古代ローマの原点: 知られざる古代イタリア最強民族・エトルリアの真実
Introduction
かつて、地中海世界及びヨーロッパの大半を支配していた古代ローマ。
その学術的価値やエンターテインメント性に、古今東西かかわらず多くの人が魅力されています(多分に漏れず、筆者もそのひとり♡)。
しかし、ローマが勢力を拡大する以前、イタリア半島のほぼ全土が、ある民族に服していたことはあまり知られていません。
紀元前9世紀頃にイタリア半島北部で繁栄し、イタリア半島のみならず地中海貿易を支配していたとされる エトルリア人(Etruscans) 。
建築技術、芸術、宗教儀礼、生活慣習など、建国当初のローマは多くの文化を彼らから「輸入」し、勢力を拡大させていきました。
そんなローマ文明の根幹を担ったエトルリア人とは、一体どのような民族だったのでしょう。本記事では、そんな知られざる古代イタリア民族の謎に迫ります。
完璧すぎた地理的条件
肥沃な大地と豊富な水
エトルリアはイタリア半島北部を横断するアルノ川と、中部を流れるテヴェレ川までの地域に暮らしていた民族です。
標高1000メートルを超える高山は少なく、なだらかな丘陵が広がるこの一帯(現在は「トスカーナ地方」と呼ばれる)は、土地が肥えていて農作物がよくできる肥沃な農業地帯でした。
トスカーナ地方は現在でも豊かな自然に恵まれた地域です。
アルノ川とテヴェレ川の支流が何本も走り、ブラッチャーノやヴィーコ、ボルセーナのような湖もあるため水に困ることはありません。
また、この地域には森林も多く、野生の獲物を豊富に得ることができました。帝国期のフラウィウス朝時代(紀元後69年-96年)にはローマの美食家たちがエトルリアの猪『トゥスクス・アベル』を珍重していたといいます。
そして森があるということは、当然、木材も採れます。
これが、後述するエトルリア人による冶金(やきん。鉱石から金属を抽出し、精製して、目的に応じた性質を持つ金属材料を作り出す技術)の飛躍的な発展を促す要因となりました。
鉱物資源
エトルリア文明を支えていたもうひとつの要素は、この一帯で大量に産出されていた鉱物資源です。
イタリア半島西側のティレニア海に浮かぶエルバ島では、「無尽に蔵する(by ウェルギリウス)」といわれるほど、鉄鉱石などの鉱物が大量に採れたことがわかっています。
エトルリアの住居区や墓地から発掘された大量の金属器には、武具や装飾品に加え、鎌や斧、ナイフ、工作用の軽い鋤(すき)が含まれていました。
つまり、豊かな鉱物資源が農業の生産性も高めたことで経済的にも近隣都市を大きく引き離し、エトルリアは実質的にイタリア半島のほぼ全土を支配するほどの帝国築けたのです。
エトルリアの起源
紀元前8世紀頃のイタリア半島に暮らしていた3つの民族、ギリシア人、ラテン人、そしてエトルリア人。
この中でも、エトルリア人に関しては一体どこから来た民族なのか、その起源についてはいまだ専門家の間で議論が交わされています。
リディア説
さまざまな説が飛び交う中で、もっとも多くの人が信じている通説のひとつが、リディア説です。
紀元前5世紀、歴史家ヘロドトスはエトルリア人が小アジア(現在のトルコ西部)のリディアから移住してきた、という説を提唱しました。
ヘロドトスが語るリディア説の概要は次の通り。
紀元前9世紀頃、18年間にもわたる飢饉に見舞われていたリディア王国。国王のアティスは息子のティレーノに全財産を預け、国民の半数と共に海路でイタリアに移住させました(ウンブリアの海岸に到着)。
そして、彼らは民を率いた王子ティレーノの名から、次第に自分たちのことを「ティレーニ」と呼ぶようになります(イタリア半島の西側の海「ティレニア海」の由来といわれています)。
さらに、1885年にエーゲ海のレムノス島でエトルリア語に似た文字が彫られた石柱が見つかったことで、リディア説はより強く主張されるようになりました(リディア説派歓喜!)。
先住民族説
これに対して、アウグストゥスの時代(紀元前27年〜西暦14年頃)を生きたギリシア人のディオニュシオスは、著書「古代ローマ」の中でエトルリア人が外部からの移住ではなく、古代からイタリアの地に定住していたと主張しました。
その主な理由として、エトルリア語が他の既知の言語のどれにも似ていないこと(インド・ヨーロッパ語でない)を挙げています。
以上2つの説は、残念ながらどちらも決定的なものではありません。現在ではエトルリア人の起源は多面的であり、依然としてリディア説も捨てきれないものの、一概にリディアからの移住だけとは言い切れないいう見方が主流となっています。
しかし、起源については解明できずとも、ある1つのことについては明確になっています。
それは、紀元前8世紀頃にはエトルリア人がギリシアやオリエントの世界と貿易を行っていた、という事実です。
豪華な副葬品から見える「エトルリア人の異文化交流」
考古学において、墓の発掘は非常に重要かつ重要な役割を果たしています。なぜなら、墓は単なる埋葬場所ではなく、その時代の人々の生活、信仰、社会構造など多岐にわたる情報を提供してくれる宝庫だからです。
エトルリアについても、各都市で発掘された墓(ネクロポリス)により、彼らの生活様式、そして外来との貿易(フェニキアやギリシアの船乗りがエトルリアの鉱物資源を求めてイタリア半島にやってきていた)など様々なことがわかっています。
また、エトルリアの墓には数々の副葬品が含まれていました。その多くがギリシア人が交換に持って行った品々で、オリエントの象牙、ブロンズ製の大鍋、ダチョウの卵の彫刻など、青銅器から鉄器まで多種多様な物が含まれていました。
レゴリーニ・ガラッシの墓
では、その中からいくつかピックアップしてご紹介しましょう。
まず最初に紹介するのが、ネクロポリスの中でも特に有名な<レゴリーニ・ガラッシの墓>です。
この墓はエトルリアの都市カエレ(現チェルヴェテリ)にあるネクロポリスで発見されました。紀元前675〜650年ごろに造られたと推定されています。その副葬品の豪華さなどからみても、当時のエトルリア貴族の墓としては非常に重要な発見でした。
また、その面積は400ヘクタール(サッカーコート約560面分!)にわたって広がっており、現代でも都市界隈の情景の特色となっています。
レゴリーニ・ガラッシの墓からは、以下のような貴重な品々が発見されています。
【黄金の装飾品】
ネックレス、ブレスレット、イヤリングなど、様々な種類の黄金の装飾品が出土しました。これらの装飾品には、精巧な彫金や粒状の装飾が施されており、当時の工芸技術の高さを物語っています。
【武器】
剣や盾など、当時の武器も出土しました。これらの武器は、貴族の身分を示すものであり、彼らが戦闘にも参加していたことを示唆しています。
【陶器】
日常生活に使用されていたと思われる陶器も出土しました。これらの陶器は、エトルリア人の生活様式を知る上で重要な手がかりとなっています。
ちなみに、この名称は墓を発見した2人の考古学者、レゴリーニ(Regolini)氏とガラッシ(Galassi)氏に由来しています。
3000年前の歯科治療
信じられないことに、ネクロポリスからはこのような歯の矯正装置も発掘されています(人類史上初のブリッジ?)。
発掘されたミイラや人骨の中には、歯に金製のワイヤーや帯金が取り付けられているものが多数見つかっており、驚くほど先進的な歯科治療の証拠が発見されています。エトルリア人が歯並びの改善を意図していたのか、あるいは単に歯の欠損を補う目的だったのかは明確にはわかっていませんが、この発見から、彼らがかなり早い段階で歯や口腔内の健康や見た目に関心を持っていたことが伺えると同時に、エトルリア職人たちの卓越した金属加工技術と医学的知識は、私たちの想像をはるかに超えていたことを物語っています。
ブロッケ
紀元前675〜650年ごろ、エトルリア人は独自の陶器「ブッケロ」を発展させました。
ブロッケとは黒色の光沢をもつ陶器の一種で、その独特な黒色と洗練された形状は現代においても高い芸術性を評価されています。
通常、小型の陶器のカップやボウル形状をしており、精巧な装飾と造形が特徴的です。これらの器は単なる飲酒具ではなく、社交的な儀式や饗宴の重要なアイテムとして機能していました。エトルリア人は飲酒を飲食行為以上のものと捉え、知的な対話や文化的交流の機会として重視していたのです。
ブロッケはフランスのプロヴァンスやスペインのカタルーニャ、そしてフェニキア人の都市カルタゴでも大量に見つかっていて、ヘラクレスやアキレウスなどギリシア神話に由来する情景の装飾が確認されています。
ヒョウの壁
『ヒョウの壁』はエトルリア人の埋葬者の葬儀の饗宴シーンを描いたフレスコ画です。紀元前5世紀頃に描かれたとされています。19世紀にエトルリアの古代都市タルクィニィに近いネクロポリスで発見されました。
上部に不滅を表すヒョウが描かれ、宴席の男女はみな月桂冠を被っています。また、右端の男性は「再生」のシンボルである卵を持っています。
エトルリア人とローマ
さて、海陸問わずギリシア人やオリエントと盛んに貿易してきたエトルリア人ですが、彼らはいつ、どのようにしてローマと出会い、そして吸収されていったのでしょう。
この章では、エトルリア文化がローマに与えた多大な影響に焦点を当て、ローマ文明の形成過程におけるエトルリアの役割を考察していきます。
ローマ王政期におけるエトルリア人の支配
ローマはイタリア半島中部、テヴェレ川のほとりに建設されました。
ここは北のエトルリア人と南のギリシア人が貿易を行う中間地点。多くの商人が行き来していたため、イタリアに点在する小さな都市のひとつでしかなかったローマであってもその名はエトルリアにまで知れ渡っていました。
紀元前6世紀、エトルリアの都市タルクィニアに住むある夫婦が荷馬車に家財を一式詰め込み、ローマに向け出発しました。
男の名はタルクィニウス・プリスクス。のちの5代目ローマ王となる人物です。
タルクィニアの富豪だったプリスクスでしたが、父親のデマラトスはコリント人でした。つまり、ギリシアからの移住者です。外国人をなにかと差別しがちだったタルクィニアでは、純血ではないプリスクスは政治的な地位に就くことが難しく、新たな天地を求めて妻と共に移住することを決意したのです。
やがてプリスクスが王に抜擢されると、そこから3人連続でローマ王はエトルリア系となります(タルクィニウス・プリスクス → セルウィウス・トゥッリウス → タルクィニウス・スペルブス)。
技術・文化の輸入
エトルリア人の王が統治した時代に、ローマには同じエトルリア人の職人たちが多く流入してきました。各王は彼らとともに、エトルリアの最先端のインフラ技術、そして文化をローマに取り込みます。
たとえば、プリスクスはカピトリーノの丘を整備してユピテル神殿を建設。以後、そこはローマの宗教的中心地となりました。また、6代目の王セルウィウスはローマの7つの丘を城壁で囲み(セルウィウス城壁)、ローマに初めて下水道(クロアカ・マキシマ)を建設するなど、彼らはインフラの整備、そして神殿の建設に着手しました。
彼らの事業は、都市ローマの文明構造に本質的な変革をもたらしたのです。
社会制度と習慣
エトルリア人の社会制度や慣習も、ローマの上層階級や政治制度に影響を与えています。
たとえば、古代ローマでお馴染みの剣闘試合の文化はエトルリアからの輸入といわれています。このようなエトルリア人が好んだスポーツや娯楽、特に戦車競技や剣闘士の試合はローマで発展し、非常に人気のある娯楽となりました(ただし、確たる証拠はないため、あくまでも通説です)。
また、エトルリアの高貴な身分に対する社会的な尊重や、豪華な葬儀や祝祭の慣習もローマ社会に受け継がれ、社会的な儀礼や習慣として根付いていきました。
たとえば、ローマ人が食事の際に寝そべって食べる風習。これはエトルリア人から取り入れたと考えられています。さきほどの『ヒョウの壁』から見てわかるとおり、エトルリアの墓の壁画には食事や宴会の場で半ば寝そべった姿勢でいる男女が描かれていますが、これはエトルリア社会での一般的な食事スタイルであったことを示しています。
ローマ人はこの習慣を取り入れ、上流階級を中心に寝そべって食事をする文化が広がりました。特に、ローマの貴族たちは「トリクリニウム(triclinium)」と呼ばれる食堂で3つの寝台を配置し、そこに寝そべって食事を楽しむ形式を好みました。
この寝そべって食事をする風習は、ローマにおいて上流階級や贅沢な宴会の象徴となり、贅沢や裕福さを示すための社交儀礼ともなりました。
軍事技術と武器
最後に、エトルリアの軍事について。
エトルリア人は都市国家ごとに分かれた独立した社会を築いていましたが、それぞれが堅固な防衛体制を整え、特に防御面で優れた技術を持っていました。
防御技術
多くのエトルリア都市は山の上に築かれ、高さと厚みのある石の城壁、得意のエトルリアアーチを取り入れた城門を構築していました。エトルリアアーチは敵の侵入を防ぐだけでなく、長期的な都市防衛のための堅牢な基盤となり、ローマが後に築く要塞都市の構造にも影響を与えました。
武器と防具
エトルリア人の金属加工技術は、当然武器の製造にも活かされました。
彼らが使用した主な武器は青銅製の剣、槍、ダガー(短剣)など。これらは戦闘での強度や耐久性が求められました。
防具についても、青銅の胸当てやヘルメットが一般的でした。ヘルメットは戦士の頭部を保護しつつ、視界や動きの自由を損なわないように設計され、これらのヘルメットや胸当ては芸術的な装飾が施されることもあり、戦士たちにとって誇りと威信の象徴でもあったと考えられています。
戦術と部隊編成
エトルリア軍は戦車を使った戦闘に長けていました。戦車は平地での機動力を活かし、戦場を駆け巡ることで敵を混乱させるために使用されました。戦車上では弓や槍を扱う兵士が配置され、遠距離攻撃を行う一方、敵の前線を崩すための突撃にも使われました。
この戦車戦の技術は後にローマに影響を与え、特にローマの貴族階級がスポーツとしての戦車競技を楽しむ文化にもつながりました。
まとめ
エトルリア人は、政治、宗教、建築、芸術など、さまざまな分野でローマ文化の形成に深く関わり、その多くの要素がローマに継承され、やがてローマ帝国の繁栄とともに広がり後世に多大な影響を与えることになります。
エトルリア人から受け継がれた文化は、ローマ文明の特徴として色濃く残り、西洋文明の根幹に寄与したのです。