【古代ローマ用語解説】属州(provincia
古代ローマにおける「属州」とは、古代ローマが自分の領土として支配していたイタリア半島以外の異民族の都市を指します。ローマの本国以外にあり、ローマが戦争や外交で手に入れた地域を属州として管理しました。
これらの地域では、ローマが指定した総督(属州総督)が統治し、そこから税金や資源を集めてローマの発展や防衛に役立てていました(もちろん、自分の懐にも入れていました)。属州はローマの一部ですが、現地の人々の文化や習慣もある程度尊重され、ローマの法律やインフラが徐々に広がっていきました。
属州の誕生と発展
属州のラテン語である「プロヴィンキア(provincia)」は、元々は「任務」や「職掌」といった意味を持ち、ある官職に任された行政地域を指しました。しかし、ローマが地中海世界を征服し拡大する過程でこの用語はローマの支配下に置かれた異民族の土地を意味するようになり、やがて「ローマの属州」として確立しました。
属州は共和政期から帝政期にかけて発展・変遷していきましたが、その特徴はローマによる間接的な支配、現地の伝統的な統治機構の尊重、そして税収や資源の提供といった点にありました。属州ごとに独自の社会制度や文化が存在し、ローマはこの多様性を容認しながらも、属州からの税収や人材の供給、軍事的な駐屯地の設置などを通じて、ローマの利益を確保する体制を整えたのです。
歴史の教科書では、ローマが最初に獲得した属州は第一次ポエニ戦争(紀元前264~241年)後にカルタゴから奪ったシチリア島と記載されています(しかし、当時はそのシステムがまだ確立されていなかったので、のちのローマ属州とは別ものと考えた方がいいです)。このシチリアをきっかけに、サルディニア島、コルシカ島、さらにスペイン半島など地中海周辺の地域が次々と属州に編入されていきます。征服戦争の後、新たな領土は属州として整理され、元老院または皇帝が任命した総督によって統治されることとなりました。
総督には、通常「プロコンスル」または「プロプラエトル」といった肩書が与えられ、軍事力を行使しながら属州を支配しました。
ただし、総督の権限は現地での統治と軍事的防衛に限定され、属州内での法や習慣はできる限り現地の伝統を尊重することが求められました。このようにして、ローマは一方的な支配ではなく、緩やかな形で地域の自治を容認しつつ、自らの統治の安定化を図ったのです。
また、属州はローマ軍の駐屯地としての役割も果たしていました。
辺境の属州では、現地の治安維持や周辺部族の侵入防止のためにローマ軍が常駐し、防衛ラインを構築しました。これは特にゲルマニアやブリタンニアといった北部地域、そして東方のパルティア帝国との国境付近において重要でした。こうした属州の防衛体制により、ローマは広大な領土を安定的に維持することができました。
重すぎる税
ローマ帝国にとって属州は、財政の基盤となる税収を供給する存在でした。属州からは「固定税」(tributum solis)や「人頭税」(tributum capitis)と呼ばれる税が徴収され、それぞれの属州の経済規模や生産力に応じて納税義務が課されました。特にエジプトなどの豊かな属州では穀物や金属資源が多く産出され、ローマ本国にとって経済的にも軍事的にも重要な拠点となりました。
属州の税収はまず「元老院」が統括し、その地方には「総督」が派遣されて統治と税の管理にあたりました。しかし、実際の税の徴収は総督自身が行うのではなく、富裕層の「騎士階級(エクイテス)」の請負人に委託されることが多かったのです。騎士階級は商業や財政で力を持っていたため、彼らは属州での税収の確保を担当し、その代わりに徴収した税の一部を利益として受け取りました。
この請負制度のため、騎士たちは利益を上げるために過剰な税を徴収し、結果として属州の住民には「重税」が課されることがしばしばありました。重税は属州の住民にとって大きな負担となり、不満が高まる原因となりましたが、ローマ本国の財政はこの税収によって支えられていたのです。
属州の社会と文化
ローマ帝国においては、属州の住民も「ローマ市民権」を獲得できる可能性がありました。市民権の付与は属州の人々にとってローマへの忠誠心を高めるものであり、ローマは徐々に属州のエリート層へと市民権を拡大していきます。特にカラカラ帝(紀元212年)による「アントニヌス勅令」以降に顕著となり、帝国内の全自由人にローマ市民権が与えられるに至りました。
ローマは属州の伝統や信仰を尊重しながらもローマ風の都市インフラや建築、法律、言語を導入しました。例えば、属州にはローマ風のフォーラム(広場)や劇場、浴場が建設され、ローマ式の市政運営が行われていましたが、その一方では現地の神々や宗教祭儀も広く容認され、ギリシャやエジプトの神々がローマのパンテオンに組み込まれることもありました。このような文化の融合は「ローマ化」(ロマニゼーション)と呼ばれ、単純な征服や抑圧ではなく、互いの文化的伝統の融和によってローマ帝国は成り立っていたのです。
属州統治の変遷と衰退
帝政期に入ると、属州の統治は皇帝の直接管理のもとで安定が図られるようになりました。属州は「皇帝属州」と「元老院属州」に分類され、軍事的に重要な属州は皇帝が直接監督する形で統治されました。
皇帝属州には大規模な軍隊が配備され、皇帝が任命する「レガトゥス」(総督)が統治を行いました。一方、元老院属州は比較的平和な地域が多く、元老院が任命したプロコンスル(前執政官)が治めました。
しかし、3世紀に入るとローマ帝国は経済的・軍事的な困難に直面し、属州の安定が揺らぎます。属州の負担が重くなり、地方の反乱や蛮族の侵入が頻発するようになったのです。属州住民の不満も高まり、これに対処するためにディオクレティアヌス帝による「四分統治制」(テトラルキア)が導入されましたが、ローマの支配力は徐々に弱まっていきました。
最終的に、西ローマ帝国の崩壊とともに、多くの属州は自立した王国として独立し、古代ローマの属州制度は終焉を迎えました。