女流画家 上村松園-明治のジェンダー
日本画家であり、美人画の大家だ、そして、男尊女卑だった明治のジェンダーと言えるのかも知れない。女性として、初の文化勲章受章している。
上村松園(うえむら しょうえん、1875- 1949)日本画家。本名は上村津禰(うえむら つね)
1875年、明治8年の京都下京に生まれる。
京の伝統文化に育まれ、明治・大正・昭和を通して生涯、女性を描き、美人画の大家と呼ばれた。
後日、その美人画に対しての、概念は以下のように語っている。
「清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」上村松園
「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」上村松園
それは、松園の絵画という表象で語っている。
(c)上村松園
Fig.上村松園 LIFEより引用
略歴-上村松園
1875年(明治8年)、京都の下京区四条通御幸町の葉茶屋の次女として生まれる。
1887年(明治20年)、 京都府画学校(京都市立芸術大学)に入学、四条派の鈴木松年(京画壇の大家,1848-1918)に師事。
1890年(明治23年)、第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒状受賞(ヴィクトリア女王の三男アーサー王子が購入して著名となる)
1893年(明治26年)、幸野楳嶺(こうのばいれい-日本画家)に師事。火事のため高倉蛸薬師に転居。市村水香(幕末-明治時代の儒者)に漢学を学ぶ。
1895年(明治28年)、 幸野楳嶺の死去にともない、竹内栖鳳(たけうちせいほう-京都画壇の大家/文化勲章)に師事する。
1902年(明治35年) 、長男、上村松篁(うえむら しょうこう-日本画家、1902-2001)が誕生。その父親は、鈴木松年と言われる。未婚の母となる訳だ。その上村松篁の子供は、上村淳之 氏(うえむら あつし-日本画家/教育,1933-)である。
1914年(大正3年)、間之町竹屋町に画室竣工した。初世金剛巌(能楽師)に謡曲を習う。
1934年(昭和9年)、 母である、上村仲子死去。
1941年(昭和16年)、帝国芸術院会員となる。
1944年(昭和19年)、 帝室技芸員。
1945年(昭和20年)、第二次大戦のため、奈良平城の唳禽荘(れいきんそう)に疎開。
1948年(昭和23年)、文化勲章受章(初の女性)
1949年(昭和24年)、死去、74歳だった。従四位。
時代が違うと言えば、それまでだが、上村松園には、グローバルに活躍して欲しかった画家の1人だ。
毎回繰り返すが、現在も、画商の間では、松園の絵画は高評価を得ているのだが、高価という価値は、上村松園の望むところではなかったはずだ。
(追記)上村松園の子息が、上村松篁(芸術院会員)であり、孫には、上村淳之氏(京都市立美術大学教授/芸術院会員、1933- )となる訳だが、その世界(画壇)のいわゆる流れの、お手盛りではないと言う事を申し上げたい。上村 淳之氏は、*特別科学学級に籍を置いていた。そこには、才能と感性の流れを感じる。
余談になるが、その*特別科学学級では、同郷の伊丹十三(映画監督・俳優・作家、1933-1997)もそうだった。晩年、日活の伊丹十三のスタジオでは、AVIDのフィルム・コンポーザーが映像編集のために置いてあった、科学学級からの流れで、ここにも学際(がくさい:知の共有)と言われる「芸術と理系」の部分がその時、感じられた。「イメージと文化」という事で加筆したが、また、話が飛んでしまった。
(註)*特別科学学級:戦時中末期に日本を担う優秀な人材育成の場であり、エリートの英才教育が実践された、そして、戦後の日本を担う、高度経済成長及び、文化面において牽引した。