ここにあるのが正しいから、ここにあってほしい——YAU SALON vol.21「街の中の私たちを再考する 05_報告とディスカッション」
2024年2月14日夜、YAU STUDIOにて、YAU SALON vol.21「街の中の私たちを再考する 05_報告とディスカッション」が開催された。
「YAU SALON」は、毎回都市とアートにまつわるテーマを設定し、参加者と意見を交わすトークシリーズ。21回目を迎える今回は、「街の中で制作すること」をテーマに2023年夏より実施されてきたワークショップ「街の中の私たちを再考する」の最終回が行われた。
このワークショップは、YAU STUDIOを拠点に活動するTOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCHが発起人となり、哲学を専門にデザインや編集、探求的なものづくりやリサーチを行うデザインエージェンシー「newQ」と共に実施してきた。これまでにも、newQによるファシリテーションのもと、アーティスト目線で街に作品を展開する意義を考えるために、全4回の輪読会と「問いを立てるワークショップ」を行ってきた。最終回では、それらの報告会を兼ねたディスカッションが開催された。
後半のワークショップ「街の中の私たちを再考する」は、プロジェクトの締めくくりとして、「作品制作によって何を考えてきたのか」をアーティストの側から振り返る機会として開催した。YAUで制作を行うアーティストは、有楽町以外にも活動の場を持っている。アーティスト同士がYAUでの制作を振り返る機会は多くないことから、今回の企画が立ち上がった。
最終回の参加者は、TOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCHから小山泰介、築山礁太、三野新、村田啓、山本華、newQからは今井祐里、瀬尾浩二郎、難波優輝(オンライン)、大島水音(グラフィックレコーディング)、そしてYAUからは中森葉月、長谷川隆三、深井厚志の計12名。モデレーターをアーティストでTOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCH運営メンバーであり、このプロジェクトのディレクションを担当した山本が務め、後半のディスカッションパートでは今井がファシリテーションを行った。
本記事では、YAUを拠点に制作を行うアーティストとYAUを運営する人々が互いに意見を交わしあった、イベント後半のディスカッションの模様をお届けする。
文=Hana Yamamoto(アーティスト)
写真=Tokyo Tender Table
■思考の広がりを促してくれるものとしてのアート
今井祐里(以下、今井):
初めに、このプロジェクトの始まりに立ち返るために、「どうして街に作品があってほしいのか」という問いからディスカッションしていきたいと思います。アーティストのみなさんにとっては「どうして街で作品を作りたいのか」という問いになるかもしれません。
当たり前のように「街に作品があってほしいはずだ」ということを前提にしてしまったのですが、実際はどうでしょうか? みなさん一人ひとりに、おうちから会社までとか、普段からよく行き来している道をイメージしてもらいましょう。なんでも良いので、作品があってほしいと思う方は手を挙げてください。
今井:
べつになくても差し支えないよ、という方は手を挙げてください。ちょっと減りましたね。それぞれ理由を聞いてみたいと思います。
深井厚志(以下、深井。なくても良い派):
自分の通勤経路に作品がなくても困っていないからです。だから、必ずしも通勤経路にあってほしいわけではないのですが、それは「街に作品がなくてもいい」とは違う話だと思っています。僕はアート業界でずっと仕事をしてきたのですが、半年だけIT企業に勤めたとき、アートが身の回りにない生活に耐えられませんでした。
今井:
自分の生活にアートがあることと街にあることを分けて考えていて、生活のなかにはあってほしいけれど、それが会社に通う道すがらである必要はないんじゃないかということですね。他の方にも理由を伺ってみましょうか。
長谷川隆三(以下、長谷川。あってほしい派):
僕はビジネス街にアートが欲しいと考えるとき、ビジネスマンやワーカーにとって、思考の広がりとか思考訓練を促してくれるものとしてアートを捉えています。例えば、三野(新)くんが以前YAUでの展示で発表した仮囲いの作品を見たときは「仮囲いってそういうふうに捉えられるんだ」と思った。石毛健太くんが街路樹についての作品を作るにあたって「街路樹ってなんであるんだろう」という質問をしてきたことも衝撃的だった。それに対する答えを自分は持っていなかったからです。あと、ビオトープを使った小山(泰介)さんの作品は、ビオトープという場所がこの街にあること自体を認知させるという効果もありました。
今井:
思考を拡張したり、これまで気付かなかったことに気づいたりと、思考が拓けていくことに芸術が寄与するから、ビジネス街にアート作品があってほしいということですね。街にあるアートといわれると美しい作品を想像しがちですが、美しいものは「美しい」と思うだけで満足していしまって、じつは思考を広げてくれないかもしれない。むしろ気持ち悪かったり嫌に感じる作品の方が、思考を広げる可能性があるといえるかもしれないですね。
山本華(以下、山本):
以前のワークショップで村山正碩さんの「意図を明確化するとはどういうことか」を読んだ際、アーティストと鑑賞者それぞれの「しっくりくる」という感覚について、多くの問いが立てられました。なかでも「街の人のしっくりセンスにアーティストがどう向き合うか」という問いはもっとも盛り上がったトピックの一つでしたよね。
長谷川:
アーティストがその問いに対してどう答えたのか、気になっています。
今井:
まずアーティストのみなさんに「しっくり」についての実感を聞いてみましょうか。街の人のしっくりセンスにどう向き合うかという話も、ここからつながっていくと思います。
■アーティストの「しっくり」は街の「しっくり」
村田啓(以下、村田):
僕は、丸の内仲通りにある「リガーレ・ベースフラッグ」に掲出する作品の撮影を担当しました。このプロジェクトでは、大丸有エリアを写真と言葉でリサーチし、広告的なフラッグにしています。街に作品があったとして、通り過ぎていく鑑賞者はそれをどう受け止めていいのか戸惑うかもしれないけれど、このプロジェクトでは元からその場所にあるフラッグやブランドの広告枠を使うことで、仲通りを歩く人たちが広告的にイメージを目にします。メディア的なクッションがあることで、街の人にとっての見やすさが担保できるし、過去に掲出されていたものとのズレから作品を昇華することもできます。
築山礁太:
自分が行ってきたYAUでの作品制作は、作品コンセプトも、展示場所についても、白紙の状態からスタートすることが多かった。外から作品を持ってきて設置するのではなく、この街を使っている人たちと同じように街に滞在してきて、街の一員という自覚を持ったうえで作品を作りました。だから、アーティストである自分がしっくりくるものは、街の人が作品を見て感じる「しっくり」にも共通する部分があると思っています。
瀬尾浩二郎:
ここまでの話を聞いて、アーティストは街の持つ歴史性や自分たちのもつしっくりくる感覚を判断基準にしているのですが、一方で街を行き交う人々が持つセンスを判断材料にしていないという印象を持ちました。どうでしょうか?
長谷川:
そうですね。もしも自分たちの考える街にあるべきアートが違和感をもたらすものや思考の拡張を促すものだとすれば、街の人たちが持っているしっくりの感覚に合わせない方がいい。だから「なんで街の人のセンスに対応すべきなのか」という問いが生まれるのは当然だと思います。
今井:
村田さんが仰ったフラッグのプロジェクトは、作品自体は街の人のしっくりを前提にして作ってはいないものの、広告という普遍的なメディアを使うことによって、普段見てるものとの連続性を担保していますよね。そうやって鑑賞の入り口を作ることで、「馴染んでいるんだけど、よく見ると変だし普通の広告ではなさそうだ」という見せ方ができるようになった。
長谷川:
そうですね。現代アートという、現在起こっていることを主題として作られた作品が街に設置される意味を鑑賞者にも伝えるためにも、見せ方の工夫は欠かせないと感じています。
■ここにあるのが正しいからここに置く
今井:
ところで、「丸の内仲通りを歩くとフラッグが見える」とか「このエリアにはこんな歴史がある」などの基礎情報や作品を理解するための文脈は、美術館では固定されていなくて、展示のたびに立ち上げられるものですよね。この企画で行った過去の読書会でも、アーティスト同士の会話で「街に作品を置くことと美術館で置くこととでは何が違うのか」という問いが出ていました。いまみなさんがしている話も、この問いに近い話かもしれません。
深井:
美術館の展示だったら、逆に美術の文脈を踏む必要がありますよね。アーティストがそれぞれの環境で求められるものは違うと思います。
三野新:
自分は原理主義的なので、「アートは現実にしか存在しない」としたうえで、美術館のコンテクストも現実に置くべきだと考えています。私の現実最強原理主義者としての考えは「美術館という制度自体も、現実の上に成り立つコンテクストであるから、美術館における展示も現実のコンテクストを持つ」というものです。先日参加した「サッポロ・パラレル・ミュージアム」(赤れんが テラス、札幌駅前通地下歩行空間など札幌市内各所で開催。2024年)という展覧会で、鑑賞者から「公共空間といわゆるギャラリーとか囲われた空間の中で作品を発表することの違いは何ですか」っていう質問がされたとき、「基本的に全部公共空間を使って展示はされるべき」と原理主義的なことを答えました。現実にあるのが一番大事だからです。
長谷川:
かつて僕が「普通、作品は美術館で見ますよね」と言ったとき、三野くんから「それが普通じゃないんだ」と言われました。これは「どうして街に作品があってほしいのか」という問いに対してのパンチのある答えだなと思います。
今井:
街に作品があってほしい理由は、「ここにあるのが正しいから」ということですね(笑)。
■街の寛容度を拡張する
小山泰介(以下、小山):
少し関連がある話なので、ここでTOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCHが実施している仮囲いプロジェクトについて少し話したいと思います。現在、丸の内パークビルの仮囲いでは児嶋啓多くんの作品を掲出しています。これはグラフィティ色の強いビジュアルで、もしもこれを仮囲いプロジェクトの初回で実施しようとすると、街の人の視点を考慮したときに違和感が強すぎるかもしれない。過去に数回の仮囲いプロジェクトを行ってきたからこそ、現在のグラフィティ的なイメージを展開することが可能になったんです。
小山:
いまでも、企画内容が派手だったりすると「派手さの度合いを抑えた方がいいのでは」という声が企画部のなかで聞こえてくる。けれど、それも1カ月後には落ち着いてくるようになりました。むしろ、風景として馴染んだからといって、作品のコンセプトやアーティストの取り組みが理解されているとはいえない。今後は、この働きかけについて考えていくべきだと思っています。制作段階に関わってなかった人たちにとっては、結果として作られた作品が最初に目に触れるものです。それを、街の人たちにどう知ってもらうのか。ここはまだ改善する余地がある部分だと思います。
今井:
ありがとうございます。街にあるアートが鑑賞者の思考を触発する役割を求められているならば、作品が設置されたときのインパクトや違和感が薄まるにつれて、私は「作品としての旬が終わってしまうのではないか」と思っていたんです。しかし、みなさんの話を聞いていくうちに、馴染んでくることで街と鑑賞者の持つ寛容度が拡張されていくことがわかりました。最初は企画部の内側からも「こんなの置いちゃって大丈夫?」と思われていたプロジェクトが、いざみんなで取り組んでみると「置いてもいいんだよ」「あ、あるね」くらいになっていったりする。そうやってどんどんやれることが広がっていくと考えれば、作品が風景に馴染むことはべつに旬の下りではないということですね。
■その人達がやりたいって言ってるからやってみよう
山本:
私からはこの場を借りて、マネジメントを行なっている中森さんに質問をしたいと思います。アーティストのやりたいことを実現しようとするモチベーションには、何があるんでしょうか?この質問で、べつの角度から「街に作品があってほしい理由」を探ることができればうれしいなと思います。
中森葉月(以下、中森):
はじめに、やりたかったことすべてが実現できたわけではなくて、過去には実現できなかったプロジェクトもあります。YAU STUDIOの中で鷹を飛ばすとかね(笑)。
そもそも、自分の興味には「大きな何かに対して、どのように個人が影響し得るのか」ということがあります。普段、個々人で活動するアーティストと仕事をすることで、ビジネス街におけるいろいろな垣根を超えることができると感じています。
中森:
例えば、有楽町や丸の内では、多くのワーカーが限られたコミュニティのなかで生活しています。合理化のなかでは隣の人が何をやっているかは知らないでいいし、誰かに迷惑をかけないように仕事をしようと気をかけている。そのような社会では、もし「個人の居場所がない」と閉塞感や無力感を感じても、抜け出すには大変な労力が必要になる。けれど、アーティストとプロジェクトを行うことで、その過程で普段出会えないような人の世界を知ったり、近くにいる人が自分と似たような悩みを抱えていることに気付くことができます。これらが大きなモチベーションです。忙しくて死にそうになる時期もありますが(笑)。
今井:
過去に行ったワークショップで、「作家であればみんなイニシエーションを通る」という話が盛り上がったことを思い出しました。いまいちど説明すると、作家として自分の名前を名乗る人っていうのは、自分の作品や自分の表現するものに対して「負うことを決めている」という話です。いま、誰しも発言することに対して怖さを抱いていると思います。それでも、アーティストのような「負うこと」に覚悟を決めている人たちがいるからこそ「その人たちがやりたいって言ってるからやってみよう」「どうやったらこれが実現できるだろうか」という、初めての試みを行う理由が生まれる。先ほど中森さんの仰っていた拡張性は、これまでに行なってきた議論とつながるなと思いました。
■おわりに—— 街の一人としてアートをまなざす
山本:
そろそろ終了のお時間が近づいてきました。じつは、第二回目のワークショップで扱ったテキスト「意図を明確化するとはどういうことか: 作者の意図の現象学」の著者である村山さんが会場にいらしてくれています。おわりに、村山さん、そしてオンラインで参加してくれている難波さんからそれぞれ一言いただいてもいいでしょうか?
村山:
自分は今回のテーマである「どうして街に作品があってほしいのか」という問いに、作品があってほしいと思っている側です。その背景には、自分が住んでいる街が簡単に取り替えられるようなものであってほしくないという感覚があり、作品が存在することで街の意味づけや場所にユニークさが加わると考えているからです。
難波:
自分が住んでいる地域の道で、こどもがチョークを使って好きな絵を描いています。ときどき「風邪に気をつけてください」とか「インフルエンザが流行ってます」と書かれていることもある。もちろん書き手は誰か分からないけれど、それらが自分にとっての街のなかにあるアートの原風景です。このように「私はその作家を知らないけれど、この街に生きて息づいて、ものを作っているんだな」と思ってもらえるような関係性が、街の人と結べるようになればいいのかな、と感じながら聞いていました。