不十分となることが予想されますのでとある名著より引用させていただこうと思います。
 デイヴィッド・ロッジは「マジックリアリズム」について次のように述べました。 

 奇跡のような、ありえない出来事が、その他の面ではリアリズムを標榜している語りの中で起きる。マジックリアリズムは、特に現代ラテンアメリカ文学と結びつけられて考えられることの多い手法だが、ほかの大陸に住む作家たちの小説にもそれは見出される。

デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』柴田元幸・斉藤兆史訳

 森見さんがリアリズム小説家であるとは思いませんが、文体や舞台設定が非常に緻密でリアリティがあることは確かです。引用にもあるとおり「マジック・リアリズム」はその発現に社会的背景があり、厳密な定義のうちに森見小説が当てはまるかどうかはわかりませんが、私がここで言いたいのは、そのような「リアル」と「マジック=不可思議な現象」が共存することで生まれる魅力があるるということ、そして、森見さんの構築する世界にもその魅力が存在しているということです。
 では、実際どのように存在しているのかと申しますと、これもやはり実際の文章をご覧になる方が良いと思いますので、引用させていただきます。以下は『夜は短し歩けよ乙女』からの引用です。

 その繊細微妙な駆け引きが繰り広げられているところを、相変わらず高みの見物していた樋口さんが、ふいに後ろを振り返って「やあ李白翁が来た」と言いました。
 南へ目をやって、私は息をのみました。
 暗くて狭い先斗町の南から、背の高い電車のようなものが、燦然と光を放ちながらこちらへ向かってくるのです。それは叡山電車を積み重ねたような三階建の風変わりな乗り物で、屋上には竹藪が繁っているのが見えました。
 車体の角にはあちこちに洋燈が吊り下げられて、深紅に塗られた車体をきらきらと輝しています。色とりどりの吹き流しや、小さな鯉のぼり、銭湯の大きな暖簾などが、車体のわきで万国旗のようになびいているのも見えます。

森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』
『夜は短し歩けよ乙女』文庫版カバーイラストには、
電車のような建物の絵があります。

 こちらは夜の先斗町に3階建の電車が走ってくるというシーンですが、そもそも皆さんの中には「先斗町」と言われてもピンとこない方もいらっしゃるでしょうから、こちらに先斗町の写真を添付しておきます。

昼下がりの先斗町

 こちらは私が撮影した先斗町の写真です。ご覧いただければわかるとおり、人がすれ違うのもやや難儀するような狭い通りでありまして、ここを3階建の電車のようなものが通ることなどあり得ないことです。しかし、あるいはあり得たかもしれない。とそのように思える、思いたくなるのは恐らく、その描写が妙にリアルだからに他なりません。人気のない夜更けの先斗町、叡山電車を重ねたような建物云々、描写がとても細かい。見てもいないのにここまで精緻に描写できるものかと思えてくるのです。
 ファンタジーな物語には、一歩間違えば、ただただ荒唐無稽な、ナンセンスな世界が形成されてしまう恐れがありますが、森見さんの創る世界はリアリティがある。そこには様々な要因がありますが、その一つに京都という実在する街を舞台にしていることが挙げられます。さらに「京都」よりもう一つ深いところの「鴨川」「高瀬川」「先斗町」「四条河原町」「叡山電車」といった固有名詞を随所に散りばめているのもポイントです。登場する場所は、調べればいくらでも写真が出てくる上に実際に訪れることもできます。その場所で、見たこともないような現象(マジック)が起こる。そうしてリアルなファンタジー世界は作られるのです。

(2) 語彙と文章のリズム

 前章では、ファンタジーな世界を構築するにあたり、舞台設定がそのリアリティの担保になっていることを説明しました。しかし、舞台設定のみではリアルとファンタジーを共存させるのは難しい。当たり前のことを言いますが、小説は文学ですから、物語の鮮明さは文章力によって左右されます。文章力がなければボヤけた物語世界になってしまいます。優れた文章であること、それ自体がリアリティを生むのです。そこで、この章では、森見さんの文章の作り方についてお話ししようと思います。
 前章で紹介した引用部分が素晴らしい例ですので、読んでみて欲しいのですが、彼の文章には何というか、「遊び心」があります。言葉遊びのように文章を組み立て、難しい言い回しもありますが、その言葉たち自体がリズムを作っているのです。実際に文章を見てみましょう。

 大学三回生の春までの二年間、実益のあることなど何一つしていないことを断言しておこう。異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など、社会的有為の人材となるための布石の数々をことごとくはずし、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの打たんでも良い布石を狙い澄まして打ちまくってきたのは、なにゆえであるか。

責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。

森見登美彦『四畳半神話大系』より

 こちらはアニメ化もされた人気小説、『四畳半神話大系』の冒頭の一節です。主人公でもある語り手によるこの冒頭の語りは、まさしく森見登美彦的であると言えるでしょう。「異性との健全な交際」「学問への精進」「肉体の鍛錬」「異性からの孤立」「学問の放棄」「肉体の衰弱化」という「〜の〜」という名詞形を連続して用いることで文章全体に声に出したくなるようなリズムの良さを生み出しています。
 このような言葉のリズムと巧みなワードチョイスは森見さんの大きな魅力の一つと言えるでしょう。読んでいて気持ちのいい文章のリズムと前章でも触れた非常に精緻な描写によってリアリティが増し、我々読者を不思議な日常に惹き込むのです。

(3) キャラクターの想像可能性

 小説におけるビジュアルはとても重要なものです。現実に生きる我々がフィクションの世界に釘付けになるのは、フィクションという虚構の中にリアルを見出すからであり、そのリアルを生み出すためには想像可能な描写が必要だからです。
 映画やアニメと違い、直接的にビジュアルを表現できない小説という媒体では、いかに文章でもって視覚の代わりを成すかが非常に重要なのです。その中で森見登美彦さんの小説は、幾つも映像化されているという点で十分わかるのですが、豊かな人物描写に優れています。

 夢をなくしちまった男、飾磨大輝について記す。彼とは某体育会系クラブに入った時からの付き合いである。この手記の冒頭において、我々は男だけの妄想と思索によってさらなる高みを目指して日々精進を重ねたと記したが、その絶望のダンスの最先端をひた走っていたのが、この飾磨大輝であった。
(中略)
 彼は私立高校出身、孤高の法学部生であった。つねに法律書を抱えて百万遍界隈をうろうろし、知的鍛錬に余念がなく、「むささび・もま事件」など風変わりな名前の判例について滔々と語った。

森見登美彦『太陽の塔』

 小津は私と同級生である。工学部で電気電子工学科に所属するにもかかわらず、電気も電子も工学も嫌いである。一回生が終わった時点での取得単位および成績は恐るべき低空飛行であり、果たして大学に在籍している意味があるのかと危ぶまれた。しかし本人はどこ吹く風であった。
 野菜嫌いで即席ものばかり食べているから、なんだか月の裏側から来た人のような顔色をしていて甚だ不気味だ。夜道で出会えば、十人中八人が妖怪と間違う。残りの二人は妖怪である。弱者に鞭打ち、強者にへつらい、わがままであり、傲慢であり、怠惰であり、天の邪鬼であり、勉強をせず、誇りのかけらもなく、他人の不幸をおかずにして飯が三杯喰える。およそ褒めるべきところが一つもない。もし彼と出会わなければ、きっと私の魂はもっと清らかであっただろう。

森見登美彦『四畳半神話大系』

 続けて2つ引用しました。いかがでしょうか。『太陽の塔』における飾磨も、『四畳半神話大系』における小津も、実在しているかのような緻密なキャラクター設定がなされていることがわかると思います。ここまでキャラクターを描き切る小説は、私が触れてきた作品の中でも珍しいように思えます。例えば、ミステリー要素を持たせた小説では、序盤で人物像をあえてぼやけさせ、物語の進展とともに明らかにすることで物語に展開を作ることができます。またそれまで見えてこなかった一面が物語の後半になって明らかになることで、キャラクターへの感情移入を促せます。そのような効果を狙って、キャラクターを描き過ぎないことは一つの技巧として非常に便利で有用です。
 もちろん、森見さんの小説にも、あえてブラーのかかったキャラクターはいます。『太陽の塔』の水尾さん、『四畳半神話大系』の明石さんが好例です。森見さんはむしろ、このように人物描写の差別化を行うことで、飾磨や小津には「仲間意識」を、水尾さんや明石さんには「好奇心」を持ちやすくしているとも言えるでしょう。読者である我々は、飾磨や小津と肩を組んで、ヒロインたちを羨望の眼差しで見つめることになる。そうすると、まるで不可思議な世界で生きる彼らの仲間になったような気持ちになります。キャラクターを細かく描写することの意義がここに見出せるのではないでしょうか。

3 お終いに

 既知に富んでいて不可思議な世界、俯瞰的に眺めるより登場人物たちの輪に加わりたくなるような物語を描く森見登美彦さん。その作品は、純粋に多くの方に楽しんでもらえるのはもちろんですが、文学作品として技巧や文体を味わうにも飽きることのない魅力を持っています。
 小説に馴染みのない方も、森見さんの小説であれば飽きることなく最後まで読み通すことができるはずです。そして、読み終わった後には次の作品を手に取り、新幹線に乗って京都へ足を伸ばしているかも…
 冒頭でも述べた通り、映像化している作品も多数ありますので、そちらも是非みてみてください。アニメーションが森見登美彦ワールドによく合っています。

 京都は千年の都と言われるように、文化や歴史が深く、妖怪などの都市伝説も多い地域です。森見さんのファンタジー世界は京都の街で過ごしてきたことが素地となって生まれたのかもしれません。私も京都に住んでいたことがありますので、京都という街に焦点を当てた記事もいずれ書きたいと思います。

 最後まで読んでいただきありがとうございました。次回も文学作品について取り上げようと思いますのでぜひご覧ください。文学の芸術性と娯楽性とどちらも大切にしながら、私の文章を通して、より皆さんが文学作品を楽しめるようになれば幸いです。
 読み方、解釈は十人十色ですので、参考までに読んでいただければ幸甚です。それでは、また。


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