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フランツ・クライン:一夜漬けの抽象表現主義
フランツ・クライン(Franz Kline):一夜漬けの抽象表現主義(Abstract expressionism)
一夜にして、核となる抽象表現主義の画家としての地位を確立した、それは、1950年、フランツ・クラインが40歳の時だった。
フランツ・クライン(Franz Kline,1910-1962/アメリカの抽象表現主義の画家-アクションペインター)
1940年代から1950年代の*抽象表現主義運動に関する画家であり、New York School(ニューヨーク派)の中心核となる人物だ。
(註)*抽象表現主義:第二次世界大戦後のアメリカ絵画の芸術運動で、それまでの国際的な影響力のある、西洋美術界の中心核を欧州のパリから、ニューヨークに据えて発生したアメリカの美術運動。
かんたんに言うと、抽象表現主義はアートの拠点パリから、New Yorkに変えたと言うことだ。
そのAbstract expressionism(抽象表現主義)は、ロバート・コーツ(Robert Myron Coates,1897-1973/作家・美術評論-ニューヨーカー誌)によって1946年頃にキーワードとして適用された。
1950年、フランツ・クラインは40歳になり、マンハッタンのCharles Egan Galleryで、彼のアート・キャリアで、最初の個展を開催した。そこで、抽象表現主義の栄誉のある地位を獲得し、そのスタイルの最も象徴的なモチーフの1つにランク付けされた。それは、白の密集したフィールドに埋め込まれた、突き出た交差する黒のビームであり、印象に残るダイナミックな抽象化作品だった。
その迫力は、前述したが、それにはサイズも影響するだろう。それは、巨大な大きさだ。
そのクラインは、抽象表現主義の時流に、彼の全速力で到達した時、今まで、それを動かした人々に平等に受け入れられたという点で独特であり、ある意味、表象の平等性もあるのかも知れない。そこは、ニューヨークであるからかも知れない。
その抽象表現主義の原動力は、ランダムになるが、アーシル・ゴーキー、ジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコ、クリフォード・スティル、レイモンド・パーカーたちであった。
by Franz Kline
・フランツ・クラインのアートワークを振り返ると・・
1938年、フランツ・クラインが、ニューヨークに到着した当時は、そのエネルギーをアシュカン・スクール(アシュカン派)の表象スタイルだった。
1946年頃、ウィレム・デ・クーニングたちのアーティストと知り合った後、暫定的な適合(お付き合い)で抽象化をアプローチした。
1949年頃、フランツ・クラインが長年行ってきた、インクの研究が、彼は拡大すると抽象的であるだけでなく、印象的な組み込みのスケール感も持っていることに気づいた。(作品参照)
そして、1950年、一夜にして、核となる抽象表現主義の画家としての地位を確立したと言うことだ。
Franz Kline
ただ、それまでに、フランツ・クラインが、多くのペインティグの材料研究がここで奏したと言う事だろう。
「抽象画家フランツ・クラインの苦難の人生」に続きます。お時間の許す折に・・・
以下、抽象表現主義の流れのご参考まで(ずらっと、たくさんあり過ぎですが・・)
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