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YAU × サッポロ・パラレル・ミュージアム エクスチェンジプログラム――交差なき通過/漸近の身振りによせて

2023年10月、YAU STUDIOが拠点としていた有楽町ビルは大丸有エリアの再開発に伴う閉館を迎え、YAUははじめての移転を経験した。有楽町ビル10Fから国際ビル7Fへ。アートが持つ創造力を都市にどう取り入れていくべきかを議論し実践しているYAUはゆっくりと、しかし確実に進行している再開発の中で、さまざまな場所の可能性とあり方を引き続き探求している。

2022年より開催している、「サッポロ・パラレル・ミュージアム」とのエクスチェンジが今年も実施され、今回は東京から三野新・山本卓卓が、札幌から小林知世が滞在制作を行った。

本レポートはそれぞれの作品がどのように周囲の空間や時間と関わりながら制作されたのかを追っていく。異なる街での展示を連続して鑑賞してきた、アーティストの山川陸がレポートする。

▼前回の実施記録はこちら

写真=小山泰介・三野新・GC Magazine


札幌、地下一階、チ・カ・ホの白い壁

冬は一日約12万人が通行する札幌駅前通地下歩行空間――通称「チ・カ・ホ」に、高さ2.8m、長さ36mは続く白い養生シートの細かな波打ちがきらめいた。その頭上10m、札幌の街は雪に覆われている。歩道と車道を隔てる雪の壁の厚さに、繰り返される冬の厳しさを見る。しんしんという音すら聞こえない、自分の歩く音も吸い込まれるような白い街がチ・カ・ホの上にあることを、足早に通り過ぎる人たちはよく知っている。そして、同時に見えることはないあの白い厚みを、シートのきらめきの向こうに見るかもしれない。

白いシートの手前には、ターポリンに印刷されたザラついた大きな写真が、オレンジの工事用ネットが、額装された写真が、顔ハメパネルが……並んでいる。黄色くツヤツヤとした太いテプラに書かれたテキストは、最初左から右へと横書きに書かれていると思われるが、途中から縦書きのテキストも少し下に現れる。白い壁の右端まで行ききると、テキストは折り返し先ほど通った場所を、目線を下げて横切り直すことになる。

アーティストの三野新、劇作家の山本卓卓の初めての共同制作*1となる《ここにたつ》は、チ・カ・ホの壁の向こうに存在している/いた(かもしれない)北海道ビルヂングをモチーフとした戯曲の、上演としてのインスタレーション作品だ。自身も戯曲の執筆~上演を行う三野*2が、山本の執筆した戯曲を展示として演出した、とも言う。デザイナーのおおつきしゅうとがこの空間に対して文字組を行い*3、写真家の小山泰介はディレクターとして関わり始めたが、その過程でドラマトゥルクと呼ばれるようになった。本作を巡っては、担ったことと役割とその名称が折り重なっている。

*1 この共同制作は、YAU STUDIOの運営に入る、パフォーミングアーツのマネジメントを行うベンチと、写真家のコレクティブTOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCHがそれぞれ作家を推薦しあって実現した。YAUにとっても、分野を横断した共同制作を行うことは初めての機会であった。

*2 三野は自身が主宰するニカサンという団体で演劇の公演をたびたびおこなっている。近年は三野本人によるソロパフォーマンス《息をする》や、写真集を戯曲として取り扱いページをめくる行為を上演とする《クバへ、クバから》など、発表形式は多岐に渡る。写真家/劇作家という肩書からも分かるように形式を横断した作品制作を一貫して行っているが、戯曲や上演といった舞台芸術の形式に思考のベースを置いていることが特徴と言える。

*3 作品制作の進行に伴い、グラフィックデザイナーの参加を小山が提案したそうだ。YAU OPEN STUDIO '24内のトーク企画「小林知世+三野新+山本卓卓『協働制作の可能性について〜サッポロ・パラレル・ミュージアムを例に』」(2024年3月8日開催)において、山本はおおつきについて「出演者と呼んでいた」と説明している。

山本の書いた*4「昔々このシートのむこう側に⼤きなビルヂングがありました。ビルヂングは2962年に建てられました」というテキストの始まりは、2文目で2024年の私の出鼻をくじく。すでに視野に入り始めたモノクロの写真は1962年のものに見えるし、旅行で来た私でなく、ここチ・カ・ホをずっと行き来してきた市民なら、壁の向こうに北海道ビルヂングがずっとあることを知っている。テキストを目で追いながら、(閉館し、取り壊しを待つものの)まだここにたっているもののことが想像される。

*4 本作品の戯曲は以下より閲覧が可能。https://drive.google.com/file/d/1YvQDuaOlDveNfb9hMKri3jOhTHUpipSj/view?usp=share_link

テキストを追ううちに、ビルだけでなくここチ・カ・ホも登場し、ついには日本列島*5も現れる。しかし、出鼻をくじかれた後も読み進めることを可能にするのもテキストなのだ。テキストを読み進めるために歩いているというよりも、チ・カ・ホを通過する勢いがテキストを読むことを推し進めていく。

*5 日本列島は大きな柱体にネットやシートがぐるぐると巻き込まれた状態で現れる

三野は「ここにどうしたら作品がいられるのかを考えていた」と言い、山本もまた「都市には様々な状態の人がいて、その中に作品がどう現れることができるのか」と語った*6。設営はほとんど一日で行われた。終盤、黄色いテプラでテキストが貼られていくと、「帰りに読もう~」と言いながら通り過ぎる人、「2962年」について質問してくる人、読み上げながら歩みを遅らせてる人がいたそうだ。地上の工事の仮囲いにも、写真とテキストが飛び出している。それらはテプラと同じように読み上げられただろうか?

*6 *3の引用元となるトークにて。以降、文中・注釈での関係者の発言は同トークからの引用。

地下にいながら、同時に地上を伺い知ることはできないが、チ・カ・ホから白い壁がなくなり、地上から積もった雪が消え、北海道ビルヂングが姿を消していく間も仮囲いが残り続けることは分かっている。地下から地上へ出る人の中に、2024年2月はじめのチ・カ・ホのことを思い出す人もいるかもしれない。

作品は大勢に通過されたが、それが読まれることを待っていると気づいた人は目で追い(口に出し)読み上げる。歩みを進めて通過していくことに変わりはないが、隔てる白い壁の向こうを思うことが、少し可能になる。向こうには通過されるものがある。遠巻きではなく、少し近づくことが、テキストに促される。近づかないと、言葉は読めない。

東京、地上七階、YAU STUDIOの白い壁

その札幌で生まれ育ち、現在も札幌を制作・生活の拠点とするアーティストの小林知世がYAU STUDIOで滞在制作を開始したのはチ・カ・ホから《ここにたつ》が撤収された2月も終わりの頃だった。YAU STUDIOの入る国際ビルは皇居に面した立地で、有楽町駅と東京駅のどちらからもほど近い。

小林は東京で過ごすにあたって「複数の立場の人としてどのようにここにいられるんだろう」と述べつつ、「蛍光灯消してていいですか、といったことから話し始めるうちに、意外といて大丈夫だと感じた」と述べている。滞在制作の様子を見ていた小山も「打ち合わせの喧噪の中で、重さの変わった空間があり」「街には本来設定されていなかったスピードを感じた」と語った。

小林のオープンスタジオは、制作をしていた一角をそのまま会場としていた。白壁には小さな紙片に書き留められたドローイングやテキストが貼られている。YAU STUDIOや街で聞こえてきた会話や、気になった様子、小林がふと思ったことなど、たくさんの言葉が断片のまま撒かれている。よく見ると、壁に直接描かれた淡い色彩や輪郭のドローイングもある。小さなものを見るサポートのように虫眼鏡も設置されているが、ライティングの効果で、目の前のものを見ようとすると自分の影で暗くなってしまう。*7

*7 展示壁の裏には防音/収納のために設けられた幅60cmにも満たない空間も小林は展示空間としていた。細長い空間の先をスポットライトが照らしており、スツールの上には折り紙のように折り目のついた紙片があり、折り目で分かれた各面に異なるテキストたドローイングが描かれていた。ここでは一人で、自分の影に邪魔されることもなく、書き留められた言葉をよく読むことができる。

それぞれのテキストは戯曲のように、内容に順序や前後関係のあるものではない。紙片ごとに完結していると言えるが、手書きの文字はそのどれもが小林ひとりの経験の上に並んでいる/いたことを示している。わざわざ指摘するまでもなく、人の経験はその人一人のタイムラインの上に並んだもので、その並びを担保するのはその人だけだ。フリースクールや就労支援B型施設で働く小林は、札幌にも戻りながら滞在制作を続けた。

そして、有楽町で障害福祉に関わる企業を訪ねたり、道を挟んで向かい合う皇居の橋の下に生息するというコウモリについて調べ回った。札幌との行き来も東京の滞在も、すべてが一連の経験であることは、移動をともにしたブランケット(祖母が作ったという)と冬の間刺繍を続ける一枚の布にも現れている。東京にいる間だけが、滞在制作期間だったのではない。

オープンスタジオ中も、小林はブランケットの上に座り込み、刺繍を続けていた。YAU STUDIOではいつものように仕事をする人がいる。だがここでは、作品が鑑賞者に通過されるだけではなく、作品が・作家が・制作行為が鑑賞者を通過していく。小林がそこにいることの、彼女自身の連続性こそが前景化するからだ。私たちは通過し合っているのだとまず気づく。そして、虫眼鏡と自分の影と壁に貼られた物との間で、身を近づける。

photo: GC Magazine

白い壁を通り過ぎてみて

そういえば、パラレル・ミュージアムの「パラレル」を気にしていたと、YAUから札幌へ向かった面々は語る。二人の作家、二つのビル、真上と真下、地上と地下……。チ・カ・ホを行く人々も、有楽町を歩く人々も、立ち並ぶ建物も、様々の生き物も、それぞれの動きを持つ。「パラレル」とは、同時に存在するものがあることを前提とする。交差することなく、かわし合いながら通過し合う他者なるもの。エクスチェンジでそれぞれの拠点を訪れた二者もまた、(トークで各々発言はしたものの)作品制作において直接の遭遇はしていない。それぞれ通過しあったということだ。

人同士が通過しあったこともあれば、互いのいる街を通過しあったこともある。そのなかで両者がしたのは、壁へと近づき、よく見ることを促すものだった。よく見ることは、よく読むことに繋がり、よく聞くことでもある。通過しあう私たちだが、少しは近づくことができるはずだ。*8

*8 どんな展示も作品も、鑑賞者(になることを意識的にせよ無意識にせよ決めた人)にそのような身振りを要請する。しかし、どの展示でも起きている(とされている)ことこそ、改めて問われる意味がある。通過しあう他者への想像が鑑賞の身振りを通じて喚起されること、その喚起を持続的なものにするための展示の手つきに、私は各作家の技術を感じた。二者の展示はそれぞれに論じられるべきだが、今回はエクスチェンジの一連の報告として書かせて頂いた。個々の作品が詳細に論じられる機会のあることに期待したい。

こうした漸近の身振りの生まれる可能性に賭けた人が、アーティストの他にいたことを覚えておきたい。

このエクスチェンジにおいて、YAUの東海林慎太郎と山本さくらは、両者の滞在制作に関わるマネジメントを担っている。小林は「東京へ行く前から、今回どうしようかと東海林さんとよく話せてよかった」と語っているし、山本は札幌と東京の二拠点生活を送りながら現地コーディネーターとしても振舞った。

本企画はYAUとパラレル・ミュージアムの共同開催によるものだが、特に《ここにたつ》においては三菱地所 北海道支店および札幌駅前通まちづくり株式会社の協力が大きい。このことは、わざわざ言及するまでもないことだろうか? YAU STUDIOにせよ、チ・カ・ホにせよ、場所を借りる権利を得ただけで、そこに居られるわけではない。ここにたつとは? 私がここにいるとは? と問うための、安心・安全を確保したのが東海林と山本だと言える。そこにいることについて考えるためにまずそこにいようとする、ということを可能にするのは、アートマネージャーやコーディネーターの存在だ。無論それは、アーティストに対する一方的なサービスということはなく、信頼関係の構築と並行して起きたことだ。

だから、通過し合う他者の発見を促す二つの展示のあり方は、場所との応答関係であるだけでなく、アーティストが制作の過程でアートマネージャーと交わしたものの成果である、とも思いたい。小林のプロフィールに添えられたマネージャー陣の手書きの文章が、ただの心温まる演出でないのは明らかだった。書かれたタイミングの異なる言葉に、遅れてやってきた私は、近づいてみる。



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