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YAU LETTER《暗がりの記録──未来の環境都市は(アブラムシ)をインクルージョン》渋革まろん

YAUでは、アーカイブの一環として、さまざまなお立場の方にYAUをきっかけとした思考を寄せていただく、「YAU LETTER」プロジェクトを進めていました。YAU編集室に届けていただいたLETTERを順にご紹介します。

YAU LETTER について
書き手の方には、2022年2月から5月に開催された有楽町でのYAUプログラムをご覧/参加いただき、「都市(=東京)について」テキスト執筆をお願いしました。なお、ここで言う「都市」は有楽町に限定せず、YAUプログラムをご覧/参加する際に思いを馳せた場所でも可、としています。

暗がりの記録──未来の環境都市は(アブラムシ)をインクルージョン
渋革まろん

2022年5月22日(日)16時45分。
 男を見た。
 有楽町駅中央口横の高架下、正座で両手をつき地面に頭を擦り受けつける男。彼の前には空の缶詰がひとつ。中には10円玉硬貨がひとつ。私は50円玉1枚と10円玉4枚と五円玉2枚を投入。ジャリラと小さな祝砲。男は恐る恐る顔を上げ、缶詰の穴を覗き見る。貪るように──?
 日本有数のビジネス街としてグローバルな経済活動を牽引する街の暗所で男はなぜ頭を垂れているのだろうか? 謝罪? 懇願? 祈り? あるいは──おそらく偶然にも──皇居の方角に尻を向け、東京ディズニーランドに頭を垂れた姿態から、彼に、伝統的な権威ではなく、資本礼賛を選択させた都市空間の力学を読み取るべきだろうか? 都市空間が形成する文化消費的なアイデンティティは、消費の快楽を享受できない人々、テーマーパークどころかおしゃれな街でショッピングも楽しめない消費者のことを、正常な人間=市民社会の一員とはみなさない、それゆえに──といったような。
 ただ、私はこのような一方的で押し付けがましい解釈を頭の中であれこれ巡らせましたと報告したいわけではない。この日のそもそもの目的はダンサーの倉田翠がこのエリアで働くオフィスワーカーと協働でつくりあげた新作パフォーマンス『今ここから、あなたのことが、見える/見えない』を見ることだった。開演まであと15分ほどしかないというので、私は早足にその高架下を潜り抜けようとしていた。だから、本来であれば、新国際ビルで行われる成果発表公演、あるいはYAUのイベントに足を運ぶという目的からしてみれば、それはほぼ無関係な偶発的な事故のような出来事だった。
 しかし、その不穏な身体との遭遇は、これまで漠然と抱いていた有楽町の煌びやかなイメージを裏切るような、ある種の〈中断〉の感覚を私にもたらしたのも確かだった。高層オフィスビルの建ち並ぶビジネス街、ブランドショップが軒を連ねるショッピング街、あるいは脱炭素社会をリードする環境共生都市──の光によっては不可視化される、労働/消費市場から排除された身体の側から見える有楽町のレイ
ヤーを、その強烈な「パフォーマンス」は高架下の〈暗がり〉を強調することで確かに浮かび上がらせていた。
 突如として現れた光/影の境界線。とはいえ、だからといって、ダイバーシティで包摂&承認される可能性が絶無な“アンダークラス”とのつながりを生むアートの社会的関与が必要だとかなんとか、そういった意見を述べたいわけではなかった。YAUによるいくつかのイベントや展示を体験する中で、私は同じような〈暗がり〉をいくつも発見していたのだった。
 なにしろ、倉田翠&オフィスワーカーの成果発表会からして、「見える/見えない」だ。本作はテナントに空きが出たスキマ時間に潜り込み、まるで他人の“巣”に托卵するカッコウのように、オフィスフロア全体をパフォーマンス空間に変貌させた。
 冒頭、マイクの前に立った女性が、女子校で逆らわずに従順でいることを刷り込まれてきた自分には秘書が適職と思っていまの仕事に就いたのだと荒ぶる様子もなく淡々と語りだすさまに、人事部で新卒の採用面接を担当しているという明るい好青年が面接時の心得を語るさなかにキレキレのポップダンスを踊りだすさまに、“昼”のオフィシャルな空間からは隠されたプライベートな欲望や来歴の〈暗がり〉が垣間見えた。わたしに見えないあなたの〈暗がり〉。それはときに“昼”の世界を揺らし、熱し、脅かす。
 その〈暗がり〉は高層ビルを支えるいくつもの柱が障害となって、客席の位置によって見えるものと見えないものが生まれるパフォーマンス空間の〈暗がり〉と共振した。同時多発的に行われる彼/女らのパフォーマンスは、柱に隠れてその一部しか見えない。しかし、私のここから見えない景色は、別の誰かのそこからは見えている。それは他者の多面性のアナロジーとなる空間だった。表明される他者の〈暗がり〉は見える/見えないの、光/影の固定された境界線を画定するのではなく、多数の観客の想像のまなざしで折り重ねられた、見えると見えないが錯綜するまだら模様のモスグレーを繁殖させる。そこにいる「あなた」に出逢うとはおそらく見える/見えないを分ける“/”の複数性=モスグレーに気づくことなのだ(高架下のあの「パフォーマンス」も、有楽町のモスグレーを繁らせていたと言えるだろうか)。

2022年5月27日(金)18時00分。
 有楽町ビル10階で目にしたシラカン『くじら』(シラカンでは2018年、2020年に上演された作品のリクリエーション)にも〈暗がり〉は潜んでいた。舞台に登場した男女4人は、大量の黒いビニール袋を運んでくる。どうやら彼/女らはこれを処理する義務を課せられているらしいが、女性3人のうち2人は何かと理由をつけて有毒とも噂される得体のしれない“それ”に触れることを拒絶し、覚悟を決めて“それ”の処理を始める女性を穢れたものとして蔑み、差別する。
 空気の詰まった黒い袋を取り囲んで右往左往する人々を描いた本作は、実体のない空気に怯える大衆消費社会の寓話劇を私たちの前に差し出した。しかしそれ以上に、私はその増殖する黒いゴミ袋が、温室効果ガスの削減目標に向けた取り組み、自然に優しいクリーンなエネルギー開発を推奨する環境問題の〈暗がり〉を指差すもののように感じていた。
 この時期、大丸有エリアでは環境共生型のまちづくりを目指して、仲通りのきれいな街路樹、省エネを推進する都市インフラが整備され、2022年6月1日には「大丸有地区グリーンインフラ推進基本方針」(一般社団法人大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり協議会)が策定された。そこで自然、人、空間の多様性はグリーンが象徴する安らぎ・ゆとり・共感・愛着の心地よいイメージに統合されることになった。
 都市と共生可能な自然が、快適さのイメージとステークホルダーの利益を基準に線引される

のは資本主義社会であるのだから──消費者・利用者の快に奉仕するのが資本だから──当然だとしても、2022年5月27日(金)の朝に公開されたインタビューで、経団連会長の十倉雅和がいわゆるカーボンニュートラルを実現するため「原子力をやっていくしかない」と明言していたことが、『くじら』という作品の〈暗がり〉をより鮮明に際立たせた。グリーンインフラによる気候変動アクションが推進されるまちにおいて、原発の放射性廃棄物を想起させる黒い袋は、「人間的な尺度を超えた時間」(梅沢英樹+佐藤浩一《緩慢な尺度において》)で山林を汚染・破壊しながら、何事もなかったかのように忘却されている厄介なゴミの存在を思い出させた。それは脱炭素社会への転換のうちに、原発再稼働を正当化するロジックが内包されていることを明晰に、あるいは暗に、ほのめかしていたのである。
 
 2022年5月21日(土)15時00分。
 〈暗がり〉の喩が連なるにつれて、私の心はある小さなエピソードの方に引き戻されることになった。ヤナギの木に大量発生したというアブラムシの話である。
 石毛健太《"If this tree lives another 200 years, this property value, this hole, this word."について》という奇妙なタイトルの作品が設営されていたのは「三菱一号館美術館広場」の一角だった。真ん中が円形の穴になった正方形のアルミニウムフレームが、一本のケヤキに嵌められている。表面にはドットで書かれた英文が見える。後に作者に聞いたところによれば、上から見るとこのケヤキに関連する資産価値が、下から見るとこのケヤキと作品のパーソナルな情報──作品のタイトル・素材・製作年・作者・ケヤキの高さ・周囲長・座標など──が見える構造になっている、とのことだった。
 タイトルにある、もしも200年後にこの木が生きていたら、というフィクションのレイヤーが付与されることで、アルミニウムのプレートはケヤキを締め上げる小道具としてのイメージを帯び始めているように見えた。ケヤキを締め上げるコルセットは、グリーンインフラ構想が前提しているような自然(グリーン)と都市(グレー)を対立物として捉える考え方ではなく、そのケヤキが人工的に造形された自然のシミュレーションであることを可視化していた。その一方で、200年後というフィクションのレイヤーは、樹木の成長がアルミニウムの枷を飲み込みそのうち浸食してしまうだろうことを想像させる。それは“自然”の意味を再定義するように、自然と都市の調和ではなく、自然と都市の力が相互に浸食しつつも拮抗する不安定な場としての“自然”を生じさせていた。
 その拮抗のバランスが崩れる“事件”があったらしいと、私は2022年5月21日(土)13時00分に有楽町ビル10階のYAU STUDIOで開かれた「公共空間に展開するアートの可能性」というタイトルのトークセッションを聞いたあと、石毛が常駐するYAU STUDIOの一室を訪れることで知った。その部屋で石毛はLEDライトを当てて、ヤナギの木を育てていた。枝に伸びる葉はやや萎れていた。殺虫剤を散布したのもその要因のひとつであるようだった。この木を部屋に持ち込んだ時、アブラムシが大量発生したため、殺虫剤を撒かざるを得なくなったと石毛は教えてくれた。
 それからしばらくして、このアブラムシの“排除”を〈暗がり〉の比喩で記述するのは適切だろうかと私は考えた。高架下の男とアブラムシを都市の裏面に潜む〈暗がり〉の比喩でつなげることはできるだろうかと。
 自然との共生は祝福されるが、人間の心地よいテリトリーを侵食する害虫は駆除される。エコな思想で人間中心主義を脱するとかなんとか言っても、それは一部の人間の既得権益を守るための自然保護に過ぎないと私は言いたくなった。しかし、その私は、その反論が人間と自然の二項対立的なフレームに依拠していることを忘れていた。自然/人間の図式の上に乗る限り、(正常な)人間を自然に属さない特権的な存在者として位置づけていることに変わりはない。
 むしろ、石毛の制作が教えてくれたのは、自然と都市あるいは樹木と人工物の境界が対立する線ではなく、広場、ケヤキ、プレート、アルミニウム、200年後、アート、資産、固有の名前、アブラムシ、殺虫剤といった複数のステークホルダーが相互侵食する不安定な揺らぎのなかで、かろうじて均衡を保っている場である、ということだった。環境の条件が揃えばケヤキは成長してしまい、ヤナギにアブラムシは湧いてしまう。それはまた別の条件に従って抑制され、殺虫される。こうした場のメンテナンスによってかりそめの均衡が保たれる。石毛の制作は通常は──たとえばグリーンインフラの視座からは──不可視化されている相互侵食のプロセスを可視化し、アクティブな状態にするもののように思われた。
 多様なものとの共生という課題は、見えざるステークホルダーの呼び戻しを含意する。グリーンインフラで快適な自然にインクルージョンされる/されないの、“/”に繁殖する敵対と侵食の多面的な〈暗がり〉に目をやること。そこに残された痕跡を追跡すること。

2022年5月27日(金)17時30分。

「あのかたち、わたし見たことがある。」
「うん。」
「この渚の前にあった渚の波の跡がずっと残っているみたい。」
「まさか。」
「人みたいなかたち、してたから、覚えてたんだよね。」
「そっか。そうなのかもね。」
(三野新『ON/OFFの間にある渚のようなもの』)

三野新『ON/OFFの間にある渚のようなもの』はプラ版で仕切られたスペースとそのオモテ・ウラの二箇所に設置された電光掲示板に流れる「戯曲」で構成された展示演劇/演劇展示だった。一つの目の電光掲示板では身元不明の匿名的な誰かのセリフが交互に流れた。もう一つの電光掲示板では、渚ハンター、夫、妻、ツアー客たちが登場し、何かの終末以後を思わせる「渚」観光ツアーの様子が描かれた。
 通常、騒音防止等を目的にした仮囲いは、いずれ建築物の施工が完了したら撤去される。その仮設的な仕切りは施工という目的を達成するための手段でしかない。しかし、もしもそこが永遠に工事中であったならば? 達成すべき目的を持たない仮囲いの内には、なにがどのように繁殖を始めるだろうか? 本作が試みているのは、そうした想像力の実演であると思われた。

「わたしたち、まだ人なのかな。わたしたち自分のかたちをもう覚えていない。」
「僕の手がこんなかたちだったのか覚えていない。」
「すべてが途中までしか思い出せないのかもね。」
「痕跡を探さないと・・・。連れてきたやつが来る前に探そう。」
「まずわたしを触れてみて。」
「どこ。」
「ここ。」
「これが?」
「これは・・・わたしじゃない・・・これは・・・波じゃない?」
(三野新『ON/OFFの間にある渚のようなもの』)

仮設された想像上の「渚」に響く声にはその声が帰属する身体がない。むしろそこに入り込んでくる複数の声が混ざり合うことで、身体=( )の輪郭が多面的に浮かび上がる。この( )を都市という身体を形成するかたちとして読み替えてみよう。そのとき、「渚」という永続的な建設が行われる仮囲いの中は、グリーンインフラのように無数のステークホルダーの多様性を包摂=インクルージョン可能な都市のかたちを意味的に、物理的に、想像的に侵食する不定形のかたちが繁殖する場として浮かび上がるだろう。
 そうしたかたちはそこかしこにあった。高層オフィスビルの建ち並ぶビジネス街、ブランドショップが軒を連ねるショッピング街、脱炭素社会をリードする環境共生都市に残された、インクルージョンの“光”に拮抗する〈暗がり〉の痕跡、すなわち頭を地面にめり込ませる男、秘書化された身体、黒い袋、アルミニウムプレート、アブラムシ……から発掘される有楽町の複数がYAU TENという場において確かにこだましていたのだ。
 ( )の〈暗がり〉に場所を与える。あたながこれを読んでいるそのとき、有楽町の欄外に書き残されたアーティストの言葉、物体、イメージに無用な異物、静かな異形としての場は残されているだろうか? まだそこに「渚」はあるだろうか?


渋革まろん
批評。批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。最近の論考に「灯を消すな──劇場の《手前》で、あるいは?」(『悲劇喜劇』2022年03月号)、「〈家族〉を夢見るのは誰?──ハラサオリの〈父〉と男装」(「Dance New Air 2020->21」webサイト)、「いま、なぜコレクティブか?──『クバへ/クバから』より」(「演劇最強論-ing」webサイト)などがある。


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