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読みかじります。

 手元に『「江戸学」のすすめ』~貝原益軒の『慎思録』を読む~(久須本文雄 著/佼成出版社)がある。1年ほど前にネットで購入した記録があるが、自分がどうやってこの本に辿り着いたかは、もう忘れてしまった。何か人生の規範になるようなものを、心の支えに欲しかったからだと思う。

 貝原益軒の『慎思録』834条のうち248条についての抄訳として書かれており、その序の中で、タイトル「慎思」の由来に言及した箇所について、”これは「思」の肝要なることを述べたもの”とあった。
 「思」で連想するのは、、、、

「我思う、故に我在り」
世の中のすべてのものの存在を疑ったとしても、それを疑っている自分自身の存在だけは疑うことができない、ということ。

[使用例] 私が死んでも人々は知らん顔して生きているのだ。この故に私の死は愚劣になる。デカルトは「我思う故に我在り」と言ったが、実は「他人思う故に我在り」の方が本当なのだ[北条民雄*柊の垣のうちから|1938]

[由来] 一六~一七世紀のフランスの哲学者、デカルトが、著書方法序説」の中で用いたことばから。「私は考える、だからこそ、私は存在する」という意味で、近代的な合理論の出発点となった命題だとされています。ラテン語訳のCogito, ergo sum(コジト・エルゴ・スム)でも有名です。

英語〕I think, therefore I am.

出典「故事成語を知る辞典」

 デカルトの命題と、読みかけの構造主義で述べられている「自己」とは解釈が違うように思うが、真理はきっとどこかでつながるのではないか。私にとっての謎の発見。

 どうやって攻めたらよいのか。学の浅い私は、読みかじるしかないのです。