マルセル・デュシャン 世界の見方を変えた男 3
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さて、パリを離れてアメリカへ渡ることを決意したマルセルは、大西洋を船で渡ってニューヨークの地に降り立ちます。1915年のことでした。
新天地ニューヨークに到着したマルセルがまずなにより最初に驚いたことは、なんと自分がすでにここでは有名人であったことでした。ニューヨークの前衛芸術家たちやそれを支えるコレクターやギャラリストたちは(あの「瓦工場の大爆発」を描いた)マルセルを温かく迎え入れます。ニューヨークに居場所を見つけたマルセルは、フランス語のレッスンをしてお金を稼ぎながら英語を習得し、ニューヨークアートシーンにおいて確固たる存在感を示し始めます。
翌年1916年、マルセルはニューヨークにて、独立芸術家協会(Society of Independent Artists)という芸術家団体を共同で設立します。理事会にはアーモリーショーの組織委員たちをはじめとするアメリカの芸術家たちの名前が出揃う中、マルセルは唯一のアメリカ国籍を持たないヨーロッパ出身の理事でした。そこでフランスのサロン・デ・アンデパンダンという展覧会をモデルにしたアメリカ版の展覧会を開くことを企画します。
聞きなれない単語ですが、フランス語のアンデパンダンは英語のインディペンデントにあたり、他者の審査から自立、独立した芸術家たちによる団体という意味です。
アンデパンダンがパリで生まれる以前、フランスでは長い間、国の審査員が作品の選定を行い、その審査に通った者だけが自分の絵を官展と呼ばれる展覧会に展示することができました。そしてそこで画家としての腕前を披露することで芸術家としての仕事が成り立つ仕組みになっていました。けれどもそれだと、急進的な若者や前衛画家たちは、いつまで経っても日の目を見ることはなく、自分の絵の展示さえもままならない始末です。
そこで1884年に官展に落ちた画家のジョルジュ・スーラやオディロン・ルドンなどが共同で組織した団体が独立芸術家協会ソシエテ・デス・アーティステス・アンデパンダン(Société des Artistes Indépendants)でした。彼らは誰にも審査されることなく、誰も栄誉を受け取ることなく、ただ参加費さえ払えば、誰でも自由に作品を出品できる、という新しい展覧会、アンデパンダン展を開催したのです。
そのパリ発の独立芸術家協会をマルセルは友人たちと一緒にアメリカで作り、その独立芸術家展、いわゆるアンデパンダン展を計画します。つまりそれは審査もなく、栄誉もなく、会費さえ払えば、誰でも作品を出品できる、という自由で進歩的な精神あふれる芸術家たちによる展覧会でした。
実際にこの展覧会が開幕する数日前にアメリカはドイツに対して宣戦布告を行い、第一次世界大戦に参戦します。そうした機運の中で、このアンデパンダン展は、独裁を許さず自由と民主主義を求める多くのアメリカ国民に強く支持されます。アンデパンダンの理念は、国民の基本的な人権を認める近代民主主義の前提に根差していました。
例えば、理事の一人であるマルセルが行なった象徴的な仕事の一つとして、民主主義の平等性を示すため、特定の芸術家による特権を許さず、会場に並べられる展示作品のすべてを等しく、アーティストの頭文字のアルファベット順に並べることを提案し、実行しています。
そしてこの時期、マルセルは独立芸術家協会とは別に、もう一つ重要な仕事を併行して進めています。友人らとともに「盲人(Blind man)ブラインドマン」という雑誌を作ったのです。この雑誌は、さまざまな欧米の芸術家たちによる寄稿文が掲載され、独立芸術家協会のアンデパンダン展のオープン初日に合わせて発刊が準備されました。
そして1917年、かつてないほどの巨大な規模の無審査展覧会、アンデパンダン展の準備はちゃくちゃくと進んでいきます。なによりマルセルにとってもニューヨークでの作品発表は、アメリカ中に衝撃を与えたあのアーモリーショーでの「階段を降りるヌード no.2」以来のことです。そして実際にアメリカに移住してから初めての作品発表、ニューヨークのアートシーンでは、あのマルセル・デュシャンが今度はどんな作品を出品するのか、と噂が噂を呼んでいました。
そしてそこでマルセルによって出品されたのが、美術史上、最も悪名高い芸術作品、男性用小便器でした。
この男性用小便器は本来壁にかけられて使用されるはずのものが、横に寝かせた状態で置かれており、側面に「R.Mutt 1917」とサインされています。作者はR. マット氏、記載されたタイトルは「噴水 (Fountain)」でした。
しかし実際には、マルセルによって提出されたこの男性用小便器は展示会場に飾られることはありませんでした。この小便器は展示されていないのです。つまり、観覧者の誰一人として、会場でこの作品を見た者はいません。ではこの小便器はいったいどのようにして人々に衝撃を与え、美術史上にその名を轟かせたのでしょうか。順を追ってみてみましょう。
まずマルセルは、自身が理事を務めるアンデパンダン展に、R.Muttという作家名で男性用小便器を提出します。理事会は提出された小便器を見て、緊急会議を開催、これが芸術作品なのかどうかで熱い議論が交わされた末に、出品を認めるのか否かで理事たちの意見は真っ二つに分かれます。最終的に「不道徳であり下品だ」、「盗作、というか、これはそもそも配管会社が製造したものだ」などの理由でこの出品を取り消します。
本来であれば無審査であったはずのこの展覧会に提出された総計約2500もの作品のうち、唯一このR.マット氏による「噴水」だけがその出品を拒否され、展示されることはありませんでした。そうした理事会の権威的な判断に対して、反対票を入れた数名の理事たちはその決定を不服として独立芸術家協会を辞職します。そしてその中にはマルセル・デュシャンの名前もありました。
マルセルは自ら創設に関わった独立芸術家協会を辞職し、提出した「噴水」は飾られることもなく、これで終われば何もなかったのですが、そうはなりませんでした。
ここで一人の写真家の名前が出てきます。その名はアルフレッド・スティーグリッツ。(一言で言えば、近代写真の父と呼ばれ、写真黎明期に伝説の写真家グループ「フォト・セセッション」を設立し、雑誌「カメラ・ワーク」を発行して、ピクトリアリスムという写真表現を追求し、後にストレートフォトグラフィーという真逆の表現方法に転換、推進し、後世のすべての写真家に影響を与えながら、ニューヨークで「291ギャラリー」というギャラリーを開廊し、写真作品だけでなくヨーロッパの前衛美術を紹介し続け、アメリカの文化開花期のモダニズム運動における中心的な存在であり、また20世紀アメリカを代表する画家ジョージア・オキーフの夫としても知られている人間です。)
さて、観客の誰の目にも触れることなく忽然と姿を消した、その小便器が再び、というか、ここで初めて、人の目に触れることになります。小便器が置かれていたのはアルフレッド・スティーグリッツの291ギャラリー。しかしほぼすべての人がその小便器を目にしたのは、スティーグリッツのギャラリーではなく、スティーグリッツが撮影した小便器の写真が掲載された雑誌「盲人(Blind man)」のページ上でした。
マルセルが発刊した雑誌です。
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