プリニウスの追憶 〜古代ローマの「スイーツ」事情〜
「ねぇ、ママ。何個買っていいの?」
「ケーキなんだから、1つよ」
「ええヤダ! ぼく、チョコレートケーキも苺ケーキも食べたい!」
とあるデパ地下を徘徊していた時、そんな微笑ましい会話が聞こえて思わず足を止めた。
さて、つい先ほどまで高円寺の老舗喫茶店でプリンアラモードに舌鼓を打っていたところではあるが、ショーケースに並ぶ宝石たちが目に入ってしまったのだからしょうがない。
元古代ローマの博物学者プリニウスはそんな大義名分を引っ提げ、<銀座の名店 コージーコーナー>の列に並んだ。しばらくすると、店員が写真付きのメニュー表を渡してきた。プリニウスが外国人だからか、拙い英語で何か伝えようとしている。
察するに、これを見て事前に選んでおけ、ということだろう。
さて、どれにしようか。
舌触りのイイ濃厚なカスタードプリンとクセのない生クリーム、新鮮なフルーツは先ほど高円寺で堪能したばかり。となれば、次はチョコレートケーキといきたいところだ......いや待てばか。今日は<カスタードの日☆>とし、カスタード縛りにすることもできなくはないだろ。となれば、無論シュークリームにいくべきだ。この店の<ジャンボシュークリーム>が私好みであることは、すでにこの舌が体験済みである。
硬いクッキー生地のシュークリームもスキだが、スーパーやコンビニで売られている柔らかい生地のシュークリームもスキだ。いや、どちらかといえば私は柔らかいシュー生地派である。シュー生地を噛んだ時に口端から溢れ出てしまうカスタードを舌先で回収する際に分泌される幸せホルモン(セロトニン、ドーパミン)の量は、半端ではない。そして、その柔らかい生地シューを代表するのが、ここコージーコーナーのジャンボシュークリームなんだ。よし。ジャンボシュークリームは決まりとして、問題は何を組み合わせるか。
ふっ。それにしても、まったくもって不思議である。ローマにいた頃、プリニウスは甘いものにあまり興味がなかったにも関わらず、“この世界”に来てからというもの、ほぼ毎日甘い物を食べている。
この国の甘味、いわゆる「スイーツ」は極上だ。そもそもの食文化レベルが他国に比べ突出しているのもあるが、その中でもスイーツのレベルが異様に高い。しかも単に美味しいだけでなく、団子や饅頭といった<和菓子>、ケーキやマドレーヌといった<洋菓子>、それらを組み合わせた<和洋菓子>(カスタード大福等)など、その種類も他国に比べ豊富である。まさに「スイーツ大国」といえるだろう。
ディスプレイに並ぶ宝石を舐め回すように眺めていると、プリニウスはふと、ローマを思い出した。
裕福な古代ローマ人の晩餐の食後には、必ず果実や焼き菓子などが提供された。
砂糖がなかった時代である。チョコレートが誕生したのも中世だ。古代の甘味料といえば、それは主に蜂蜜、もしくは果物のシロップだった。蜂蜜をふんだんに使った甘いクッキーや、蜂蜜をふんだんに使ったタルトなどは「甘い貴重品(ベッラーリア)」と呼ばれ、“この世界”のように女性たちを魅力した。私もよく見かけたが、お気に入りの奴隷の青年にお土産としてそれらを持ち帰る女性も少なくなかった。
蜂蜜はローマにとってこの上なく重要な甘味料であり、料理に使うソース、スープ、デザートに至るまで様々な食に使われた。特に人気だったのは蜂蜜で甘くした飲み物だ。蜂蜜水や「ムルスム(Mulsum)」という蜜酒である。ムルスムはいわゆる蜂蜜割りのワインで、食前酒としてローマ人に好まれた。だが著書『博物誌』にも書いた通り、口当たりがさっぱりしたワインは蜂蜜とそこそこ合ったが、甘いワインと蜂蜜は相性がまったく良くない。それでも、多くのローマ人はより甘い方を好み、ポピーナ飲食店では甘ったるいムルスムが提供されていた。
甘味が得意ではなかった古代ローマ時代の私でも、好んで食べたスイーツがある。
パンをミルクで浸して焼く、“この世界”でいうフレンチトーストだ。しかも「卵を入れない」というところ以外、“この世界”のフレンチトーストと作り方はほぼ同じである。いやむしろ古代ローマの方が手がこんでいた。なぜなら、フレンチトーストをつくるためには、わざわざそれ専用のパンを用意しなければならなかったからである。専用パンの作り方の詳細はこちらの書籍に書いてあるゆえ、興味があれば覗いてみるといいだろう。
パンが用意できたら固い部分を切り、やわらかい部分をミルクに浸す。そしてオーブンで焼き、最後に蜂蜜をかけて食べるのだ。ここに胡椒をふりかけるのもアクセントになって美味い。
「Excuse me! Excuse me! 」
店員の声で、プリニウスは我に返った。
若い女性店員が強張った表情でショーケースとプリニウスの顔を交互に見る。
プリニウスは列の先頭にいた。思い出に耽っている間に、列が進んでいたのだ。すぐ後ろには、小さな女の子とその母親が目を輝かせながらショーケースを眺めている。
「What would you like to order?」
さきほどの店員よりはかなり流暢な英語のようだが、プリニウスにはわからない。
察するに、「注文しろ」ということだろう。
「ああ、すまないね。では、シュークリームを」
日本語が喋れたことに安心したのか、店員は頬を緩めた。
「ジャンボシュークリームのカスタードですね」
よくわかったな、とプリニウスは感心する。ジャンボシュークリームには他にも<ホイップ&カスタード>やその他限定の味があるからだ。
「ああ、そうだよ。その通りだ。今日は<カスタードの日☆>と決めたんだよ。ハッハッハッハッ!」」
「は、はぁ」
有能ではあるが、どうもユーモアは通じないらしい。
プリニウスは再びディスプレイに目を移した。
さて、シュークリームの相棒はどれにしようか......。
「お客様。他にご注文はありませんか?」
「い、いや待ってくれ。そう急かすな」
思考を巡らせる。
シュークリームの他にカスタード系スイーツといえば<エクレア>が王道だ。カスタードとチョコレートの相性がイイことは当然だが、シュークリームの上にチョコレートをかけるという発想は天才的である。これは19世紀初頭にフランスのパティシエ<アントナン・カレーム>が考案したといわれているが、もし彼がローマ時代にこれをつくっていたら、間違いなく神格化されていただろう。
「ではエク...」
いや待てバカ。
この店には2種類のエクレアがある。通常のエクレア(カスタード)とエクレア(モカ)だ。鉄板のエクレア(カスタード)の隣からチラチラ見てくるこいつも捨てきれない。カフェモカもそうだが、「モカ」の語感があまりにもイイ。よしモカにするか……。
いやいやいやいやいやいやいやいや。バカ。
今日は<カスタードの日☆>なのだ! ブレるんじゃない!
「......え、エクレアでよろしいですか?」
「うん、うん。エクレアにしようかな」
「カスタードの方ですね」
「当然だ。今日は<カスタードの日☆>なんだから」
相棒が決まったことに安堵し、ため息を吐いた、その時である。プリニウスは、エクレアの隣にあるどら焼きのようなものに目が止まった。
〈スフレワッフル(ホイップ&カスタード)〉とある。
こんな商品があるなんて初耳だぞ。
ジョブチューンでやってたか?
しかも、残りあと1つじゃないか。
「おい、このスフレワッフルってやつは...」
「スフレワッフルですね」
店員がプラスチックのトングでスフレワッフルをつかもうとした。
「いやそうじゃなくて。君ね、人の話は最後まで聞きたまえ」
「も、申し訳ございません」
「ジョブチューンで何位これ?」
「はぃ?」
判断材料として、ジョブチューンの情報は当然頭に入れておかなければならない時代だ。
この店員、やっぱり無能かもしれん。
「いやだから、ジョブチューンで何位だったこれ?」
「しょ、少々お待ちください」
店員はそう言うと、きょどりながら店舗の隅にあるパソコンで調べ始めた。
ったく、そのぐらい把握しておけってんだ。
「スフレワッフルは『第7位』でございます」
「7? 結構高いじゃん」
「ただ、味が『宇治抹茶&おぐら』でして」
「ああ、そう」
一瞬、浮気心が芽生えたが、すぐに気を取り直した。カスタードの日☆、カスタードの日☆と心の中で繰り返す。
「また、翌年に行われたリベンジマッチではランク外となっております」
なんだよ、ランク外か...。ランクインさえしていてくれれば迷わず手が出たのだが。大義名分がなくなったことに、プリニウスは落胆した。
だがまぁ、せっかくだ。この新顔(後で知ったが、コージーコーナーの名物商品であった)の味を確かめておこう。
「じゃあ、このスフレ……」
プリニウスが言いかけたその時、後ろにいた女の子がプリニウスと商品ディスプレイの前に体を滑り込ませ、「ママ! 私これがいい!」と残り1つであった「スフレワッフル(カスタード)」をはっきりと指差した。
「ちょっとサチコっ。すみません」
母親が苦笑いを浮かべながら、女の子の腕を引っ張る。
「どうなさいますか?」
店員が妙な眼差しを向けてきた。察するに、子供に譲ってやれよ、ということか…。ざけんな!
「このスフレワッフルのカスタードを1つくださぁい!」
プリニウスは大口を開き、声を大にして言ってやった。フロア全体に響くほどの、そう、軍全体に指令を出す時の声量だ。
ふん。社会はそんなに甘くないんだよ。世の中、自分の思い通りにいかないということを大人は子供に教えるべきなんだ。古代だろうが“この世界”だろうが、人生が思い通りにいかないことは変わらないんだよ、お嬢ちゃん。
プリニウスは心の中でそう呟き、ほくそ笑みながら横目で女の子を見た。
女の子は泣いていた。
大粒の涙をこぼしながら、母親のスカートにしがみついていた。
「あのぅ...」
母親が顔を引き攣らせながら話しかけてきた。スフレを取り出そうとしていた店員の手が止まった。
「なんだい?」
「本当に申し訳ないんですが、これ、譲っていただけたりしませんか?」
「やだよ」
正気かよこの母親は。甘やかすな。
「絶対やだよ。私が先なんだから当然でしょ?」
周囲の視線が私に集まり、重たい空気があたりに立ち込めたが、そんなことを気にするほど私のメンタルは柔じゃない。
結局、母親は素直に引き下がり、店員は箱のボックスにスフレワッフルを入れた。
商品がなくなった陳列棚を見て、私はこれまでにない優越感を抱いた。
「お支払い方法はどうなさいますか?」
「楽天Payで」
「...あ、大変申し訳ございません。現在機械の不具合でお支払いは現金のみとなっております」
「げ、現金のみ!?」
「は、はい。大変申し訳ございません」
現金を持ち合わせておらず(高円寺の喫茶店で使い切っていた)、プリニウスはパニックになる。四肢をバタつかせ、抗議する。
「いや、そうならそうと、張り紙でもしといてくれよ!! どれだけ並んだと思っているんだ!」
怒り、悲しみ、自嘲に憐憫。様々な感情が込み上げた。
結局、駆けつけた警備員に数人がかりで取り押さえられ、プリニウスはコージーコーナーエリアから連行された。
あの少女のけたたましい笑い声が、フロア中に響き渡っている。
Fin.
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