花嫁の飛翔 5
実際のところ、フアナはカトリック両王の一男三女のなかでは一人浮き上がったような存在だった。子煩悩な父のフェルナンドも、次女のフアナだけは取り扱いに困っていたようだ。
フアナ自身、そのことに気づいてはいたが、たた父から疎まれている寂しさを覚えるばかりで、その理由はよくわからなかった。だが、昨日の瞑想会のあとに声をかけてきたうら若いベギンの言葉から、ひょっとして父は自分がこの世とあの世の境目に生きている女だということを直感的に察しているのではないかと思うようになった。
フアナは、そんなことまでマルガレーテに語る自分が不思議でならなかった。一歳だけだが年上のマルガレーテが、とても聞き上手だったこともあるかもしれない。生れてこの方、フアナはこんなになんでも打ち解けて話せる相手に出会ったことがなかった。
マルガレーテの褐色の大きな瞳は、ひとの心を温かく包み込みながら、そのずっと奥まで見通すような深みをもっていた。
【1496年9月18日】
ベギン会の一日は、ミサから始まる。
そのあとは、それぞれの日課へと入ってゆく。生活のたつきのためにレース編みにいそしむ者たちもいれば、フランドル特産の織物工場に出稼ぎに出掛けてゆく者たちもいた。
フアナの場合は、良家の子女たちが集まる学習会に参加することが日課になっていた。とりあえずラテン語による神学勉強会に出席してみたが、フランス語勉強会もあると知って、そちらにも参加することにした。
両親のもとにいたころ、教育係のペドロ ・マルティル・デ・アングレリーア Pedro Mártir de Angleríaからラテン語などを学ぶ傍ら、フランス語の手ほどきを受けていたのだ。そのおかげで、彼女のフランス語の能力は急速に上達していった。
「奇跡だわ!C'est un miracle! 」と教師役の中年のベギンが感嘆した。「信じられない!Je ne peux pas le croire!」
「なにが信じられないって?Qu'est-ce que tu ne peux pas croire?」と、冗談っぽく言いながら院長が部屋に入ってきた。「あなたにお手紙が届いていますよ、奇跡の女性さん。Vous avez reçu une lettre, Femme miracle.」
フアナは小首をかしげながらそれを受け取り、開いてみた。そのとたん、彼女の顔がぱあっと明るくなり、頬が染まるのを、一緒にフランス語を学んでいるフランドル娘たちは見逃さなかった。
そう、それはまさにフアナの夫となるフェリペからの手紙だった。あらかた事情を知る彼女たちは、目くばせしあいながらヒロインの横顔を伺い見ていた。
一方、フアナ自身はそんな熱い視線の数々など気づいてもいないふうで、ひたすら夢中で手紙を読んでいる。あまつさえ、息を弾ませながら何度もそれ読み返した挙句、「ああ、神様!Oh, mon Dieu!」と嘆息しつつ天井を仰ぎ、手紙を胸に抱きしめたのだった。
だが、ふと我に返って辺りを見回し、みんなが祝福の笑顔で自分を見つめていることに気づいたとたん顔を真っ赤にして一礼し、慌てて部屋から出て行った。
「王女様」先に部屋を出てドア脇に立っていた院長がささやいた。「ご返事をお書きになりたければ、どうぞ。使いの方はまだこちらでご休憩なさっていますから」
「はい!」フアナは急ぎ足で自室に戻っていった。
テーブルの上にフェリペからの手紙を広げ、改めて読み返した。これは現実なのだろうか? 恋文なんて、騎士物語のなかの道具立てでしかないとばかり思っていたのに…。
そう、それは王侯貴族の間で交わされる儀礼的な書簡などではなく、紛うことなき恋文だった。まだ一度もあったこともないというのに、その文面には優しさと同時に恋する男の情熱があふれていた。
その内容からすると、彼はまだ妹マルガレーテが派遣した使者が携える親書そのものは受け取ってはおらず、フアナ一行の到着のことは配下の者たちからの直接の報せで知ったようだった。