「人は見た目」を表現した画家
「外見は内面のいちばん外側」
とはよく言ったものです。
その人の「中身」は少なからず「見た目」に表れます。
私たちが人と対面するとき、まず見た目からその人の性格を読み取ります。
それは生身の人間に対してだけでなく、絵に描かれた人間と対峙するときも同じです。
優れた画家の描く人物像からは、描かれた人物の人格までもがありありと伝わってきます。
まるでその人が目の前にいるかのように。
たとえばこの人物を見て、どんな印象を持つでしょうか。
画家が懇意にしていたローマ教皇、インノケンティウス10世を描いたものです。
絵を見た教皇が「真を穿ちすぎている」と驚嘆したとの逸話があります。
実際の教皇がどんな顔だったのか知る由もありませんが、物凄くそっくりだったことは間違いないでしょう。
教皇は醜男だったようですが、さすがにその点はそれほど強調されていません。
代わりに、嫌というほど伝わってくるものがあります。
人間性です。
立派な椅子に大きな指輪、整った衣装から権力者であることが一目見て分かります。
しかし、その顔からは高貴さのかけらも感じられません。
むしろ豪華な道具立てによって、権力に固執する強欲さが強調され、かえって精神性の卑しさが感じられます。
教皇は眉間に皺をよせ、睨みつけるかのようにこちらを見ています。
こんな目で見られて嬉しい人はいないでしょう。
ちなみに教皇はあまりにも人望がなく、死後3日間は遺体が放置されていたそうです。(この絵を見れば納得です。)
この恐るべき肖像画を描いたのは、17世紀スペインの画家、ベラスケスです。
ベラスケスは庶民の生まれでありながら、その腕一本で宮廷画家に成り上がります。
ときの国王フェリペ4世に寵愛され、画家として、そして優秀な官僚として大活躍。
宮廷画家としては破格の待遇を受けました。
当時の宮廷画家といえば、神話や宗教画が主流です。
そんな中、ベラスケスが得意としたのは肖像画でした。
(宗教画が得意なライバル画家から「顔しか描けない」と揶揄されていますが、完全に僻みでしょう。)
ベラスケスは、王侯貴族の期待に見事に応えました。
大げさな陰影表現はありませんが、国王はスポットライトが当たっているかのような存在感です。
威風堂々たる様子でありながら、国王の人の良さも伝わってきます。
上品な画風のベラスケスですが、ときに容赦なく現実を突きつけてきます。
ベラスケスが描いた晩年の国王です。
先ほどの騎馬像にあった意気揚々とした姿は、もはや見る影もありません。
ベラスケスは、最高権力者である国王に対してさえ、その加齢と失意を隠すことなくさらけ出させます。(恐るべし)
国王は穏健な人柄で人々に慕われたそうです。
ただし、政治家としてはほとんど無能でした。
スペイン王国が全盛期を迎えたのは、フェリペ4世の2代前、フェリペ2世の治世です。フェリペ2世はいわゆる「太陽の沈まぬ国」といわれるほどの大帝国を築き上げました。
しかしその後は、度重なる戦争や交易の利益の減少により、国家財政の危機に直面します。
フェリペ4世の時代には独立運動や反乱が相次ぎ、領土の縮小まで余儀なくされます。
まさにスペインが栄光から没落へ転げ落ちる真っ只中だったのです。
ベラスケスは24歳で宮廷画家になってから61歳で死ぬまで、約40年もの間、フェリペ4世に仕え続けました。
2人はもはや半生を共にしたといえるでしょう。
長い宮廷生活の中、ベラスケスは国王の表面的な華やかさだけでなく、その苦悩に満ちた内面までも見抜いていたのです。
宮廷画家ベラスケスが描いたのは、ロイヤルファミリーだけではありません。
宮廷では、やんごとなき人々の生活を支えるべく、様々な階層の人が仕えていました。
その中の「慰み者」とよばれる奴隷たちの姿を、ベラスケスは残しています。
慰み者となったのは、道化師、そして矮人(小人)などの奇形の者たち。
彼らは王族の子どもの遊び相手をしたり、滑稽な振る舞いで宮廷人を楽しませるために置かれていました。
奴隷制度が当たり前だった時代、彼らは人間というより、ペットやおもちゃのような扱いを受けていたのです。
しかしベラスケスは、彼らを描くときも、王族を描くときと同じように、真摯にモデルに向き合っています。
ベラスケスの描く矮人は、「慰み者」ではなく、1人の人間としての尊厳を維持しています。
ベラスケスは、矮人の外見的特徴を殊更に強調するようなことはしません。
だからといって、その障害を誤魔化し隠すようなこともしません。
彼らはベラスケスの前で何の偏見にも晒されず、1人の人間として、あるがままの姿を残したのです。
ベラスケスの表現は、派手な色使いもなく、ダイナミックな構図でもありません。
正直地味に見えるのですが、その作品は確かな技術に支えられています。
特に見事なのは、なんといってもその筆使いです。
タッチが非常に荒く、近くで見ると何が描いてあるのか分かりません。
しかし絵全体を見ると、全てがきちんと形を成しています。
たとえばこちらのとっても可愛いマルガリータ王女。
衣服のレースや背景の置物などをよく見ると、細かい模様などが大幅に省略されています。
髪の毛は黄色い煙のようですし、緑のリボンはもはや形を成していません。手に持ったマフは、四角い枠を茶色い絵具で塗りつぶしたかのようです。
ところが絵全体が目に入ると、衣装やマフの滑らかそうな肌触りや、髪のふわふわとした触感までも伝わってきます。
拡大すると雑に見えるのに、一歩下がると完璧な姿になるのが不思議です。
枝葉末節を省略したことで、かえってその人の持っている雰囲気やオーラのようなものが伝わってきます。
筆致が荒いのでちゃちゃっと描き終えたかのように見えますが、そんなことはありません。
何度も修正を繰り返し、完成まではじっくり時間をかけています。
もともとこの絵は、左足がもう少し外側にあり、鉄砲は銃口が今よりも長く、腰には巾着袋を提げていました。
なぜ分かるかというと、修正箇所がモロに見えてしまっているからです。(スマホの画面でも明らかに分かるほどです。)
ベラスケスの作品には、修正の跡が肉眼で分かるものが多々あります。
上から塗りなおした絵の具が経年変化により透明になったそうです。
ベラスケスは筆が遅いことで知られていました。
納得いくまで妥協せず何度も描き直し、完璧な表現を追及していたのでしょう。
ベラスケスの絵には、不自然なデフォルメや大げさな感情表現といった過剰な要素がありません。
権力者は権力者らしく、倭人は小さく。
各人の個性を容赦なく描写しつつ、その個性を必要以上に強調することもありません。
だからこそ、その肖像に説得力とリアリティが生まれます。
この人を意地悪な顔にしようとか、馬鹿っぽく見せてやろうとか、あからさまな意図は決してありません。
目の前にいる人間を公平に見つめ、その存在感まで忠実に写し取ったのです。
そしてベラスケスには、モデルをリアルに描けるだけの確かな技術がありました。
人の内面は必ず見た目に表れます。
ベラスケスは、人物を本物らしく描くことで、意図せずしてその人の内面までをも表してしまったのです。