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街・そんな日 写真で「無意味」とか「無価値」とかいうことについて考えています。

大げさな言い方になりますが、人間は「無意味」なことは嫌な生き物ですから、数限りない「意味」を創造することを繰り返しています。「無意味」なことはどうでもいいことですが、どうでもいいことは価値がないので嫌なのです。子供ですら親に「それ、どういう意味?」と聞いてきます。

でも、写真するに関してはどうでもいいことを撮るほうが面白くなると思っています。「価値!価値!価値!」とカチカチの息苦しい世界から離れて無価値を楽しむというのでしょうか。

美しい被写体そのものには写真ではかないません。綺麗な景色は全身で味わうものだと思います。大切なその人は、どうしても写真でなければならない時以外は本人がそばにいてくれるに越したことはありません。写真に過大な価値を追いかけなくてもいいように思います。「被写体を超えるんだ!」みたいなことですね。

そうはいうものの「つまらない」ものを「つまらなく」撮るのはとても難しいです。逆に、ありふれた日常を写真に撮ると「非日常感」「特別感」が出てきます。フレーミングには美化作用があるので、写真に撮ること自体が
「つまらないもの」を「つまらなくないもの」にしてしまいます。「つまらなく」感じていた日常が輝いて見えてきます。「日常を撮るんだ!」と気負うことで日常がよそ行きになるというと変でしょうか。

日常のプライベートな記録としてはそれがいいのかもしれませんが、他者に見せる前提の写真として楽しむには、そこから離れて「つまらないかもしれないもの」も、ただ撮るだけでいいのではないでしょうか。写真はつまらないものを撮ってもいいのです。つまらないものをつまらないままに撮るのは結構難しいのですから、それを楽しむということですね。

カメラを持って出かけた時、あえて「それを撮る意味」「それを撮る価値」を考えなくてシャッターを切ってもいいと思っています。意味は後から考えても遅くないのですから。写真を撮ること自体に価値があると思えばいいのですから。

「輝け!輝け!」「輝かなければ無意味だ!」という、価値!価値!の重苦しい世界の中で「無価値であること」の安らぎみたいなものを写真で楽しんでもいいのでは、と思っています。そのようにして撮られた写真のほうが、むしろ普遍性を持つのではないでしょうか。

           (2024年11月上旬・大阪市、グラングリーン大阪)

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