女性日本画家-池田蕉園の画業
女性日本画家-池田蕉園の画業
池田蕉園(しょうえん-榊原百合子/1886-1917/風俗・美人画)
蕉園は、明治から大正にかけての女流日本画家浮世絵師、日本画家。
美人画にすぐれ、多くの挿絵も手がけている女性日本画家だ。
経歴とアートワーク
その池田蕉園は、同じ水野年方の門下(慶斎画塾)であり、同門の日本画家の池田輝方の妻である。(1911年-明治44年、結婚)
1903年(明治36年)、池田蕉園は、鏑木清方の主催の研究会(鳥合会/うごうかい)のメンバーに、吉川霊華(きっかわ れいか、1875年(明治8年) - 1929年(昭和4年)/明治大正の日本画家)たちとなる。
1906年(明治39年)より「女学世界」「女鑑」「少女世界」「少女画報」などに挿絵を描いた。
1909年(明治42年)からは、師・水野年方が死去(1908-明治41年)したため、夫の池田輝方とともに川合玉堂(かわい ぎょくどう、1873年(明治6年)- 1957年(昭和32年)/明治・大正・昭和に活動した日本画家)に師事している。
文展で受賞を重ねる、そして、逆境を芸術に・・
1907年(明治40年)からは、文展で受賞を重ねる。
1911年(明治44年)、日本画家の池田輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)- 1921年(大正10年)/明治、大正の浮世絵師、日本画家)と結婚。
(註)師-水野年方の立会いのもと、池田輝方と婚約するも、その直後に輝方は別の女性と失踪している。蕉園は、しばらく作品制作から3年間の空白の期間だった。その経緯から、造形美が、蕉園独特の甘く、また、感傷的な作風へとフェーズ されている。
そして、上記の1911年(明治44年)、放浪から輝方と結婚、輝方も蕉園同様に文展で受賞を重ねた。また、夫婦で屏風や双幅を合作も著名であり、「おしどり画家」と呼ばれた。余談だが、逆境を芸術でプラス面に展開している。この強さは、上村 松園(うえむら しょうえん)にも通じるところがあるようだ・・・
もの詣で
第1回文展の「*もの詣で」は、三等賞を受賞、以後第10回(大正5年)まで毎回出品して、(第7回展を除いて)、晩年まで受賞を続けた。しかし、1917年(大正6年)には、亡くなっている。
(註)*もの詣で:この作品は、近年、114年ぶりに発見された幻の作品と言われた。右側「もの詣で」左側「春の日」池田蕉園 福田美術館蔵
左側「春の日」が加えられ、二曲半双の屏風 となっていた。
右側「もの詣で」左側「春の日」池田蕉園 福田美術館蔵
1916年(大正5年)、文展-第10回展の「こぞのけふ」は特選となり、そこから、上村松園と並ぶ「閨秀美人画家」(けいしゅう/学問や芸術に特にすぐれた女性)として知られることになる。
西の上村松園、そして、東の蕉園
浮世絵の系統を引く美人画を多く描き、浪漫的な作風により、西の上村松園(うえむらしょうえん)に対して、東の蕉園(しょうえん)と言われるまでに、早期になっていた・・・
1917年(大正6年)、当時のはやり病でもある、肋膜炎により31歳で没、夭折にも、まだ、31歳であった。
また、池田蕉園は、伊東深水や竹久夢二に影響を与えた日本画家であった。
そして・・・
1921(大正10)5月6日(金) 、夫の日本画家の池田輝方が死去する、同じ肺結核で没した、やはり夭折であり、38歳であった。
画業には、共同制作も含まれ、おしどり夫婦と言われた。
池田蕉園、池田輝方の合作も・・
池田蕉園、池田輝方の合作彩画「相合傘」-1914年(大正3)
池田蕉園と、その夫の池田輝方の作品と周辺
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