花嫁の飛翔 1
【1496年9月15日】
どこかで小鳥たちが啼いていた。
その囀りに目を覚まされたフアナは、自分はどこにいるのだろうと思った。それほど深い深い眠りの底から浮かび上がってきたのだ。
おかげで、これまでの長い旅で溜まりにたまっていた疲労や精神的重圧がとれ、ちょうど雨が大気の汚れを洗い流してくれた後のように、心身共に清く澄んでいるのを感じた。
…長い旅?
そう、彼女は母から離れて海を渡ってここまできたのだった。
色とりどりの旗に彩られた膨大な数の船、その中心にいて常にヒロインとしての役割を演じ続けなければならなかった日々。大嵐の荒波に翻弄されながらも、決して不安や恐れを表に出さずに一人耐えきったし、まるで海賊のように無骨な英国貴族や商人たちとも品位と威厳とを失わずに接しおおせることができた。そして…。
そして、無事フランダースの港にたどり着いたものの、嫁ぎ先のブルゴーニュ家からは誰一人として迎える人は来ておらず、アントウェルペンの港町で待とうとはしたものの、とてもじゃないけど気が休まる暇もない街の空気。
聖母教会の司教の勧めと仲介でリールの聖グラマス教会Saint Gummarus Churchに移動して、そこで公家からの連絡を待つことに。
その移動というのがまた一大事。沿道という沿道には、歓迎というよりはむしろ物見遊山の野次馬といった趣の人々が押しかけ、途中の町々や村々に入るたびに、町長や村長をはじめとする地元の名士たちの出迎え。
だが、彼女はすべての民衆を我が民として尊重し、愛想よく応対してきた。途中の街道では用意された馬車を利用しはしたものの、人々が群れ集まっているようなところでは、必ず馬車を降りて、あの麗々しく飾り付けが施されたラバに横座りで乗って、民衆の喚声にこたえたものだった。
そうしてリールに着いたときには、もう日が暮れかけていた。
確かにリールはアントウェルペンとは違って落ち着いた静かな町だった。
なかでも、ここベギン会修道院Béguinage de Lierはまるで別世界だった。広々とした敷地、そこに建てられた礼拝堂や施療院、縦横に走る小径に沿って並ぶ居住家屋、そこはまさに一つの独立した街でもあった。
当初世話になるはずだった聖グラマス教会ではなく、この修道院に滞在するよう手配してくれたのは、オソリオ司教Bishop Osorioだった。
彼は役職上は使節団長だったが、イサベル女王から娘フアナの魂を護ることを最優先するようにと命じられていた。それだけに、今度こそアントワープの二の舞にならぬようにと、行列に先立ってリールへと下調べに赴いたのだ。
彼はまず聖グラマス教会の司祭たちに意見を聞いてみた。フアナの人となりを聞いた彼らは、それならここよりももベギネージュの方がふさわしいのではないかと示唆してくれた。そこで当のベギン会修道院の尼僧院長に打診してみたところ、一も二もなく歓迎の意を表してくれたのだった。
ただし、ここは正確には修道院ではなかった。
ベギン Begijn と呼ばれる半聖半俗の女性たちが慎ましやかな信仰生活を送る、一種のコミュニティーであり、地元ではベギンホフBegijnhof、つまり文字通りには「ベギンの園」と呼ばれていた。