住井すゑ-反骨の作家
住井すゑ(1902‐1997、本名は犬田すゑ)
牛久沼の畔で、農民文学運動を続けた作家だ。今回は、先日の小川芋銭(日本画家-牛久沼での制作)の流れから、住井すゑに至った。
自宅庭に学習舎である抱樸舎(ほうぼくしゃ:1978-)を開き、平等思想の学習の場、文化交流の場を提供した。
その著書には「橋のない川」(同和問題を扱った大河小説-新潮社)、「住井すゑ対話集」「向い風」「野づらは星あかり」「夜あけ朝あけ」「牛久沼のほとり」(エッセイ集)などがある。
1902年、奈良県磯城郡平野村(現:田原本町)生まれ。田原本技芸女学校在学中から「少女世界」等の雑誌に投稿をはじめる。
1919-1920年、17歳で講談社の婦人記者、ただ、一年で退社した。
1921年、19歳で農民作家犬田卯(いぬたしげる:1891-1957、小説家・農民運動家)と結婚、農民・婦人運動に関わる。
1929年、「大地にひらく」読売新聞創設55周年記念懸賞小説2位となる。
1930-1931年、「無産婦人芸術連盟」機関誌「婦人戦線」に寄稿している。
1935年、夫の郷里でもある茨城県牛久沼畔(小川芋銭の宅の近くだ)に移り、四人の子と病身の夫(犬田卯)を抱え、執筆と農耕で生計をたてる。
1940-1942年、農婦譚、子供の村、土の女たち、子供日本、を出版、刊行する(青梧堂-せいごどう)
1943年、「大地の倫理」(長編)を日独書院から刊行。小学館の児童雑誌、教育雑誌に童話など、多くを執筆。NHK「文芸放送」に採用される。
1948年、「飛び立つカル」三省堂の国語教科書に掲載される。
1952年、「みかん」で第1回小学館児童文化賞(文学部門)を受賞する
1954年、「夜あけ朝あけ」(長編)、新潮社。そして、第8回毎日出版文化賞受賞
1958年、「向い風」(長編小説)を大日本雄弁会講談社から刊行。
この時期に、住井すゑと文学の位置づけが定着されている、錚々たる経歴だ。
1959年、夫の納骨の日に部落解放同盟を訪ね、大河小説「*橋のない川」に着手する。そして、「*橋のない川」が部落問題研究所の雑誌「部落」に22回連載された。
1973年、「*橋のない川」第一部から第六部を刊行。そして、筆を置いたのだが・・
1982年、絵本集等、数多く刊行している。(河出書房新社)
1992年、講演「九十歳の人間宣言 - いまなぜ人権が問われるのか」(日本武道館)、この年、90歳で「*橋のない川」の第七部を完成した。
1997年(平成9年)、牛久沼畔にて死去、95歳だった。
最期の原稿には、「*橋のない川-第八部」と書かれたまま、後は空白だったと言われる。第八部は、構想のまま、未完の章となったという事だ。
住井すゑ作品集より
「戦争中の十七、八年は私たち童話を書く人間も集められて、『童話は国策に沿って、国のためになるような童話を書け』と言われました。ある時は大蔵省、それから情報局の両方から呼び出されて・・・命令通りに書かなければ雑誌の紙をくれない、単行本出すにも紙をくれない、といじわるしたからねえ、だから気の弱い人は翼賛会や情報局のいう通りになりましたよ。そういう会合でもそいつらと喧嘩したのはやっぱり私一人でした。」(引用:「住井すゑ作品集」第8巻収録「時に聴く-反骨対談」-人文書院)
晩年まで、正義を感じる、反骨の作家だ。そして、本来的な民主主義は大切だという事だろう。
前述したが、小川芋銭の牛久沼の畔の近くに住む自然、農業と共存した作家の流れで「住井すゑ」に視点を置いた。
(註)「*橋のない川」は、差別を描いた小説であり、水平社宣言(日本当初の人権宣言)でまとめられている。
(追記)住井すゑさんから、だいぶ以前になるが、お話を伺った事があった。そのお話の中で、「すべての人に平等なものは時間だ」と言う、その言葉が、今でも印象的だった。
1935年以降、60年間、牛久の小川芋銭宅の近くにお住まいになられて、執筆と農作物自給生活の拠点とされていた。その代表作「橋のない川」はこの地(牛久沼)で執筆されているところからの今回の記事である。
その後日談として、その時の編集者の方から、住井すゑさんと同じ視点の方向性のご子女もいたのだが、そうでないお子さんもいらして、子供さんは親御さんのレッテルを学校でも貼られて、ご苦労があった旨、伺った。親子と云え、思考はそれぞれだという事だろう。