花嫁の飛翔 6
「御身を目の当たりにした我が民たちは、こぞって御身の美しさを絶賛しているとのこと」と、フェリペは書いている。「なのに、我が身ひとつが、御身の美しさを、はるか遠いこのチロルの地にて耳にするばかり。そしてまだ見ぬ異国の王女の幻に心を焦がし身を焦がす切なさよ」
或る意味、それは恋の常套句を巧みに編んだだけの空想的な恋文紛いa quasi-love letterに過ぎなかった。しかも、ほとんどの表現は彼お抱えの宮廷詩人の下書きを借りたものだった。
だが、深窓に生まれ育ち、その手のことにはまったく未経験で未熟だった彼女には、それだけでも恋の炎を燃え上がらせるに十分すぎるほどだった。
フアナは、その脇に便箋を置いて返事を書き始めた。
【1496年9月25日】
その日は、午後から雨模様だった。
雨は次第に激しくなり、暗くなるころには土砂降りになっていた。
ベギンたちは早めに仕事を切り上げ、院長の指示で門もいつもより少し早く閉めた。その頃にはもはや外部の人たちはいなかったし、これより遅くなってから来るような者はいそうになかったからだ。
ところが、それから間もなくして、突然、門の外が騒がしくなった。男たちが大声で何か言っているのだが、雨の音が激しすぎてよく聞こえない。不安や恐怖にフリーズしているベギンたちをよそに、院長は気丈にも一人で門まで様子を見に出向いていった。
「ですから、何度も申し上げているように、殿方はもう…」門番が、外の者たちに向かって必死で抗弁している。「ダメです。ダメでございます。たとえ…」
「よろしい」院長が、門番に背後から声をかける。「後は私が引き受けますので、あなたは宿舎に戻ってお休みなさい」
「は、はい…」門番は怪訝そうに首をかしげながら立ち去ってゆく。
「どうぞ、お静かに」院長は門を小さく開け、外の者たちに向かって言う。「ひょっとして、フェリペ様のご使者でしょうか?」
「なにをたわけたことを!」馬上の騎士が叱りつけるように言う。「フェリペ公ご自身なるぞ!」
「それはそれは」院長は悪びれず答える。「どうも御見逸れいたしました。でも、どうしてもベギンホフにお入りになりたいのでしたら、どうぞお静かに」
「わかりました」大騒ぎしていた騎士を制して、主が進み出てくる。「三日三晩、早馬を乗り継いで参った故、つい気が立っておりました。どうぞお許しください」
ひらりと降り立ったその姿は、すらりと背が高く、濡れそぼった金髪が美しく渦巻く美青年。さしもの院長も一瞬、ひとりの女に戻りそうになったほどだった。
「フアナ王女は、まだこちらにご滞在ですね?」フェリペは穏やかに訊ねる。「我が花嫁となるべきひとに一刻も早くお会いしたい」
「はい、いらっしゃいます」院長は、門を少し開いてフェリペを招じ入れる。「王子様だけどうぞ。従者の方々は御遠慮願います」
「いかにも」フェリペは配下の者たちを振り向き、追い払うようなしぐさをする。「それぞれ宿をとって休むがよい。迎えは明日の朝、いや、昼前でよい」
従者たちは一礼して退散してゆく。
「姫はどこです?」フェリペはせっつくように言う。
「王子様、お焦りにならないで」母親のような口調だった。「それより濡れ鼠のままでお会いになられます? お二人とも風邪を召されることになりますよ」
「それもそうですね」フェリペは、院長の巧みな示唆に明るい笑い声をたてる。「しかし、着替えももっていないし…」
「間に合わせのお着換えでよければ、なんとかご用意できます」院長は小さくうなずく。「ただ、そのようなお姿で王女様にお会いになるわけにもまいりませんでしょうから、御着物は暖炉の部屋で乾かされてはいかがでしょう?」